1-1-2

 苗字名前は、灰色のような日々を送っている。
 薄暗い室内で、目覚まし音よりも早く目が覚める。起き上がれる気にはなれず、布団の中で朝が来ることから逃げるように蹲る。目を瞑っても二度寝することは出来ず、ひたすらに光から遠ざかるように縮こまった。不安と悲しみ、自己嫌悪と自己否定の嵐で頭の中は暴風雨状態になる。頭をシーツに押しつけて、過ぎ去るのを待ち続ける。
 やがてカーテンの隙間から、光が漏れ始める。朝が来てしまった。また、新しい一日が始まってしまう。絶望にも似た感情を抱きながら、布団から這い出るように抜け出した。
 洗濯機を回し、ごうごうと鳴り響く横にある洗面台で顔を洗う。部屋に戻って着替えを済ませ、テレビをつけて朝食の準備をする。食べ飽きているパンを二枚取り出して、トースターに放り出すように入れて焼き始める。パンが焼き上がるまでに化粧を施す。隈を隠すように意識しても、薄らと残る紫色に失笑する。着飾る興味など消え失せているため、必要最低限の化粧を済ますと、パンが焼けた香りがする。
 皿にパンを移して何もつけずにかじりつく。テレビのニュース番組は淡々と昨夜の事故のニュースや法案改正の議会に関する話、ジェンダー不平等に関して報じている。天気予報の時間を待ちつつ、食べ進めながらただ眺める。
 天気予報は一日中晴れ。気圧の低下もなし。ほっと胸をなで下ろす。天候が悪いとき、悪くなるときは、決まって気分も体調も悪くなる。天気が晴れというだけで、命が皮一枚つながった気持ちになる。
 何に対しても、大して興味がわかず、趣味に没頭することもない。仕事に追われるように朝支度を済ませ、出社して仕事をただ淡々とこなし、退勤して翌日の仕事に備えて家事をこなす。ベッドに入っても眠れない夜がやってきて、暗闇でただひたすら目を瞑り、寝た気がしないまま朝を迎える。朝が来ないよう、必死に夜にしがみついてみても、変わらずに朝はやってくる。絶望感を携えながら起床して、出勤の準備をする。
 何も楽しいことはなく、面白いと感じることもない。テレビや洗濯機の音は鋭く鼓膜に突き刺さり、食事の味は味覚から遠のいていき、身体は鉛を背負ったように重かった。外に出てもそれらは変わらず、音は痛いし、けれど人の会話はなぜか聞き取れないことが多いし、身体を引きずるように仕事をする。
 ただ苦しいだけの毎日を、限界などとうに超えた状態で生きている。それでも、生きなければならなかった。生きる理由もなかったが、死ぬ理由も特にはない。死ぬことなんてたぶん一瞬勇気を出せばできることであったが、実際に行動に移すこともなかった。なにかに耐えるように、やり過ごすように、名前は日々息を潜めて生きている。
 食事を済ませて食器を洗い、洗濯物を干す。昼食を準備する気持ちにはなれず、通勤途中でコンビニに寄ろうと決める。通勤風景を思い浮かべるだけで頭がずんと重たくなる。
――行きたくない……生きたくもないな。
 こんな生活から逃げてしまいたい。けれど、逃げる場所もなければ、勇気もない。働かないとお金は稼げないし、お金がなければ支払いも出来ない。支払いが出来ないと、ライフラインは止まってしまう。
「……薬」
 名前は常備薬に手を伸ばす。ブリスターパックを押しつぶし、錠剤を数個手のひらに転がす。落とさないように口の中に放り込んで、飲み込まないようにコップに水を注ぐ。錠剤が歯に当たらないよう気をつけながらゆっくりと水を口に含み、ごくりと飲み込んだ。コップに残った水を飲み干す。ほっと息を吐き、コップを洗う。
 生きたくない。それは切望には遠くて、願望には近い願いだった。ただ漠然と、ため息が漏れるようにそれは生まれてくる。仕事に行きたくない気持ちも、今の生活を続けていたくない気持ちも、すべてため息の先にある望みであり、希望だった。
 これが名前の普段通りの朝だった。仕事に行きたくない気持ちと闘いながら身支度を済ませ、すでに疲労感を抱えながら息絶え絶えで家を出る。
――行きたくない。
 足が重たい。一歩一歩が遅くなっていく。イヤホンを耳につけようとリュックに腕を伸ばしたが、聞く気持ちになれずに腕はだらんと下がる。
 大通りに出ると、周囲の喧騒が耳に直接入り込んでくる。ざわめきがうるさくて耳を塞ぎたくなる気持ちを抑えながら、名前は駅に向かう。
 やはりイヤホンをつけよう。立ち止まってリュックの中を漁るが、どこにも見当たらず、家に忘れてきたことにようやく気づく。
――最悪。
 名前は重たいため息をついて再び歩き出す。
 駅に到着し、逃げ出したい気持ちと奮闘しながら電車を待つ。アナウンスが流れ、予定通りの時刻に到着した電車に乗りこんだ。もう引き返せない状況に、泣く泣く電車で空いている席を探す。 瞬時に席が空いているかを見極め、誰にも取られないよう一直線に向かっていく。
 腰を落ち着かせ、リュックを膝の上にぎゅっと抱えた。乗り換えまで寝ようかどうか悩んだ末、スマホを開く。親指で画面を操作して、流れてくるSNSのポストを眺めた。しばらくすると、駅名アナウンスが鳴り響く。
 流れた駅名に、名前は少しだけ眉間に皺を寄せる。もうすぐ快速電車とすれ違う。その瞬間があまり好きではなかった。快速電車の高い音は、まるでカウントダウンである。
 瞬きを数回した次の瞬間、車内に居てもわかるほどの轟音と強風が、電車を揺らした。同じように身体が揺れる。その途端。
「っ……!」
 突然車内が光り出し、名前は目を瞑った。あまりの眩しさにスマホを握りしめる。
――なに? 雷?
 雷の轟など聞こえなかった。家を出る前に確認した天気予報は晴れの予定だったし、スマホの天気表示も晴れのイラストが映っていた。
 光はしばらくの間続いた。こんなに光っているのなら、車内は騒然とするはずなのに、一切人の声は聞こえない。電車の揺れも轟音もなくなり、静けさだけが名前の耳を支配していた。
 キラキラと音が聞こえた気がした。宝石のような物同士がぶつかり合うような、星々がぶつかりあって、弾けて飛び散っていくような音。今まで聞いたことのない、楽器でも表現できるか定かではない音が、そこら中から聞こえてくる。上下左右だけでなく、遠くから迫ってくるように、音はまるで名前の身体にまとわりついてくる。どこかへ連れて行かれそうな浮遊感を感じ、名前は必死にリュックを抱え込んだ。
――地震? 揺れてなかったよね?
 座席に座っているはずなのに、ふわふわと身体が浮いている感覚が名前を襲う。足が床についていないような、まるで羽根が生えてしまったかのように、重力を感じなくなっていく。
――なにこれ、気持ち悪い……!
 得体の知れない状況に、名前は吐き気すら感じてしまった。音はいつしか途切れることなく立て続けに響き渡っていた。音は次第に大きくなっていき、頭を殴られているかと錯覚してしまいそうになる。耳を塞ぎたかったが、リュックから手を離してはいけない気がして、それはできなかった。必死に身を縮こませ、名前は耐えるしかなかった。
――何が起きてるの⁉
 事故か、それとも災害か。考えられる可能性は二つしかない。しかし、そのどちらでもないのかもしれない。事故でも災害でもないなら、何が起きているのか。状況を理解したくても、眩いほどの明るさのせいで、名前は目を開けられなかった。
 次第に音は波のように遠ざかっていく。光が瞬くような音は空気に溶けて消えていく。名前の耳が少しずつ楽になっていった。
 瞼の向こう側で、明るさが通り過ぎていく。次第に真っ白から暗闇が混ざった色に変わっていく。その瞬間を、待ち侘びていた。
 名前はゆっくりと瞼をあげる。
「――……は?」
 そこは見慣れた電車の中ではなく、まったく違う光景が広がっていた。視界にあるすべての物が、キラキラと輝いている。いや、違う。光が降ってきている。光の粒は雨粒よりも小さな輝きで落ちてくる。
 光がシャワーのように降り注ぐなか、名前の周囲には、男性たちが佇んでいた。
――なにこれ。
 彼らは名前をぐるりと囲むように立っていた。俳優のように皆顔が整っており、年齢層は幅広いように見えた。普段着には見えない、衣装と呼ぶのにふさわしい服を着ている。手にはなにかを持っていた。杖から地球儀のようなもの、骸骨の頭や人形、鏡を持ちながら、こちらを見つめてくる。
――何かの撮影?
 いや、そんなことは無い。電車の中にいたんだ、とすぐに否定する。車内で突然撮影が始めるだなんてことはないだろうし、あったとしても、ここは明らかに電車の中ではない。スマホとリュックを胸に抱き、名前は動けないでいた。
――ほんと、ここどこ? なに? 電車はどこ?
 キラキラと床に落ちていく光の隙間から、視線が注がれる。居心地の悪さと、得体の知れない恐怖が名前を襲い始める。 
 視線から逃げ出したくて、名前は周囲を見渡した。光が降り注ぐ先を見上げると、高い高い天井に、西洋の城内のような建物の造り。階段は長く、厳かと柔らかさの合間の色をしている。壁にかけられた絵画はとても大きく、権威を表しているようだった。まるで美術館かお城に来てしまったみたいだ。そして視線を下ろしていくと、変わらずそこには男性たちがいた。
――いち、にい、さん……何人いる? 二十人くらい?
 驚きすぎると声も出ない、というのは本当なのだと自覚する。体にも力が入らない。本当ならば逃げるなり、話しかけるなりした方が状況を打開できるだろう。しかし、名前の体はまったく動かなかった。
「成功じゃな」
「うむ、成功じゃ」
 にっこりと人形のように笑う双子が近づいてくる。顔が綺麗すぎてホラー映画かとドキリとしてしまう。服装もひらひらしていて人形っぽい。ついこの間流行っていた、踊りだす少女の人形を思い出してしまった。
「この方が……媒介、ですか?」
 美形の奥で唯一の女の子が声を上げる。品の良い顔をしている。目鼻立ちがすっとしていてどこか欧米の血が混じっているような男性たちの中で、彼女だけが見慣れた雰囲気の顔の造りをしていた。
――媒介って?
 彼女の言葉を再度考えてみる。『この方』というのは、自分のことを指しているのだろうか。そして媒介かと確かめている様子。名前はただ瞬きを繰り返した。
――私は、媒介……? なんの?
 媒介だなんて言葉、普段は耳にしない。意味も知らないが、ゲームとかでは出てきそうな言葉、という印象だった。
「うむ。その通りじゃ」
「まさか人間がでてくるとはのう」
 彼女の問いに、目の前の双子が頷く。背が小さく少年のような容姿なのに、存在感の圧みたいなものを、名前はひしひしと肌で感じた。触れれば凍ってしまいそうな透き通った白い肌に、金色の不思議な瞳。西洋の人なのか、北欧寄りの人なのか。お年寄りのような話し方からも、見た目の年齢よりも精神年齢の高さを感じた。
「お姉ちゃま、お名前は?」
 双子の片割れが話しかけてくる。人の良さそうな笑顔のはずが、心の奥底は絶対覗かせないような、隙のない雰囲気だった。もう片方の双子に目を移すと「お姉ちゃま、お名前教えて?」と首を傾げてくる。容姿には似合ってる言葉だが、存在には似合ってないような。演じてるような言い方に、名前はちぐはぐさを一層強く感じる。
「……苗字、名前、です」
「苗字? 名前? どっちがお名前?」
「名前じゃないかのう?」
「――アッ、あの!」
 双子が首を傾げて互いに見つめあった。そして再度、名前を覗き込んでくる。
 二人の隙間を割るように、女の子の声が聞こえた。小走りでやってきた彼女は、息を落ち着かせてから、面接試験をしているような面持ちで口を開く。
「もしかして、あなたのお名前、漢字で書きますか……?」
「え? ああ、はい」
「もしかして! 日本、から来たんですか……!? 持っているそれ、スマホですよね……!?」
「え、ああ、はい……はい?」
 日本から来た。彼女はそう話した。日本から来たって、ここが日本だったらそう言わないはずだ。
――ってことは、ここは日本じゃない?
 名前の頭の中に大量のはてなマークが浮かび上がる。謎が深まるばかりだ。
「賢者ちゃん、日本って?」
「賢者ちゃんがいたところ?」
「はい! そうです! わあ、日本から……!」
 どうやら彼女も日本出身らしかった。どうりで見慣れた顔立ちをしている。同郷に会えて嬉しいのだろうか。ぴょんぴょん跳ね出しそうな彼女は、右手を差し出してきた。
「はじめまして、賢者の真木晶です……!」
「はじめまして……苗字、名前です」
 人の良さそうな笑みに動かされ、名前は持っていたスマホを左手に持ち替えた。晶と同じように右手を差し出す。握手をすると、晶はぶんぶんと腕を振りだしそうだった。
 目を輝かせる晶と名乗った女の子から、名前は逃げるように視線を落とす。
「微笑ましいのう」
 視界の端で双子がにこにこしている。美しい男性たちの中心で今のやりとりが繰り広げられていなかったら、微笑ましかったのかもしれない。会社や道端、見慣れた場所なら何も違和感がなかった。けれど、お城のような場所で、ここにいる人々に囲まれている。名前はくらりとしてしまう。
 晶の手がようやく離れると、名前は右手をだらんと落としてしまう。ほっと胸を撫で下ろす反面、右手に何かを握っていないと心細くなる。左手に持ち替えていたスマホを右手に持ち直した。
「媒介が人間とは聞いてないぞ」
「説明してなかったっけ?」
「説明したような、してないような?」
「まあ、いいじゃありませんか。結界は落ち着いたように見えますし」
「綻びがなくなったね」
 黒い服を着ているサングラス、惚けるような双子、お団子の長身、白衣のようなものを肩にかけた男性、が次々と会話をつないでいく。名前は話している本人を目で追いかけて確認することに苦労した。二十数名いる中で一人を探すことは難しい。会話の内容は、よくわからないかった。
「……部屋に戻る」
「俺が先に戻ります、オズ、あなたは後です――アルシム」
「僕が先だよ。こんなつまらないことに付き合わせないでくれる?」
「腹減ったなぁ。おい、ネロ! 肉!」
 長い髪を一つ結びにした杖を持った男性がぼそりと呟く。一つ結びの彼は、そのまま姿を消してしまった。それに続いて赤毛の男、オッドアイの男が姿を消し、黒と白が入り交じった顔に傷のある男性が声を上げる。
――消えた? どういうこと? 
 本当に一瞬で数名が消えてしまった。瞬きよりも速い速度で、いなくなってしまった。名前は理解が追いつけなかった。
――マジック?
 苦し紛れに自分を納得させようとした答えは、絶対に外れているという確信があった。しかし、マジックとしか考えられない。人が消えてしまうだなんて、不可能なことだ。
「オズ様! 行ってしまわれた……」
「おいおい、オズのやつ、早々に行っちまうなんてな」
「挨拶もしないで。オズは失礼ですね」
「肉はねぇよ、ブラッド。……賢者さん、終わったなら俺も戻っていいか? 昼飯の支度しねぇと」
 誰かが口火を切ったのを皮切りに、王子のようなマントをつけた少年、剣を下げてる青年、修道服のような服を着た少年が話し出す。肉がほしいと声を上げた男に返事を返したのか、空色の髪の男性は、言いづらそうに晶へと伺いを立てた。
「あ、はい。たぶんもう終わったので、大丈夫だと思います」
「そっか。悪いな……先抜けるな」
 空色の髪の男性はポケットに手を入れながら去っていく。今度は消えなかった。歩いて行った。見慣れた行動に、名前はなぜだかほっとしてしまう。
――さっきのはなんだったの?
 消えてしまう人もいれば、歩いていなくなる人もいる。名前の頭の中は先ほどから疑問しか浮かんでいなかった。
「ねえねえ! 媒介としてここにきたのはどんな気持ち? 自分が媒介って知って嬉しい? 悲しい?」
「えっ……?」
 俯き気味の名前の視界に、突然にゅっと顔が飛び込んでくる。紫色の髪が宝石のようにキラキラしていて、名前は眩しくて身体をのけぞった。
「こら、ムル。まずはご挨拶」
「はーい! 西の魔法使いムルだよ! 君は? 媒介って呼ばれたい? それとも名前で呼ばれたい?」
――魔法使い? 
 名前は耳を疑った。今、彼は『魔法使い』と話したのか。目が飛び出そうになりながらも、名前は話しかけられていたことを思い出し返事をした。
「えっと、苗字名前です……。呼び方は、さあ……?」
「混乱してるね! 呼び方も決められないくらいに!」
「ムル」
「にゃーん!」
「ムルが失礼しました。西の魔法使いシャイロックです」
「はじめまして……苗字名前です」
 ムルはアクロバティックにぴょんぴょんと飛び回る。空中をくるりと回り、彼の周りには小さな花火が上がる。テンションの高さや行動の異様さに名前は固まりかけるも、シャイロックはにこやかに見守っている。
 シャイロックはパイプの煙をくゆらせながら、上品に笑い声を漏らす。薔薇の香りが具現化したら、シャイロックの形をしているのだろう。
――飛んで……!? それに花火!? 魔法使いってなに!?
 名前は目が点になっていた。男性が消えた現象といい、ムルの行動といい、花火といい、説明がつけられないことが続いている。
 周りの人々はなぜ驚かないのだろう。消えるのも、飛び回るのも、花火もすべて見慣れているのだろうか。ここにいる人々は、アクション俳優かなにかで、映画の撮影や効果なのでそれが日常とかしているとか。
――そんなわけなさそう。
 だが、それなら説明がつかない。なぜ消えて、飛び回れて、花火が上がるのか。
――本当に、魔法使い?
 魔法使いだなんて、創作物の中の存在である。この世には存在しないもの。小説やアニメ、映画の中の人物のはずだ。
 まるで摩訶不思議な出来事の証明問題をといている気分だ。名前は頭を抱えたくなったが、荷物があることに気づく。リュックに顔を埋めたくなりながらも、人前であることを思い出して耐え忍んだ。
「僕も部屋に戻る」
「あっ、先生……!」
「ファウスト、午後は訓練の予定だろ」
「ああ、忘れてないよ」
 ファウストと呼ばれた落ち着いた声の男性は足早に去っていく。それに続くように、美術品のように美しい金髪と、紺色の髪をした少年が場を後にした。
「それじゃ、解散ってことでいいかな?」
「フィガロ先生、あの方は、この後どうなさるんですか?」
 木漏れ日に照らされたような金髪の青年が問いかける。名前が聞きたかったことを、代わりに聞いてくれているようだった。
 名前は弾かれるように言葉の行く末に目を向けた。ずっとこの場にいても、何も解決しない。けれど何も分からなくて、何から話したらいいのか分からない。目の前で繰り広げられている会話を、眺めることしか出来なかった。
 フィガロ先生と呼ばれた白衣のようなものを肩にかけた男は、顎に手を当てる。雲のように掴めない雰囲気が、フィガロと呼ばれた男にはあった。
 フィガロの瞳がするりと名前を射抜く。名前はひんやりとした視線を受けて、身体にピリッと小さな電流が走ったようだった。リュックをぎゅうっと抱え込む。
「ま、とりあえず、談話室にでも移動しようか」
「そうですね。彼女にもお話することがありますし」
「うむ、そうじゃの」
「行こうかの」
 フィガロの言葉に、シャイロックと双子は頷いた。質問をしてくれた青年は、両手を合わせ、パッと表情が明るくなる。
「まあ! ではその後、お話できるんですね?」
「今のところはね」
「わかりました! ではまたあとで! 行こう、ミチル」
「は、はい……」
「……失礼します」
 青年と、ミチルと呼ばれた少年、長身の眼鏡の男性は背を向けた。男性は少しずつ減っていく。
「麗しい媒介の君に、この出会いを祝して一曲奏でようか」
「わー! ラスティカ待って! この人このあと談話室に行かなきゃいけないんだって!」
「おや、そう。それは残念、失礼しました。また後で披露しようか」
 ミルクティーのような髪色の男性と、その後ろにいる赤毛の青年のやりとりは、ほのぼのとしたコントのようだった。赤毛の青年が引っ張るように、二人してどこかへ行ってしまった。
「私も、公務に戻らなければ。……中央の国の魔法使いアーサーといいます。申し訳ありません……貴殿とは、またお話することもありましょう。それでは賢者様、失礼します」
「俺もついていくよ、アーサー」
「では僕は、ミチルのところに行きます」
 アーサーをはじめ、次々と青年や少年が去っていく。
 その場に残されたのは、双子、フィガロと呼ばれた男、シャイロック、ムル、そして賢者と名乗った晶だった。
 しんと静まり返った場は居心地が悪かった。まだ、彼らが名前のついていけぬ会話を繰り広げている方が、気が紛れたのかもしれない。彼らの視線は必然的に名前に注がれている。名前は視線が合わないように、別の場所を見るしかなかった。スマホとリュックを抱え込み、身を縮こませる。
「ようこそ、歓迎するよ――名前」
 ニヤリと笑うムルは、まるで猫が踊るように軽やかな声で言いのけた。
 ムルは手を差し伸べてくる。それを掴むまで、名前は時間を要した。詳細は分からなくても、なにか大きなことに巻き込まれたのだということは、現段階でも理解が出来た。そして、それが自分の人生すらも変えてしまうのかもしれないと、薄らと感じ取っていた。