1-2-10
向けられる感謝があたたかくて、身体の底から震えてしまうほどの衝撃と嬉しさが混じって、自分でもおかしいと思うくらい、それを求めてしまいそうになっていた。
* * *
召喚の儀式から一夜明けて、名前はこの世界での二日目の生活を送っていた。朝食時にネロが配膳しに行こうとすると、廊下から楽しそうな晶と名前の声が聞こえてくる。少しだけほっとする自分がいた。なぜほっとするのか気づかない振りをして、ネロは料理を運びに行く。朝食は、名前が食べやすいかと考えて作ったおじやだった。
――慣れ親しんだものを口にした方が、ほっとするもんな。
ネロの予想通り、名前はおじやを見て驚いた後に、頬をほんのり染めながら感謝を伝えてくる。ネロは頬が緩むのを感じつつ、早い時間であったため配膳は忙しくならないことを考えながら、ネロはデザートを取りに行った。
食堂に戻ったとき、名前は一さじずつゆっくりとおじやを運んでいた。これが何も知らないやつならば、名前が味覚を感じられないことなど嘘のように思うだろう。実際ネロも、見た目では何もわからないと感じていた。しかし、これが名前に巣くっている悪者なのだ。見た目ではわからない攻撃を症状として繰り出し、名前を苦しめていく。ネロは名前の病気について詳しく知らなかったが、長年の経験からそういうものなのだろうと薄らと感じ取っていた。
「お、ちゃんと食えたな」
完食できたことを確認しに行くと、晶が嬉しそうに美味かったと伝えてくれた。名前も続けて何かを話したそうにしていたが、最終的に口をつぐんでしまっていた。
ネロはまだ食べられることを確認すると、晶は即答する。その元気さに笑っていると、名前が静かにしていることに気づき、ネロは声を掛けた。
「名前は? まだ食べられそうなら、これ」
ネロは名前と晶の前にゼリーを置く。おじやのこってりとした食感の後には良いかと考えつつ、これなら食べやすいと考えて昨夜名前と話した後から準備を進めたものだった。名前は小食のため、食べられないのなら他のやつに食べさせれば良いと考えつつ、ゼリーを作る手はスムーズに進んでいった。
名前はゼリーに釘付けになっていた。名前のゼリーは薄いピンク色で、彼女の白い肌によく映えそうな色だった。
「きれい……」
「口の中、すっきりするよ」
普段だったら、きっと味の話をしているだろう。しかし、名前がいる前では、ネロはそうするのをあまりしないようにしようと決めていた。味わってもわからないのに、無理に味を想像させたりするのは、かえって彼女を苦しめてしまうのではないかと考えた。
「いただきます!」
「いただきます……」
晶と名前が挨拶をするのを横目に、皿を重ねながら二人の様子を盗み見た。二人と言うより、むしろ、名前の反応の方が気になっていた。
「……あの」
「ん?」
名前の小さな声を、ネロは聞き逃さなかった。少し不安そうに話し出す名前の言葉を、ネロは待ち続けた。
「すごく、爽やかで、風が吹いたみたいでした。すっきりしました」
「……そっか、よかった」
名前の言葉にほっと胸を撫で下ろす自分がいた。味がわからない相手に対して料理を作ることは、ネロにとって初めてのことであった。自分の作った料理をどう捉えてくれるか、感じてくれるか。気になってしまう自分もいて、それをどこかで求めてしまう自分もいた。そんな汚い自分自身に嫌気がさしそうになりながらも、名前はきちんと言葉にして感じたことを伝えてくれる。
「あの、よかったら……また、頂いて、みたいです」
「!」
ネロは息を呑んだ。まさかまた食いたいだなんて話してくるとは思わなかったからだ。
そこでネロは自分が偏見のようなものに囚われていたことに気づく。名前が味をわからないからと、また食べたいと話すことはないと勝手に考えていたのだ。それを名前は打ち破ってきた。味がわからなくても食感で楽しみ、また食べたいと話してくれた。それは、ネロが胸の内で叶ったのなら良いと考えていた、淡い期待でもあった。
「ああ、また作るよ」
ネロはその一言しか伝えられなかった。また食べたいと話してくれた嬉しさと、自分の幼稚な考えに挟まれて、どうしたら良いかわからなくなってしまった。
ネロは一旦厨房に行き、デザートグラスを取りに食堂へと戻る。もうそろそろ食べ終えている頃だと見計らったが、どうやら正解だったようだ。
ネロはやることを進めながらも、自分が彼女のために何ができるのか考えていた。食事を提供する、小食に配慮して消化の良い料理を作る。それくらいしか自分にはできないはずだ。しかし――。
「ごはん、ありがとうございました。お腹、いっぱいになりました」
名前はそれでも、ネロを受け止めてくれるような視線を向けてくれる。
ネロは顔に出さないように気をつけながら返事をする。ネロが偏見という、現実と捉え違っていたことがあると知らず、名前の言葉はどこまでもあたたかく真摯だった。
「……たのしみです、お昼ごはん」
「!」
名前のぽつりと呟いた言葉に、ネロは小さく息を呑む。
食事を楽しみにしてくれている。それは料理屋をしていた時も客にもいたし、この魔法舎にも楽しみにしてくれているやつらはいる。それと同じように、名前も伝えてくれただけのこと。
それなのに、ネロの心臓は大きく脈打った。名前の、きっとぽろりと出てしまったその一言が、ネロの頭の中で繰り返される。ネロは暴れている心臓をどうにかしたくて、胸の部分の服を掴みたくなった。しかしきっと不思議そうに彼女は見上げてくる。
名前からは見えないところ、グラスを持っていない片手を背に隠し、気持ちが暴れないようぐっと手を握った。
「――とびっきりの、作るよ」
口から飛び出た言葉は、簡素なものだった。もっと何か気の利いた言葉を伝えられたら良かったのに。しかし、ネロの精一杯の言葉はその一言だった。それが心から思う言葉であったし、他のことを話そうとすれば、心臓が暴れていることも、何もかも見透かされてしまいそうだった。
ネロはそれだけ伝えると、早足に食堂を去る。厨房に向かう足は速かった。歩くスピードと同じように心臓は高鳴っている。
――嘘だろ。
ネロは厨房に戻り、デザートグラスを置いて、シンクの縁に両手をついて項垂れた。片手を胸の上に触れさせる。心臓はまだ、暴れている。
「ははっ……この歳になって、まだ……」
――あんなたった一言が、飛び上がるほど嬉しいだなんて。
ネロの脳裏には、名前の姿がこびりついていた。
ネロは悶々とした気持ちになりながら昼食の準備をしていた。ぼうっとしているとふと考えてしまうのは、名前にまつわることで、そのたびに頭を振って考えを消え去ろうとする。しかし、それがまた難しい。
朝食時の、名前の言葉、表情、仕草。どれをとっても大切に食べてくれていることがうかがえて、ネロは胸が熱くなる。朝食の前に晶と入浴をしたという話を思い出せば、きっと脱いだらすごいんだろうなとか想像してしまい、そのたびにはたと気づいて妄想を拭い去ろうとする。
「……何考えてんだ俺は」
それでもシャボン玉のようにどんどん考えが浮かんでくる。ネロの頭に、先ほどファウストの部屋の前でのやりとりが思い出された。
『ファウストさんのお手を煩わせないように、します。フィガロさんが南の国に行っている間、体調が悪くならないように気をつけます。もし体調が悪くなっても……自分で対処します。慣れていますから。……だから、大丈夫です』
フィガロがこれから南の国に行くというのは初耳だったが、名前の言葉を聞いただけでネロはなんとなく話の流れを理解できた。
名前は体調不良で、もしかしたらフィガロにそれを相談していて、主治医の自分が不在の時になにかあったらファウストを頼るようにと、多分フィガロに言われたのだろう。ファウストが少し不貞腐れているような、イライラしていたのも、おそらくはフィガロが原因である。
――にしても、大丈夫か?
あの頑なに助けを求めないで、自分でどうにかする様子。ネロは気がかりであった。話の流れ的に自分は部外者だと勘づきつつ、さらには会って二日目だからと何も言えずにいたが、やはりネロは心配が募ってしまう。
「頑張り過ぎて、折れちまうんじゃないか?」
名前の言葉は、まるで自分に言い聞かせているようだった。誰も頼ってはいけないような、迷惑をかけてはならないと考えている言い方に、ネロは思い出して眉間に皺を寄せる。
その後、ファウストが名前に対してなのか「厄介ごと」と発言したことにも、声を上げてしまった。普段の自分だったらきっと何も言わないはずなのに。過敏に反応してしまって、ファウストにも勘違いをさせたかもしれない。
「はあ……何してんだか」
ネロは自分がかき乱されているような感覚に気づいていた。これは、数百年前にも、ここ最近でもたまにあることだ。ブラッドリーといると、自分の調子が狂うような感じ。ブラッドリーの時よりかはだいぶ穏やかではあるものの、ネロの平穏に変化を与えていることに間違いはなかった。
「うわ……作りすぎた」
考え事をしながら作った料理は、エッグベネディクトとココット。おかわり分を含めると、まあ大所帯だから余ることはないだろうが、これは考えに耽りすぎだとネロは反省する。しかも、どれも名前がそこまで多く食べられないことを見越して、他者と比べて食事量を気にしなくてもいいような盛り付けができるようになっている。
「やっちまった……」
無意識のうちにまで名前のことを考えていた自分に、ネロは片手で顔を覆った。
ネロの作った昼食は功を奏した。名前は、晶やルチル、クロエと一緒に食事を摂る流れになっており、ネロが作りすぎたことも、食事量を気にしなくてもいいようなことも、全て良い方へと繋がっていた。
他者と一緒に昼食を食べる名前は、どこか楽しそうで照れくさそうで、見ているこちらも胸があたたかくなるような、足取りが軽くなるような感覚になる。
名前から料理の感想がもらえないことに少しだけ残念に感じてしまいつつ、そんな自分がなんだか恥ずかしくなって静かに厨房に戻ろうとすると、廊下に出たところで名前が追いかけてきた。
「お料理、とっても綺麗で、素敵で、それに、お腹いっぱいになりました。その、エッグベネディクトもココットも、また食べたいって思いました。だから、その……ありがとうございます。ネロさんのお料理を食べられて、みんなとも食べることができて、すごく嬉しくて、楽しかったです……!」
名前の言葉は、あたたかい穏やかな風となって、ネロの心を吹き抜ける。伝えられたことに目を丸くしたネロは、名前の言葉を噛みしめて、返事をした。
「いや……ありがとうな。よかったよ、腹一杯になってくれて。『とびっきりの』、作ったかいがあったよ」
自然とネロは微笑んでいた。名前の言葉が素直に嬉しくて、言ってほしいことをまるで読み取ったみたいに伝えてくれることに、心のよりどころのような感覚になってしまっていた。
「あのさ……」
「? はい?」
ネロはポケットに入れていない手を、首の裏に触れさせた。
体調の件で、フィガロやファウストに話していたこと、独りよがりになってしまいそうなこと。それらについて、伝えた方が良いのか、それとも伝えない方が良いのか。伝えたところで、それはただ自分が気持ちや考えを押しつけてしまっているだけで、名前の気持ちや考えを無視してしまう行為にならないか。
ネロはぽつりと話しかける。
「……いや、なんでもない」
ネロは結局、伝えることをやめた。まだ出会って二日目のやつに、こんなこと言われたら、余計なお世話かもしれないと判断した。
「……それより、よかったな。ルチルとクロエ、それに賢者さんも。仲良くなったんだろ?」
ネロは上手く話を逸らしたつもりだった。しかし、名前の表情はだんだんと曇っていく。食事をしているときは楽しそうな表情をしていたのに、何が彼女の表情を暗くするのだろうか。
「ほ、ほんとうに……本当に、そう、見えますか……?」
名前は恐る恐る見上げてくる。夜空を閉じ込めたような瞳に見上げられて息が止まりそうになりつつも、ネロは言葉の真意を考えた。
仲良くなったように、本当に見えるのか。名前はきっとそう言いたいのだろう。ということは、仲良くなったと思いたいが、実際のところはまだわからないということだろうか。
自分が仲が良いと感じていても、他者も同じ気持ちであるかはわからない。本当に、自分の判断や認識を信用しても良いのか。自問自答しても答えがでない問題に、名前はまるで助けを求めているようだった。
「見えるよ」
「っ! え……」
ネロの答えは一つだった。名前は目を見開いた。その声は少し震えていたような気がする。
「同じ飯を食って、同じテーブルについて。そんなの、仲良くなきゃできねえことだ」
それは、ネロ自身の実体験であり、料理屋を営んできた頃に見てきたことであり、この魔法舎でも数えきれぬほど見てきた光景だった。
「まだこっちに来たばかりだろ? 少しずつでもいいんじゃねえの?」
ネロは少しだけだらりと身体の力を抜きながら話をする。肩肘張らずに、そんな感じでのんびりとやっていってもいいんじゃないか。そこまで言葉にはしなかったが、伝わってくれればと淡い希望を抱いてしまう。
ココットの器を「頑張り屋さん」だと表現した彼女こそ、頑張り屋さんのようだったから。
「あ、ありがとうございます……。すみません、突然こんな話……」
「――仲良し記念に、今夜は美味くて腹一杯になるもん作ってやるよ」
ネロは自分のできることで、名前が他者との交流関係について、胸を張れたらいいと感じていた。
自分は料理を作ることしかできなかったが、それでも、そのことが彼女の背中を押せるのならば。
やはり、ネロは名前のことを放っておけなかった。
ネロは言ってしまった手前、夕食は何を作ってやろうかと張り切っていた。名前が一人ではなく、誰かと食べてくれることを想定して、やはり周りも、名前が小食なことをあまり気にならない方がいいかと考え、食事量がそれほど目立たないものを考える。結果、作った料理は、パエリア、ロリトデポロ、チーズフォンデュ、スイートポテトだった。
――もしも、名前の味覚が戻ったら……。
そんなことをふと考えてしまってからは、ひたすらに料理を作ることに熱中していた。
もしも味覚が戻ったら、味を知覚した時、名前はどのような顔をするのだろう。「美味しい」と頬をほころばせて、嬉しそうに話すのだろうか。「この味付けが好き」「何味が好き」と味の好みを教えてくれるのだろうか。それに合わせて自分は完璧に作り上げることができる自信があるから、任せてほしいとも考えてしまう。
味覚が戻れば、晶の世界の料理についての話もできるようになるのだろうか。異世界の料理を教わって、作ってみて、名前に味見をしてもらう日が来るかもしれない。
「なに馬鹿なこと考えてんだか……」
こんなこと、未来に期待してしまっているに等しい。期待されることから背きたいはずなのに、他者に期待してしまっている自分がいる。だめだとわかっていても、毎食感じたことを言葉にして教えてくれる彼女が、もし味を知覚したらどんな言葉をかけてくれるのか、「美味しい」と笑顔を見せてくれるのか。想像しただけで、ネロの胸は熱くなっていく。
ネロがワゴンで料理を運ぶと、名前たちは勢揃いしていた。昼食時に一緒にいた晶やルチル、クロエに加えて、カインとリケ、ミチルが一緒だった。
「すごい……! こんなに豪華な料理初めてです……!」
並べられた料理の数々に、名前は目を輝かせていた。口角が上がるのを感じながら、ネロは名前に声を掛ける。
「食べられる分だけ取って食べなよ」
名前は目を大きく見開いていた。すると頬をほころばせて、ネロを見上げてくる。
「ありがとうございます、いただきます……!」
――ああ、やっぱり笑った顔も可愛いな。
こういう顔が二日目に見られるだなんて、少しはここの生活に慣れたんだろうな。ネロは感慨深くなりつつ、あとは若い者で楽しんでと思い、早々に厨房に引き上げた。
時間も経ち、後片付けをしているところに、名前は皿を持ってやって来た。全員分の皿は一気に持って来れなかったから、持てるだけ持ってやって来たのだろう。
置いておいても良いと声を掛けておいたが、こうやって運んでくる辺り、もしかして何か用事でもあるのだろうか。
名前は皿を置いて話を始めた。今日の感謝がたっぷりつまった言葉は、ネロの心をあたたかくさせていく。まるで吹雪の中に見つけた一つの光のような、ひどく降り続く雨が弱くなり雨が上がる瞬間を垣間見たような気持ちにさせた。
名前は続けた。シャイロックから無理に感想を伝えることはないと言われたこと。自分でも無意識にそうしていたのかもしれないということ。
確かに、名前が毎回料理の感想を伝えてくれるのは、「美味しい」と伝えられない代わりなのかもしれないと、ネロも薄々気づいていた。
さすがはシャイロックだ。そういう細やかなことに気づき、自然な流れで指摘できる者はあまりいないだろう。
「でも、ネロさんには、伝えたいって心から思うんです。お料理の感想を。……ご迷惑かもしれないんですけど」
ネロは目を見開いた。息が止まりそうになってしまう。シャイロックにそう言われて、自分でも無理に話している癖があるのかもとわかりきっていながら、ネロにはそれを伝えたいのだと名前は話す。
「ネロさんが手間隙かけて、熱心に作ってくださった料理を、何も言わずに食べるのだけは嫌で、でも味は分からないから、せめて違う形で伝えられたらなって思って……」
名前はスラックスを掴み、視線を下げる。ひどく弱々しい印象だった。今にも灯りが消えてしまいそうな、息を一つ吹きかけたらなくなってしまいそうな儚さがあった。
「こんなこと、毎回やってて、ご迷惑かもしれ――」
「――迷惑なんかじゃないよ」
ネロは名前の言葉を遮った。名前は弾かれたように顔を上げる。
「迷惑じゃない」
ネロは繰り返した。ネロは名前を真っ直ぐと見つめた。普段他者の視線を意識してしまったり、目を逸らしてしまったりすることが多くあるというのに。
今この瞬間は、名前の目を見て伝えたいと思った。そうしなければ、灯った灯りが消えてしまうのではないかと考えたのだ。
名前と視線が絡み合う。たった数秒、長くて数十秒のことだろうに、永遠にこの場に二人だけしかいない空間が出来上がってしまったかのように感じた。
「ほんとう、ですか……?」
ネロは頷いた。名前の震える声で、灯りが消えてしまわないか一瞬考えたものの、それは稀有に終わる。
迷惑ではない。むしろ名前が感想を伝えてくれていることに、自分はとても有り難いと考えているし、たぶん救われたかのような感覚すらあるのだ。
異世界からやって来て、料理の文化も違って、さらには味覚すら感じない相手に料理をだすというのは、勇気が必要だ。正解なんてものはこの世に存在しないかもしれないが、少なからずこの場にて正解に近いのは、互いに嫌な思いをしないことである。料理を食べて嫌な気持ちにならず、料理人も不快な思いをしないこと。
その関係性を名前の方から作り上げてくれている。ネロは自分自身からでは、到底行動すら取れないに決まっていると考えてしまう。
名前の言葉は、ネロにとって灯火のようだった。
「いつか……あんたが味覚戻ったら」
「え……」
ネロはぼそりと呟いた。夕食の準備中に考えていたこと。話す予定はなかったとに、口にしてしまった。後悔したが、今更言葉を撤回することはできない。
「……今日、ずっと、そんなこと考えてた」
「っ……!」
名前は息を呑んだ後、両手で顔を覆ってしまった。
「あっ、悪ぃ……! き、気持ち悪かった、よな……?」
――やば、絶対傷つけちまった……!
こんな年寄りにこういう話されても、気持ち悪いと思うだけだ。名前が自分の年齢を知っているのかはわからないが、それを抜きにしてもまだ会って二日目のやつに、こんなこと。しかも本人が本気で悩んでいる体調のことを、『もしも』だなんて簡単なくくりで話されてしまったのだ。そりゃ泣きたくもなる。
ネロはどう謝ろうか考えていた。こういう時、ファウストならしっかり真っ直ぐと謝れるだろうし、ブラッドリーなら自分の考えをきちんと伝えるだろう。お手本にならない両者の行動を想像してみても、結局ネロは謝罪の言葉を考える結果となってしまう。
「――……ありがとう、ございます」
名前のくぐもってしまった声に、ネロの思考は停止した。
「ありがとうございます……!」
もう一度、お礼を伝えられる。顔を覆いながら、名前は少し涙声で話した。
お礼を二度も言うのならば、ネロが気にしていた方向へは、名前は受け取らなかったようだ。気持ち悪いと思われていなくてどこかほっとしてしまう。
「……まあ、ここには色んなヤツらがいて、色んなことが起こるけどさ」
ネロは仕切り直しと言わんばかりに声を掛ける。
「俺で良ければ、話、聞けるから……」
「っ……」
名前はそっと両手を顔から外した。潤んでいる瞳を見て、ネロは視線を落とす。
「っ、わたし……面白いお話とか、できないですよ……?」
「っ! ふ、くくっ……そう返してくるか」
ネロはこみ上げてくる笑いを押し殺しながら返事をする。まさかそういう答えが返ってくるとは思わなかった。
真意をつくような、物事の本質を確かめるようなことを考えて口にするのに、こういうところは少しずれた回答をしてくる。真面目なだけではないのだと、どこか安心してしまった。
「え、あ、だって、あの、本当、つまらない人間なので……!」
慌てて言葉を返す名前にネロは笑いを抑えると、両手をポケットに突っ込んで、少し首を傾げて微笑んだ。
「あんたが見る、この世界が気になった……って言ったら、困る?」
「っ! え……」
「まあ、賢者さんも異世界から来て色々な見方や感じ方をするけどさ……」
どうしてこんなことを話しているのか。自分でも理由がわからなかった。しかし、名前と話していて気づいたこと。知りたいと思ったこと。知っていきたいと感じたこと。
名前に願うだけじゃなく、名前もそれに応えてくれて、できたのなら。
「名前が見て、感じたものを、教えてよ」
気持ちを込めて言葉を紡いでくれる彼女から見たら、この世界はどう映るのか。そんな壮大なことではなく、何かを見て綺麗だとか、もっと知りたいだとか。そういう、小さい宝石の原石みたいなことでいい。教えてもらってなにになるとかでもないけれど、ただ知りたいと思った。
これはきっと、個人的な興味なのだろう。以前、晶が部屋を訪ねてきて賢者の書に一人ひとりのことを書き記したいと言った時のことを思い出す。確か晶に言った言葉を、いま自分は自分自身に当てはめている。いいや、当てはまるのだ。きっと自分は、名前に興味をもっている。
名前が涙をためながらはにかんで頷く。それはひどく綺麗な光景だった。なぜだか自分のマナエリアである、夕焼けに照らされた小麦畑を思いだし、ネロは目を細めた。
しかし、それから十日後、名前は部屋からまったく出てこなくなった。
(つづく)