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 閉め切ったカーテンにより、部屋は真っ暗闇に包まれていた。そのさらに奥の暗闇に、名前はいる。ベッドの中で身体を縮こませて、ひっそりと息をしていた。
 今は何時なのだろう。スマホで時間を確認しようとしても、上手く身体を動かせない。それに、スマホのバッテリーはもう残り僅かだから、触らない方がいいのかもしれない。晶やカナリアに相談して、時計を部屋に置いてもらうべきだった。しかし、その相談すら今はまともにできない状況だった。
 フィガロが南の国に出発して数日後、名前の持っていた薬は底を尽きた。飲まなくなってからは、より一層フィガロのシュガーを食べていたものの、薬の効果が切れ始めると同時に、次第に体調に変化が現れ始めた。
 最初は、思考の問題。自分を責めやすくなったり、不安が強まってきた。何をしていても不安が募り、相手に伝えたたったの一言ですら、その言葉選びは大丈夫だったのか気になって一人反省会をしてしまう。また、悲観的になり、脈絡もなく涙が流れて止まらなくなる。
 次に、脳の認知機能の問題。情報の処理が脳内で上手くいっていないようで、誰かと話をしていても、何を言われたか理解をするまでにかなりの時間を要する。「〜ってことですか?」と内容を振り返って確認する形で最初はしのいでいたが、徐々にそれも難しくなっててしまう。自分が何を話したらいいのかもわからなくなるのは、すぐのことだった。
 大勢の人が話している場所に行くと、自分に話しかけられていても聞き取れなくなってしまう。首を傾げる人々に、名前はただ「考えごとをしていて」と伝えてやり過ごすしかなかった。
 それと同じ頃に、だんだんと身体が重く感じるようになり、ある日ベッドから起き上がれなくなってしまった。
 名前が部屋から出られなくなって数日は、よく晶や他の魔法使いも様子を見に来てくれたが、名前が声さえ出せないことがある時が続くと、次第に来訪は減っていく。今では、朝昼夜の三度、廊下の前に食事を置きに来てくれる誰かの声が聞こえるだけ。
 名前は自分が酷い顔をしているし、なかなか入浴もできていないため、会わない方が都合が良かった。本当は食事も自分で取りに行くべきなのだろうが、廊下に置かれた食事を取りに行くことが、今の名前にとって精一杯の移動だった。これがトイレになると、命を燃やす覚悟で廊下にでなければならない。
 食べる気力はあまりなく、バスケットに入れられた食事を残すことも多かった。少量で消化のいいものを入れてくれているのは、きっとネロだろう。申し訳なさが募るばかりで、動けない自分に悔しくてベッドの中で泣く日もたびたびあった。しかし、そうしたところで身体が動けるようになることもなかった。
 薬がないと、食事をとる理由が見つからなくなるのも、名前から食事が遠ざかっている一つの理由だった。それまでは、薬を飲まなければならないから、胃になにかを入れなければと考えていた。しかし、それが晶や他の魔法使いたちと交流をしていくうちに、食事が楽しみの時間になってくる。それもこれも、彼らと料理を作ってくれているネロのおかげだった。名前は食事が楽しいことに、久しぶりに気づくことが出来たのだ。
 しかし、こうして部屋から出られない、食事も一人で食べるようになってしまうと、途端に楽しみは途切れてしまう。そもそも病気の進行が進んでいるため『楽しい』とすら感じられなくなっていた。食事が摂れるときは、ただ淡々と口にパンやらスープを運ぶだけ。その動作も億劫になったり、疲れたりすると途中でやめてしまう。
――せっかく少しずつ、仲良くなれたと思ったのに。
 この世界にやってきて二日目に食べた夕食。あれがきっかけとなり、カインやリケ、ミチルとも話せるようになった。また、シャイロックやムル、ラスティカやレノックスも見かけると声をかけてくれるようになった。
 図書室で出会った、ヒース、シノと呼ばれていた少年たちと、ファウストとはまだ話ができていないけれど、見かけて会釈をするとそっと返してくれるようになっていた。
 中央の魔法使いのオズとアーサーにも、カインやリケを通して挨拶をした。オズは寡黙な人だったが挨拶をしてくれたし、「体調は」と気にかけてくれた。アーサーは「ご挨拶が遅くなり申し訳ない」といって綺麗な笑顔で自己紹介しtてくれた。
 北の魔法使いは、まだスノウとホワイト、ミスラとしか話したことがなかった。ブラッドリーとオーエンは他の魔法使いや晶が間に入って紹介してくれたものの、特にそれ以上話が進むことも無く、ほとんど顔見知り程度である。しかし、双子は体調を気にかけてくれるし、ミスラは食事が欲しいと交渉したりしてきた。
 本当に少しずつではあったが、この世界に慣れた感覚を得ていたのに。
――具合が悪くなることはわかっていたけど。
 元いた世界での薬が少ないことから、きっと体調を崩すと気づいていた。それでも、フィガロのシュガーと薬があれば、踏ん張れるのではないかと思っていた。しかし、フィガロは未だに南の国へ出発してから帰ってこないし、今回は症状の現れが早いような気もする。
「ごはん、食べなきゃ……」
 朝食は頑張って廊下に置いてあるものを取りに行けたものの、まだ食べられていなかった。名前はゆっくりと起き上がり、机の上に置かれたバスケットに手を伸ばす。ギリギリのところで指先にバスケットの持ち手が触れて、落とさないように引き寄せた。
 ベッドの上で食べるのは行儀が悪いとわかっていても、立ち上がるのは身体が重すぎて難しい。バスケットの上に掛けられたスカーフを取ると、中に入っていたのはパンと小さなボウルに入ったスープだった。
――パン、食べられるかな……スープこぼさなくて良かった。
 ドロっとしたものやゼリーみたいなものだったら食べられそうだけど。噛むの大変そう。
 しかし、用意してくれた手前、食べずに返すのはいけないと思い、パンを手に取って一口大にちぎる。手が震えるのを抑えることもできず、ぷるぷると小刻みに動くパンを口で迎えた。
 パサパサとしていて、口の中にひっつくような感覚がする。もちろん、味覚は戻っていないから味などない。パンにつけるためのマーガリンが小皿に乗せられ添えられていたが、つける気にはなれなかった。
 口の中が乾いてしまい、名前はパンを置いてスープを食べようとする。スプーンを持ってちびちびと口に含んだ。少しずつ喉が潤っていく。
――味がわかったら。
 そう考えることもこの世界に来てからはあったものの、今はそれすらも考える余裕がなかった。ただ作業のように口に運び、終わりを待ち続ける。
 どのくらいそれを繰り返しただろうか。スープはなんとか全て飲み干したものの、パンは残してしまった。食器をバスケットに戻して机の上に置く。そのままの勢いで、名前はベッドに倒れた。
「むり……」
 身体が鉛のように重い。動かしづらい。何かを考えようとしても思考が停止してしまう。本当であればバスケットを厨房に戻しに行くか、廊下に出しておかなければならなかったのに。それすらもすぐに行うことができない。
「ねむ……」
 先ほどまで寝ていたのにまた眠くなってくる。寝ても寝ても解決しないこの暗闇の中にいるような感覚は、いったいいつまで続くのだろうか。

 目を覚ました名前は、ぼうっと天井を眺めていた。今が何時なのかを確認するのも面倒に思えて、ゆっくりと身体を横に転がす。欠伸を一つすると、涙で歪んだ視界にバスケットが目に映る。
「戻さなきゃ……」
 今なら身体が動くだろうか。眠ってすっきりした感覚はあまりなかったが、眠る前よりかは身体が動きそうな気がしていた。
 名前は両手をベッドにつけてゆっくりと身体を起こす。目をこすり、手櫛で髪を整えて、緩慢な動きでベッドの縁に座る。床に置いてあった靴を履き、踵を踏むか悩んだ末にしっかりと踵を入れて、両手に力を込めて支えながら立ち上がり、近くにある椅子の背もたれに手を伸ばして掴まった。
 視界が高くなると、久々に立ち上がったように思えてしまう。名前はバスケットに手を伸ばして、持ち手の部分に触れる。しかし、手を止めてしばらく考え込んだ後、もう片方の手を伸ばしてバスケットを抱えた。片手では持てないと判断した。
 足が重く感じてうまく持ち上がらない事に気づき、引きずるように前に進みながら、名前は久しぶりに部屋を出た。
 しかし、数十歩歩いてすぐに、名前は息を切らしたように苦しくなって、壁に寄りかかって座り込んでしまう。
――こんなに動けなかったっけ……?
 身体の動きにくさ、重さ、果てしない廊下の長さ、疲れ。歩いて厨房に行くだけの、それだけの事ができなくなっていることへの落ち込み。厨房に行けたとしても刺さる周囲の人からの視線。
――やっぱり無理かも。
 部屋から出ない方が良かったかもしれない。いつものように、扉のところにバスケットを置いておくだけで良かった。今下の階に降りて厨房に行ったところで、迷惑になるだけに決まっている。迷惑を掛けるくらいならば、皆の視界に入らないように、関わらないように、おとなしくずっと部屋にいれば良かった。
 後悔ばかりが名前の脳内を支配して、それはだんだんと悲観的な考えや落ち込み、自責を生み出してくる。抱えているバスケットをぎゅっと胸に抱き、名前は俯いた。
 まるで嵐のように、海に沈んでいくように、思考は名前を苦しめていく。通常ならば気にならないように一つひとつの行動、言葉、考え方がすべてガラリと変わった印象に思えて、ナイフのような鋭利なものとなり自分を苦しめていく。自分自身で解決もできないまま、ただ苦しむことしかできず、そこから逃れることもできない。
 まるで終わりのない悪夢だった。自分ではなく病のせいなのだとわかっていても、思考は止まらずに自分のせいだとささやき続ける。
「――お前……媒介の嬢ちゃんか?」
 太く芯のある低い声。『媒介』という呼ばれ方はこの建物の中で一人しかいない、自分につけられた役名だ。
 名前は重たい頭を上げていく。目の端に浮かび上がった涙が零れそうだった。何に対しての涙なのかもわからないそれは、流れたところでなんの意味も見いださないのかもしれない。
「あ……」
 目を丸くして見下ろしてきているのは、ブラッドリーだった。名前は固まってしまう。あまり話したことのない相手であるため、どのような返事をすればいいのかわからない。
「ブラッドリー、さん……」
 名前を呼ぶことができず、名前は静かに視線を下ろした。抱えていたバスケットをぎゅっと握る。
「こんなところでなにしてんだ。……お、食いもん持ってんじゃねーか」
 名前の視界の端にブラッドリーの曲げられた脚が映る。ブラッドリーが自分の前にしゃがみ込んでいるのだ。急に接近した距離に名前は息を呑んだ。
「なんだ、肉はねえのか。ここで何してんだ?」
 ブラッドリーはバスケットからパンを奪い取る。名前が目を見開いて大きな手を視線で追うと、手と同じように大きな口でぱくりとパンを食べ始めた。
「……。これを、返しに、行こうと」
 名前はあんぐりとした後、自分がしようとしていたことを思い出してぼそぼそと返事をする。パンを食べたときの、口の中に張り付いたような感触に自分の声が似ていた。
「俺が訊いてるのは、なんでこんなところで座り込んでるのか、だ」
「っ」
 ヒヤリとしたものが背中を伝ったような気がした。ブラッドリーは単純に疑問に思っているだけなのかもしれない。しかし、今の名前の思考はその純粋な疑問ですら、名前自身を責めているように感じ取ってしまう。
 目の端に溜まっていた涙が頬を転がっていく。そに一粒を皮切りに、涙は次々と流れていく。
「っ、う……」
「うおっ⁉ な、なんだ、どうしたんだ……!?」
 明らかに動揺しているブラッドリーに返事をしなければならない。しかしそれはできなかった。涙を止めようとして、それでもできなくて、バスケットを返しに行くことすらできない自分が情けなくて、どこか誰も知らないところに消えてしまいたくなって。病が名前をまた苦しめていく。
「ごめ、なさっ……」
 名前は身体を縮こめた。寝間着のまま廊下でしゃがみ込んでいるのだ。変な姿に決まっている。ブラッドリーがどこに行くつもりだったのかはわからないが、足を止めてしまったのは名前が原因である。時間を使わせてしまった。申し訳なさが募っていく。
 涙は零れて寝間着やバスケットを抱える手を濡らしていく。一度泣き始めるとすぐには止まらないのが難点だった。しばらくこの場で泣き止むまで、こうして一人でいるしかないだろう。
――はやく、いなくなって。
 これ以上に汚い状況を見られていたくない。早くこの場を去ってほしい。名前はぎゅっと目を瞑る。願いが叶うように祈った。しかし、名前の願いは叶わない。
「っ……?」
 名前の頭にバサッとかけられたのは、上着のようだった。ゆっくりと見上げると、ブラッドリーが着ていた上着が見当たらず、彼はスーツのような格好をしている。ということは、今自分に掛けられているものは、ブラッドリーの上着なのだろうか。
「嬢ちゃん、動けねえのか」
「え……はい……」
 ブラッドリーの質問に恐る恐る応えると、しばらく考え込んだ後ブラッドリーは口を開いた。
「……まあ、ネロに貸しはできるか」
「え……?」
――どうしてネロさん……?
 名前がぽかんとしていると、ブラッドリーはニヤリと怪しく笑った。
「俺様が他のやつの頼み事を、無償で聞くわけないだろ」
 次の瞬間、名前はブラッドリーに抱き上げられていた。

 自分で歩いて部屋から厨房まで行くよりも、はるかに速く目的地に到着する。名前はブラッドリーの腕の中で硬直していた。何が起きているのか理解できず、ただブラッドリーに運ばれた。涙の勢いは弱まっていたが、依然としてぽろぽろと零れていく。
 厨房に差し掛かったところで、名前はネロにこれまでのことを謝らなければならないのだという気持ちが強くなっていく。 
「おい、ネロ」
「なんだ、肉ならねぇ……って! 名前!?」
 ネロは包丁を置いて振り返る。あたたかい陽射しのような金色の瞳がこちらを向く。ネロと目が合う。途端に大きくなる瞳に、名前は申し訳なさが強くなっていく。
「お前、なにしてんだ!」
「は? コイツが廊下でぶっ倒れてたから連れてきたんだろうが。ほら、お前にこれを返しに行こうとしてたんだとよ」
 ブラッドリーに片腕で抱き直される。名前が抱えていたバスケットは、ブラッドリーの手によりネロに渡された。両腕で横抱きにされていたときと全く変わらない安定感に内心驚きつつ、名前は自分の手でバスケットを返せなかったことを悔やんだ。
「残ってたパンは暇つぶしに俺様が食ってやったぜ」
「残ってた……。名前……大丈夫、じゃねえよな……?」
 ブラッドリーの言葉にネロは一瞬言葉を呑んでから、名前に話しかける。ネロの柔らかい低い声を久しぶりに聞き、名前は再び涙を流しかける。
「ごめんなさい……全部、食べられなくて」
 今日だけではない。具合が悪くなってから、部屋から出られなくなってからの、ずっとずっと謝りたかったことだ。もっときちんと言葉にして伝えるべきなのに、名前の口からはそれしかでてこなかった。
「……これ、いつ食べたんだ?」
「わからないです……今日、ではあります……」
 ネロが話を逸らしてくれたのが手に取るようにわかった。じわじわと申し訳なさが指先を震わせていく。時間すらもわからない時間に食べた、どのタイミングかもわからない食事。そして、今が何時かも理解できないことに対して混乱すべきなのに、そこまで気が回らない自分がおかしくてしかたがなかった。
「……待ってろ、今食べやすいもん作ってやるから。ブラッド、そこ座らせろ」
「おう」
 ネロが視線で指した椅子にブラッドリーは名前を座らせる。小さくお礼を伝えたが返事はなかった。ブラッドリーはすぐにその場から離れ、厨房の戸棚を勝手に開けては何かを探している。
 ネロが何かを作りながら、つまみ食いしそうになるブラッドリーを注意する様子を、名前はただ眺めていた。二人は仲が良いんだなという印象を抱きつつ、自分は何をしているんだろうという不安感が頭を支配していく。
 普段と同じように廊下にバスケットを置いておけば、ブラッドリーやネロに迷惑を掛けなかったかもしれない。厨房まで自分を運ぶ手間も、別の食事を用意していたであろうネロに何か作らせることもなかったかもしれない。あの自室の扉からでなければ――。
――ずっと、ひとりだった。
 ベッドの中で、誰とも交流しなくて、ただ症状に苦しんでいるだけだった。
 久しぶりに他者の声を聞いた。言葉を交わした。温もりを感じた。あの、ずっと焦がれていた淡い世界にいる人の、幸せを煮詰めたような金色の瞳が見られた。
 名前は静かに涙を流していた。今は他者と同じ空間にいるのだからと涙を拭っても、涙は流れ続ける。
 これはなんの涙なのだろうか。脳のバグで流れているのか。後悔か、懺悔か、それとも感動からくるものなのか。自分でも判断がつかなくなっている。
 名前が涙を拭っていると、目の前にコトリとスープが置かれた。温かい湯気が立っている、コーンスープだった。
「腹いっぱいだったら、残していいからな」
「……ありがとう、ございます」
 名前は小さく「いただきます」と唱えて、スプーンを持った。しかし、スプーンは重く感じてしまいテーブルに落としかける。床に落とさなくて良かったと思い、今度はぎゅっとスプーンを握る。
 スプーンで一口分スープを掬って、口元に運ぶ。ぷるぷる手が震えながらも、数回息を吹きかけて冷まし、そっと口にスプーンを入れた。
 なにも味がしない、温かいだけの液体。それなのに、次の瞬間からは涙がまたぼろぼろと零れていく。味が分からないのに、こんなに美味しいコーンスープは食べたことがなかった。味がわからないのならば美味しさすらわからないはずなのに、直感で美味しいのだとわかってしまう。
「っ、あ……」
 夕食の準備の時間にお邪魔して、わざわざスープまで作ってもらって、迷惑をかけている。ずっと、ご飯を廊下に置いてもらって、でも食べられなくて、残してばかりで、味がわからないから美味しいことすらも伝えられなくて。
――どうして自分は、こんなに欠陥品なんだろう。
「ごめっ……ごめんなさい、ごめんなさい……」
 名前はスプーン置いて謝った。涙を拭う暇すらなかった。後悔と懺悔が脳内を支配していた。
「私が、ちゃんと起きられないから、外に出られないから、ご飯置いてもらってるのに、ちゃんと、全部、食べられなくて……っ」
 机の上で手をぎゅっと握る。絞り出すように名前は言葉を紡いだ。厨房には自分の声しか響いていなかった。少し間があった後、ネロの声が鼓膜を揺らす。
「具合が悪い時には、みんなにもそうするさ。名前にだけじゃないよ」
 ネロの優しい言葉がまるでナイフのように名前に突き刺さる。気を遣われている。非難されているわけではないのに、苦しくて、溺れていまいそうなほど息ができなくなって、名前は肩で息をする。
「……でも、わたしっ、なにもできてない……媒介の役目も果たせてないっ……!」
  媒介としてこの世界に召喚されたというのに、今まで一度としてその役割を果たせていない。体調を良くすることで役割を担うことができると教えてもらったのに、体調は回復するばかりか悪化している。役目を果たせないのならば、ここに滞在できる理由もなくなる。存在意義が、なくなるのだ。
「私、わたしだけ何も出来ないで、なにも……ァ、あぁ……」
 名前は両手で顔を覆った。絶望が名前の身体を覆い隠していく。絶望は闇と同じ色をしていて、暗くて自分の姿さえも見えなくなってしまう。
――このまま消えてしまいたい。
「……私、なんかっ、死んじゃえば――」
「ッ……」
 誰かが息を呑む声が聞こえた。次の瞬間、薬のような少しだけ苦く透き通るような匂いとともに、名前を呼ばれた。
「――名前」
 穏やかで、低くまろやかな声。名前は息を止める。視界が暗闇ではなくなっていく。啓示を受けたかのように、名前は顔を上げた。
「名前、ただいま。ごめんね、随分待たせたね」
 フィガロだった。もう何日も会っていない、薬草を探しに行くからと旅だったフィガロがそこにいた。
 フィガロは名前の隣に跪く。呆然としている名前と目を合わせ、首を傾げた。
「俺が誰かわかる?」
「……っ、ふぃ、フィガロ、さん」
「うん、正解。みんなのフィガロ先生だよ。食事がとれているだなんて偉いじゃないか」
 フィガロはちらりとテーブルの上にあるコーンスープに目を向ける。実際そのスープはまだ一口しか手がつけられない。しかしそれでも、フィガロは名前のことを『偉い』と評価する。名前は首を振った。
「でも、わたし、なにもできなくてっ……こんな、生きてるの、ダメ……」
 理解してほしい気持ちと否定してほしい気持ちがごちゃまぜになり、ただ自分を肯定してほしい願いへと変貌していく。誰にもわかってくれない思い。けれど、医者の彼なら症状という立場から受け止めてくれるという希望。名前はすがるようにフィガロを見つめた。
「随分病状が悪化してるね。俺の部屋においで。薬を飲もう。きっと楽になる」
 フィガロは冷静だった。医者としての見解を示し、やるべきことを淡々と伝えた。それだけが、今の名前を救い出せる希望であり、方法だった。
 苦しくて、苦しめられる中自分なりにあらがって、けれど効果がでなくて、ただベッドの中で蹲り、涙を流すだけの日々。フィガロが帰ってきたことでようやく日々に変化が訪れる。
 名前は口にしないように気をつけていた言葉を、言葉にしてしまった。この場に自分とフィガロ以外、誰がいるかを忘れてしまった。
「フィガロさ……せんせ、せんせい、わたし、わたし……死にたい、死にたい、しにたい……」
 誰かが息を呑んだ気がした。誰かはわからなかった。ただ苦しくて、死にたい気持ちに襲われて、その気持ちに対抗することもできなくて押しつぶされそうだった。
「うん、死にたいほど苦しいね。よく一人で耐えたね……《ポッシデオ》」
「っ……」
 名前が見た最後の光景は、優しく微笑むフィガロの姿だった。
 名前はフィガロの魔法によって眠らされる。この日、名前は久しぶりに穏やかな夢を見たという。

   *

 魔法で眠らせた名前を抱きかかえたフィガロは、特になにも動じる様子なく口を開いた。
「助かったよ、名前に食事を与えてくれて」
「……いや」
 見上げられたネロは気まずそうに視線を逸らす。瞼の裏には「死にたい」と繰り返した名前の姿が焼き付いて、今でも繰り返し思い起こされる。
「ああ、驚いた? これが名前のもつ病の正体さ。こうやって自分で自分を苦しめて、自死に追いやるんだ」
 あの穏やかで儚くて、自分にとって灯火のような言葉をくれる名前が、病によってここまで変貌してしまうだなんて。ネロは生きてきた数百年の間様々な体験をしてきたが、それでも見ていて気持ちの良いものではなく、胸がひしゃげるような音を立てていた。
「…………」
「理解できないかい? ブラッドリー」
「はっ。自分で自分を殺したいヤツのことなんざ分かりたくもねぇな」
「まあ、君ならそうだろうね。正常な思考をこうやって歪めてしまう、精神の疾患はある意味、恐ろしい病気さ」
 珍しく口を挟まずに状況を見守っていたブラッドリーが、ようやく口を出す。やはり彼の生き方とは無縁の言葉だったらしい。自らの生の行き先を決めつけてしまうような発言はネロにも覚えがあるけれど、ブラッドリーとはやはり相容れないものだったようだ。
「……名前は」
「ん?」
「よく、なるのか」
 自然と口にしていた。名前は回復するのか。今のこの絶望的な体調から、召喚されて数日間の、笑顔さえ浮かべられるような状態に、戻ることができるのか。
「俺を誰だと思ってる? 名医のフィガロ先生だよ」
 フィガロは名前を抱えて立ち上がる。当たり前だと言わんばかりに言い放つその姿は、北の国で恐れられていた頃の風貌と似ていた。
「ま、魔法でコントロールした方が楽なんだけど、名前がそれを拒んだからね」
「……提案したのか」
 残念そうに呟くフィガロに、ネロは思わず声を上げる。ふつふつと湧き上がる怒りみたいなものに気づかないふりをした。
「ああ。この世界に来た日にね。『自分の身体の主導権は自分にあるから。どんな状態でも、私は私だから』って、断られちゃった」
「へえ、悪くねぇ考え方だな」
「君が思っているほど、この子は弱くなってことだよ、ネロ」
「……別に、俺はなにも」
 言い当てられてばつが悪くなる。弱いと思ったことはなくはないが、それはどちらかというと立場の問題で考えていたことだ。召喚された人間の女の子で、故郷とはかけ離れた状況で、さらには媒介という役目を果たさなければならない。そのためにこの魔法舎に住まわされているのは、衣食住は提供されているものの、見方によっては人質のようでもある。加えて味覚を感じないという体質。気に掛けてやる要素は充分にあるのだ。同じように、手を貸してやる場面も多くあるはずだ。
 けれど、名前は名前なりに自分や状況を理解していた。名前なりに抗うことだってしていた。厨房で流した涙だって、懺悔のような謝る言葉だって、すべて自分自身と、病と、闘っていたのだ。
 闘い続ける名前に、俺がしてやれることは何かあるのだろうか。