1-3-2

 まるで深い湖か沼のなかにいるかのように、身体が重く沈んでいた。意識が浮上しても、瞼を上げるのに時間がかかる。指先を動かそうとしても億劫だけれど、あの時よりもマシだとすぐに気づく。
――あの時って?
 夢を見ているのか現実なのかわからない意識の狭間で、ぼうっと考えてみる。あの時とはいつか。しばらく目を瞑ったまま考えて、情景が浮かび上がってくる。宛てがわれた自室で、ひっそりと闇の中にいたときだ。あの時の絶望感と孤独感を混ぜ合わせたときよりも、それらの感覚は薄れている気がする。
 名前はゆっくりと瞼を上げた。つんと薬品のような、鼻を通り抜けるような匂いがする。ここは自分の部屋じゃないとすぐに気づく。頭を動かしてみて部屋を見渡す。やはり、部屋の中にある家具が違う。では、ここはどこなのだろうか。
 名前は顔を上げるように首を動かした。椅子に座っている人がいる。背中を向けているがこれはきっと――。
「おはよう。気分はどうだい?」
「……フィガロさん?」
 椅子に座ったまま振り返ったフィガロは、室内の匂いのような表情を浮かべている。何もかも見透かしてしまいそうな、深い森の奥にある鈍色が光る。見慣れない瞳の色に不思議な気持ちになりかける。
 名前は起き上がって身なりを確認した。来ていたのは自分の寝間着だった。
「よく眠っていたね。こんなに長く眠れたのは、久しぶりなんじゃない?」
「……私は、どれだけ眠っていたんですか?」
「半日くらいかな」
 半日か。確かにと名前は頷いた。これまでは眠れても気を失うように寝ていた気がするし、何度も中途覚醒してしまうから、まったく眠った気になれなかった。
 フィガロは椅子から立ち上がり、目の前に歩み寄ってくる。
「顔色を見ようか」
 声音が少しだけ変わったようだった。名前はすぐに診察が始まるのだと察した。
 頬に手を添えられて顔を覗き込まれる。目の下を親指で軽く引っ張られた。
「眠る前よりかは、顔色が良くなってるね。ただ軽い貧血を起こしてるみたいだ」
「はあ……」
 フィガロの解釈内容が上手く頭に入ってこない。まだぼうっとしているのか、自分の状態に興味が失せてしまっているからなのかは、自分では判断がつかなかった。
「鉄分を摂れるような食事が必要かな。あとでネロに頼んでおくよ。とりあえずこれを食べるといい」
 フィガロがパッと手の中に現せたのは、数粒のシュガーだった。お礼を伝えてから、名前は口の中に入れる。ゆっくりと飴を溶かすように舐めながら、名前は静かに思考をめぐらせた。
――ネロさん。
 澄み渡るような空色をした髪の、お腹をすかせるような匂いをまとっている、淡い世界にいる人。
 名前の脳裏には、次第に眠る前の記憶が蘇ってきた。
「あ……あのっ、私……っ」
 名前は両手で口を覆う。なんてことをしてしまったんだ。突然泣き出したりして、取り乱して、あろうことか自分は――。
『……私、なんかっ、死んじゃえば――』
 ズキンと胸が痛む。あの優しい人に聞かせてしまったのだ、絶望の言葉を。優しい食事を提供してくれる、気遣いすらもしてくれる、優しさの塊みたいな人がいる場所で、彼に似合わない言葉を吐いた。
 絶対に聞かれたくなかった。聞かせるものじゃなかった。絶望だなんて彼には似合わない。穏やかな陽だまりを浴びて、幸せ色の瞳を輝かせていてほしいのに。たぶん、聞いた瞬間、彼のその瞳の色は濁ったに違いない。
「わたし、なんてこと、あそこでっ……」
 指先が震えてくる。心の奥底から震えが止まらない。名前は両手を胸に抱き握りしめた。
「キッチンでのこと? 気にしなくていい。ネロもブラッドリーも、君のことを言いふらすようなやつじゃないよ」
「で、でも……」
 自分が呟いた言葉の大きさと重さくらい、自分でもわかっている。他の人からしてみたら、耳慣れない言葉だってことも理解している。少なからず驚いたはずだ。突然の感情の乱れは、不快とすら思える姿だったに違いない。
 せっかくネロが作ってくれたコーンスープだって、一口しか食べられなかった。時間を割いてまで作ってくれたというのに。『いただきます』も『ごちそうさま』も言えていたか記憶に乏しい。
「君の状態が悪いことと、症状がそうさせていること、きちんと説明しておいたよ。だから、気にすることじゃない」
「…………」
 フィガロの言葉はどこまでも優しい。正解をなぞるようなその優しさに、名前はすぐに身を委ねることはできなかった。
――本当に気にすることでは無い? 本当にそうなの?
 どうしても懐疑的になってしまうのは、鬱のせいなのだろうか。それとも、フィガロを信じられないからなのだろうか。
 頭の中がぐるぐるとしてくる。正解がわからない。何が現実で、正しくて、悪いのか。ぐるぐるととぐろを巻いているものは、黒い塊を生み出して、名前の全身の中を悪霊のように動き回る。身体が重くて強ばる。胸が痛い。
 自分の力だけではどうしようもできないその黒い塊に、名前は俯いた。
 綺麗な姿だけ見せていたかった。自分は特別容姿が整っている方ではないけれど、相手を不快にさせないだけの清潔感は持ち合わせていたかった。容姿だけじゃない。言葉遣いだったり、気遣いだったり、せめてここにいても相手が不快にならない程度の思いやりを持っていたかったのに。
 状態が悪い姿を見られたくなかった。こんな醜くてどうしようもなくて、救いようのない姿を、見せてしまった。
――もう、合わせる顔がない……。
 身体を丸め込むように縮こまると、フィガロの声が日光のように降り注ぐ。
「いいかい、名前。顔を上げて」
「……はい」
「今の君がまずやることは、しっかり休養を摂ること。少しでも食事をすること。そして、薬を飲むことだ。わかるかい?」
「はい……」
 頭では理解している。体調が回復するために必要な最低限のことが休養である。それに加えて、薬物療法、生活リズムを整えることが、治療には重要になってくる。
「……よし。じゃあ俺はネロに食事を頼んでくるから。名前はここで待ってて。眠くなったら寝てしまってもいいからね」
「え……はい。ありがとうございます……」
 フィガロは白衣のような服を翻して部屋を去った。
 名前はぽつんと部屋に置き去りになる。自室ならばベッドに寝転んでしまおうとも考えたが、ここはフィガロの部屋である。つまり、フィガロのベッドを使って半日も寝てしまったのだ。申し訳なさが募ってくる。
 フィガロは大丈夫と話していたが、それでも不安は拭いきれない。涙を流した時、死にたいと話した時、暗闇に飲み込まれてしまいそうで、ネロの顔を見ることはできなかった。
 ネロはどんな顔をしていたんだろう。険しい顔をしていたのか、それとも哀れんだ顔をしていたのだろうか。全く想像ができない。
「はあ……」
 名前は両手で顔を覆って項垂れた。次にネロに会ったら、謝らなければいけない。スープを食べられなかったことと、取り乱してしまったこと、あと、体調を崩してからご飯をちゃんと食べられていなかったことも。
「……そうだ、ブラッドリーさんにも」
 五階の廊下で倒れていたところを発見して一階まで下ろしてくれたのは、ブラッドリーだ。『ネロに貸しができる』といったような話をしていたのはわからないが、運んでくれたのは事実だ。お礼を言わなければいけない。 
 そう心に決めたところで、扉がノックされる。小さく返事をすると、フィガロが戻ってきた。
「――起きてるかな?」
 トレーに載せて盛ってきたのは、見慣れた食事だった。
「おじや……?」
「君が目を覚ましたって聞いたらすぐに作ってくれたよ。料理人ってのはさすがだね」
 フィガロの話を聞いて、料理をするネロの背中が思い出された。それと同時に、名前の脳裏には、この世界にやって来て二日目の朝のことが蘇る。
『食べ慣れたもののほうが、気は楽だろう?』
「ネロさん……」
 名前の双眸には涙が込上げていた。涙を止めることもできず、ぽろぽろと零れ落ちていく。
 ネロと直接会話はできていないのに、ネロが伝えてくれていることが、手に取るようにわかる気がした。
――どうしてこんなに、優しいの……?
「っ……ふっ……」
 両手を使ってぐっと涙を拭っても、頬を濡らしていく。苦しくて、ネロの気遣いが嬉しくて、切なくて、味がわからない自分が許せなくて、名前は声を漏らしながら泣き続ける。 
 フィガロは小さい音を立てて机にトレーを置くと、名前の隣に座り、肩を抱いた。
「君が症状に襲われた時、俺は君の肩を抱いてこう話すよ。『大丈夫、君は必ず良くなる』ってね」
「う……ぁっ……ああ……」
 本当にそうなのだろうか。本当に、体調は良くなるのだろうか。また自室からでて、みんなとご飯が食べられるのだろうか。回復した自分の姿が、まったく想像できない。暗闇の中にずっと一人でいるような気がしている。
「さあ、まずは食事を取ろう。ネロが用意してくれた食事を。それから、薬の話をしよう。これから長い付き合いになるんだ。改めて、よろしく頼むよ、名前」
――まだ、暗闇の中。だけど……。
 ほんの少しだけ、光が見えた気がした。名前は顔を上げて机の上に置かれたトレーを見やってから、隣のフィガロを見上げる。
「……はい、お願いします」
 フィガロに笑みを返され、トレーを取ってもらう。膝の上に載せたトレーの上のボウルは、少し小さめのサイズだったが、名前にはぴったりだった。
 スプーンを手に取る。口に運んだおじやの味は、やはりわからないけれど、優しい味がした気がした。

 時間を掛けて完食することができた。フィガロがトレーを返しに行ってくれたあと、薬の話となった。名前をベッドに腰掛けさせ、フィガロは椅子を対面になるように置いて座った。
「この薬を、毎食後に飲んでもらうよ」
 フィガロが薬包紙に包んだ薬を見せてくる。それは粉薬で、二種類ある。
――そっか、錠剤じゃないよな。
 錠剤に慣れすぎていて、粉薬という存在を忘れていた。名前は気を取り直して話を聞く体勢をつくる。
「片方は眠くなる副作用があるから、もしかしたら飲んだあと、眠くなるかもしれない」
「わかりました」
 フィガロは何も無いところから、グラスと水の入った瓶を取り出した。それらは踊るように空中で動き、水を注いでいく。水がたっぷり入ったグラスが、名前の前に移動してきた。
「ありがとうございます」
 名前はまず口に少しだけ水を含み、薬包紙を摘んで口の中に薬を投入した。再度口に水を含んでごくりと飲み込む。同じようにもう一度それを繰り返し、完全に薬と水を飲み干した。
「薬の効果がいつでてくるかはわからない。数日かかるかもしれない。気分の落ち込みと精神の不安定さ、不安に効く効能で作ってあるけど、なにか変化があったら教えて。名前のことだから、内省はできそうだからね」
「わかりました」
 フィガロはまたもや魔法で瓶とグラスを消してしまう。いったいどこに消えてしまったのか気になりつつ、フィガロの顔を眺めていると、にこりと微笑まれた。
「さて、君の部屋だけど、しばらくは俺の部屋の隣を使ってもらうよ」
「え……?」
「急患用に部屋を一つ空けてあるんだ。そこで療養してもらう。薬を届けに行くのも楽だしね」
「……でも、いいんですか? 使ってしまって」
「五階まで行くのは骨が折れるからね。その方が食事も運びやすい」
「……すみません、何から何まで」
 そうだ。運ぶのだって手間である。自分だって一階と五階の移動は苦労するのだ。他にも苦労する人がいたっておかしくないし、皆気を遣ってくれているけど本来は〈大いなる厄災〉と闘うために準備したり、任務に行ったりしなければならいない。忙しい身なのだ。
「名前、君の今すべきことは何?」
「え……」
 名前は言葉を詰まらせる。しばらく考えた後に、フィガロを見上げ言いにくそうに呟いた。
「ちゃんと、休むこと……?」
「そう。まずはそのことに集中して。他のことは、もう少し時間を置いてから取り組んでも遅くない」
 フィガロに手を伸ばされる。視線を手とフィガロの顔を往復する。手を伸ばしてフィガロの上に重ねる。固くてしっかりしていて、支えることが上手そうな手のひらだった。
「さ、まずは部屋に移動しよう。そのうち薬が効いてくるから、眠りにつくといい。また、様子を見に来るよ」
 名前はフィガロに手を引かれて部屋を出る。心の中で部屋を使わせてくれたお礼を言って、敷居を跨ぐ。
「……あれ? 名前? 名前ですよね!」
「リケ! 待ってください! あ、名前さん!?」
 廊下の奥から駆け足でリケが向かってくる。ミチルがその背中を追いかけてきた。久々に二人の姿を見た気がする。
「名前、目が覚めたんですね! よかった!」
「あ……ありがとうございます」
 ミチルも近づいてくる。目の前に二人が並ぶと、少しだけ驚いてしまって身体を引いてしまった。
「あ、名前さん。よかった……! 起きられたんですね!」
「今、ミチルとお花を摘んでいたんです、ほら!」
 ミチルとリケの両手にいっぱい摘まれた花を見せられた。色とりどりの花は大きな花びらのものや、小さなつぼみの形のような花など様々な組み合わせで、花束をもらったことのない名前からしてみても、美しいと思えるものだった。
「本当だ……すごい……」
「名前さんが早く良くなりますようにって、願いを込めて摘んで来ました!」
「え……? わたしに……? 」
「受け取ってください、名前」
「保護の魔法を二人で掛けたので、枯れるまでちょっと時間が伸びたはずです!」
 リケとミチルに手渡されて、名前は両腕で受け取り抱え込んだ。息を吸うと花の香りが胸いっぱいに広がっていき、少し前に全身の中を渦巻いていた黒い塊が、消えていくような気がした。
「えらいなあ、もう保護の魔法を実践したのかい?」
「はい! 上手に出来たと思います!」
「僕も、一所懸命やってみました!」
「……名前」
 少しずつ、視界が歪んでいく。だめだ、今泣いてしまったら、絶対にリケとミチルを困らせてしまう。
――こんなこと、されるほどの人間じゃないのに。
 花束をもらえるほどの功績を残していない。他者に優しくできてもいない。
 それでも二人は嬉しそうに花束を渡してくれる。きっと、摘んでいたときも、そんな表情を浮かべていたに違いない。
「ありがとう、ございます……」
 名前は言葉が形になるまで少し時間がかかった。一回だけのお礼では気が済まなくて、名前は再び口を開く。
「ありがとうございます……すごく、すごく嬉しいです。元気を、もらえました」
 二人の顔を見て話すのは少し気恥ずかしくて、花束を見ながらお礼を伝えてしまった。言い切った後に、これは失礼だったと気づき顔を上げる。すると、リケとミチルは満面の笑みを浮かべていた。
「本当ですか!」
「また、枯れそうになったら新しいのを摘んで来ますね!」
「そうだ! 賢者様やみんなに、名前さんが目覚めたこと伝えに行きましょう! 行こう、リケ!」
「はい! じゃあ、名前。また!」
 リケとミチルは暖かい風のように去っていく。背中が見えなくなるまで名前は二人を見送った。
 花束を見つめる。大きい花、小ぶりな花、花に寄り添うように隣合っている草。その全てが美しくて、綺麗で、淡い色に包まれている気がした。
「っ……」
 いつの間にか視界が歪んでいた。鼻をすすって涙と鼻水を堪える。
 どうしてこんなに優しくしてくれるのだろう。まだ出会って数日しか話していないはずなのに。友人でもないはずなのに。役目も果たせていないのに。
「悲しくなっちゃった?」
「……わかん、ないです。悲しいのか、嬉しいのか……」
 頬に零れた涙を拭う。ぽろぽろと流れてくるのを受け止めきれず、それは草花にぽたりと落ちていく。
「すぐに正解を導き出さなくていいよ。その花が枯れる頃には、きっと答えがでてるはずさ」
「っ……はい」
 名前はフィガロに促されて療養部屋に移動した。殺風景のその部屋は、ベッドとベッドチェストが置かれているだけで、フィガロが話した通り、看病する為だけの部屋という言葉がピッタリだった。
「花瓶がいるね」
 指を鳴らしたフィガロは花瓶を魔法で取り出した。名前から花束を受け取ると、花瓶に慣れた手つきで生ける。
「うん。綺麗だ。よかったね、名前」
 花瓶に生けられた花は、優しく微笑むように揺れる。
「……はい、綺麗です」
 名前は少しだけ、自分の心に暖かい風が吹き抜けたような気がした。

   *

 名前が目を覚ましたらしい。突然フィガロがキッチンにやって来たと思ったら「名前が目覚めたから食事を作ってほしい。あと、これからは鉄分多めのものを作ってくれると助かる」と話しだし、あろうことか完成するまでキッチンに居座られてしまった。戻らないのかと尋ねれば、移動が面倒だとか何とか。同じ階に居るはずなのに、そこまで面倒なのかと溜め息が出そうになるのをぐっと堪える。
 目覚めたばかりの名前に何を食べさせようか。きっと胃は小さくなっているだろうし、食欲はないはずだ。沢山作ったところで残してしまうだろう。
――おじやでも作るかねえ。
 名前の故郷の食べ物。以前この世界に来たばかりの頃、朝食に出した時に目を輝かせていたのをよく覚えている。食べなれているものの方が、きっと気は楽だろうから。
「名前が気にしてたよ」
「ん?」
「君の前で『死にたい』と話したこと」
「っ……そうか」
 名前を最後に見たときのことを思い出す。フィガロは病のせいだと話していたが、それにしても精神を取り乱しすぎていた。絶望に飲み込まれそうな、暗闇の中にいるかのような姿に、手を伸ばすことさえできなかった。
 ネロはおじやを作りながらも、自分の手を見つめる。
――俺じゃなければ、きっと手を伸ばしてたやつがいた。賢者さんだってそうだろう。
 けれど、自分は手を伸ばせなかった。名前の気持ちを知っていたからだ。死んだ方がマシな時のことを、自分は今でも思い出せるし、それは胸に深く刻まれている。
 まるで過去の自分を見ているようで、なんと声を掛けたらいいのかわからなかった。けれどきっと、あの場で声を掛けた方が正解だったのだ。自分はできなくて、ここにいるフィガロにはそれができた。それがどうしようもなく、モヤモヤする。
 ネロは手を握りしめる。
「まあ、生きてりゃそういう時もあるだろ」
「へえ。じゃあネロもそういう時があったのかな」
「っ……」
「ま、興味がないわけじゃないけど、今する話でもないか」
――本当質が悪いな。
 ネロは引き笑いを浮かべながら手を動かし続けた。それからはおじやのことを考え続け、完成させる。名前が食べられそうな量をボウル型の皿に注いで、トレーに載せてフィガロに託した。フィガロはゆったりと退室する。
「さて……鉄分多めの料理か、何が良いかねえ」
 ネロは他の魔法使いたちの食事の準備を進めながら、頭の片隅で考えた。

「ネロ! 名前が目を覚ましたんですよ!」
 リケがキッチンに飛び込んできたのは、料理が出来はじめた頃だった。嬉しそうに髪を揺らしながら駆けてくるリケは、早く言葉を伝えたくて仕方がないといった様子だった。
「ミチルと一緒に、花を摘んだんです。花束にして、名前に渡そうって。そうしたら、ちょうどフィガロの部屋から出てくる名前を見かけたんです! 名前、起きてました! それで、僕とミチルで花束を渡したんです! 保護の魔法もちゃんと掛けた花束を!」
 飛び跳ねそうなほど興奮しているリケを、ネロは洗面台に寄りかかりながら話を聞いていた。リケの頬は薄らと赤らんでいて、どれほど嬉しいのかが手に取るようにわかる。
「よかったな。受け取ってくれたんだろう?」
「はい! ありがとうって、二度も言われました! すごく嬉しいって、元気をもらえたって!」
 嬉しさを噛みしめるようだったリケは、言い終えるとすぐにシュンとしてしまう。
「どうした?」
 ネロは次に来るリケの言葉を思い浮かべながら質問をした。なんとなくではあったが、リケの気持ちが伝わってくるようだった。
「……名前、良くなるんでしょうか」
――やっぱりな。
 ネロの想像通りの言葉が返ってくる。ネロは話に耳を傾けた。
「また、皆でご飯を食べられるんでしょうか。まだ名前と全然話をできていないし、行きたいところもやりたいことも、沢山あります」
 リケはそわそわと指先を動かしている。不安や心配を隠せていない様子に、ネロはリケに近づいて頭を撫でた。
「大丈夫。フィガロがついてるだろ? もしかしたら時間がかかるかもしれないが、必ず良くなるさ」
「本当に? また、名前と一緒にご飯が食べられますか……?」
「……ああ、できるよ」
「……はい。僕、名前が良くなるように祈ります」
 リケは安堵した表情を浮かべると、手を組んでその場で祈りを捧げた。ネロはリケの頭から手をどけてしばらくその様子を見つめたあと、両目を覆いたくなってくる。
「僕、賢者様のところに行ってきます! 名前のためにできることが他にもないか、相談してきます!」
「ああ、行ってらっしゃい」
 パタパタと駆けていくリケを見送ったネロは、大きなため息をついて俯いた。
――皆、それぞれできることをしている。
 フィガロは治療を。リケとミチルは元気づけようと。
――俺はなにができる?
 食事の用意だって、本当に名前のためになっているんだろうか。もっと元気づける料理が、栄養価の高い料理ができるんじゃないか。
「なんで、こんな……」
 他者が行っていることが、気遣いが、その全てが眩しく見える。自分と比べて卑下してしまう。それぞれできることをやっているはずなのにだ。なぜこんなにも、煮え切らない気持ちになるのか。すっきりしないのか。胸を張ることができないのか。
――ああ、そうだ。
「名前だ……」
 ネロはぽつりと呟いた。それが答えだった。ふっと雪が降ってくるように、それは舞い降りた。
――名前が、いないからだ。
 名前が召喚されてから、彼女の感想が自分にどれほどの影響を与えていたか。名前が体調を崩してから、それが全くなくなってしまった。そのとき、どれほどもの足らないような、まるで自分自身ではなくなったかのような気持ちになったか。
 まるで灯火が消えてしまったかのような、路頭に迷うような気持ち。子どもの頃に嫌というほど体験してきた、生きることしか優先しなければならなかった時のこと。何をしてもどこか安心できない気持ちが、胸の奥に存在している。
「……慣れねえな、いつまでも。こんな気持ちは」
 慣れた方がどれだけ楽か。気づかなければ、きっとその方が苦しまずに済んだのに。
 自分にはもう名前の存在が必要で、かけがえのないものにすらなってしまっている。
「嘘だろ……こんなの」
 片手で両目を覆い隠す。自分の気持ちの変化についていけない。気づかないふりをしたい。けれどもう、彼女の存在は自分の中でどんどん大きくなっていっている。
「はあ……どうすっかなあ……」
 病状に臥せる彼女のために、できること。それは別の見方をすれば、自分が彼女に何かしたいというお節介に繋がらないだろうか。優しい彼女のことだ。受け止めてくれるしお礼も伝えてくれる。しかし、それが負担にならないだろうか。
 彼女の負担になり得る存在になるくらいなら、今のままの距離感で、食事時にしか関わらない間柄でいるのが、一番良いのではないだろうか。
『……私、なんかっ、死んじゃえば――』
 そんなことはないと、必要な存在なのだと、手を伸ばせるように。手は伸ばせなくても、隣で肩を抱くくらいできるように。肩を抱けなくても、手を繋いで、つらいよなと共感できるように。それでも無理ならば、隣に座って、ただ話を聞いていられるように。
「できるか? 俺に……」
 名前のために、名前の負担にならないようなことが、できるように。死にたい気持ちに襲われている名前の傍にいられるように。
 しかし、そんな優しいやつみたいなこと、自分にできるのだろうか。