1-3-3

 フィガロから薬を処方されて約二週間後。リケとミチルからもらった花束は、まだ瑞々しく咲いている。薬を飲み始める前よりも、起きていられる時間が少しだけ増えた気がする。
 薬を飲んでみてすぐに酷く気持ち悪くなることが続いたことはあったものの、処方を変えてもらうとそれも落ち着いた。
 入浴は夜中に行っている。身体が動けるようになるのが夕方以降なので、必然的に入浴は深夜になる。毎日入浴できたらいいが、できなかったときはフィガロが気づいてくれて、魔法を使って一瞬で綺麗にしてくれた。浴場は急患部屋のすぐ近くであるため、厨房の前を通る必要がなかった。
 食事は相変わらず、フィガロが運んでくれている。薬をきちんと服用しているかの確認もあるのだろう。食事量は増えることなく少なめだけれど、しっかり満腹になってしまう。三食ほぼ決まった時間に食べられているのは、成長とも言える。
 ネロとはまだ、会えていない。
「ひま……」
 何もすることがない。時刻はどうやら深夜零時近く。入浴を終えて、眠りにつこうとしたが、目が冴えてしまっているから寝つけない。目を瞑ってしばらく横になっていたが、それでも一向に眠気はやってこなかった。
「寝なきゃいけないのに……」
 食事の時間は決まっているのだ。朝食時にフィガロが部屋を訪れて、まだ眠ってしまっていたとしたら。せっかくご飯を運んでくれたのに起きていなければ迷惑を掛けてしまう。
「それだけは嫌だ……」
 寝顔を見られるよりも、起こされるよりも、迷惑を掛けてしまう方が許せない。
 名前は横になって毛布を被ってみたものの、変わらず。寝返りをごろごろ打ってみても、変わらず。
「はあ……眠れない……」
 名前はガバッと勢いよく起き上がる。床に足を下ろして立ち上がり、窓際に寄ってカーテンを開けて見上げると、〈大いなる厄災〉が輝き、その周囲に星がキラキラと輝いている。元の世界とは違って、星は目視できるし、月明かりに照らされた中庭はぼうっと幻想的な光を放っていた。
 夜に出歩くなんて、会社帰りの時以来である。そのときは何も考えずに夜道を歩いており、月や星、景色だなんて見向きもしなかった。
「……この時間なら、誰もいないかな」
 少しだけ、この世界の魔法のような夜の景色が気になった。外は寒いかもしれないから、そっと毛布を羽織り、靴を履いて部屋を抜け出す。行先は決めていないけれど、とりあえず庭に出てみよう。
 虫の鳴き声や風がそよぎ草花がざわめく音が、名前の足音をかき消していく。夜空を見上げると、窓から覗いた〈大いなる厄災〉とはまた違った印象を持つ大きな月が浮かんでいる。流れ星でも流れてきそうなほど瞬く星々を一つずつ数えながら歩いており、噴水に誰かが座っていることに気づけなかった。
「……あ」
「え……?」
 誰かの小さな声がして、噴水の方へ振り向く。すると声の主は、そこに腰掛けている、ワイングラスを傾けたネロだった。
「あ……ね、ねろさん」
 名前は動揺してしまった。まさかこんなところで会うとは思わなかった。ネロと会うのならば厨房でとしか考えていなかったのだ。
「久しぶり、だな。眠れないのか?」
「あ、えっと……あの……」
――どうしよう、何から話したらいいの。
 名前の頭の中は混乱状態である。話したいことが、話さなければいけないことが、ネロの顔を見た途端、声を聞いた瞬間に頭の中に浮かび上がってきて、上手く整理できないでいた。最後にネロを見たのは、取り乱していつの間にか意識を失っていた、厨房での出来事の時である。それから数週間が経過していた。何から話したらいいのかわからなかった。
 名前がその場で立ち尽くしていると、ネロは再び声を掛けた。
「座る?」
「あ……はい」
 ネロはバスケットをどかしてくれた。名前はネロの言葉に頷くしかできない。小さな歩幅でゆっくりと近づき、名前はネロが開けてくれたスペースに腰を落ち着けた。
――何話そう、どうしよう。
 名前は自分の足下を見つめながら考えた挙げ句、でてきた言葉は無難な一言だった。
「おっ……邪魔じゃ、なかったですか、?」
 ネロは見るからに晩酌をしている。ワインとおつまみを持っている。一人での時間を過ごしていたはずなのに、通りかかってしまったために邪魔してしまったかもしれない。
「ん? 平気。たまにさ、こうやってふらっと誰かが来ることもあって」
 ネロの少しだけまったりな口に、名前はゆっくりと目を見開いた。
――そうか、お酒を飲んでいるからか。
 普段とはまた違った伝え方に不思議な気持ちになってくる。なんだか知らないネロの一面が見れたようで、名前は酒を飲んでいないのに頬が熱くなる。
「……飯、食えてる?」
「は、はいっ……ちゃんと、食べられて、ます」
「そっか。そりゃよかったよ」
 ネロが質問して、名前が答える。その繰り返し。それだけではいけないと、名前は確信していた。もっと自分から話しかけないと。名前の心の中で自然と湧き上がる焦燥感が、名前の心臓を早くしていく。
「あの……」
 名前は立ち上がる。歩みを進めてネロの前に立った。歩くたびにドキドキは強くなっていく。
「私、あの、ネロさんに、話さなきゃならないことが、たくさんあって……」
 毛布をぎゅっと掴む。目を逸らさないように、見つめすぎて睨んだりしないように。頬がだんだんと熱くなっていく。
「私……ネロさんのコーンスープ、一口しか食べられなくて……ごめんなさい……!」
「……は?」
 ぽかんとするネロに、名前は一度言葉を飲み込みかけたが、勢いで口を開いた。
「あの時、せっかく作ってくださったのに、ちゃんと全部食べられなかったの、ずっと、頭に残ってて……それに、具合悪くなって、届けてくれてたご飯も、ちゃんと食べられなかったこと、きちんと謝れてなくて、私、その後取り乱して……!」
「待った待った! 落ち着こう、な?」
 ネロは眉をハの字にさせている。困らせてしまった。名前は上手く話せないことが悔しくて、次第に涙が込み上げてくる。
「コーンスープは、あの後ブラッドリーが全部食べたから。具合悪い時のメシの話は、その時もしてもらったし、俺もちゃんと聞いてたよ。その後のことは……」
「っ……」
 寒いわけでもないのに、ぶるりと身体が震えた。続く言葉を聞くことが怖い。きっとこの後の言葉は、あの時、取り乱した時のことを話すに決まっている。
「まあ、生きてりゃそう思うことくらいあるさ」
「……え?」
 次は名前がぽかんとする番だった。込み上げた涙も引っ込んでしまう。呆然とネロを見つめていると、見上げてきたネロと視線が絡み合った。
「っ……」
――ネロさんって、こんなに真っ直ぐ目を見てきたっけ……?
 名前の胸はドキリと大きな音を立てる。毛布を掴む指が理由も分からず震えてしまう。どうしたらいいのか分からず、けれどネロから目を離すことも出来ず、名前は立ち尽くした。
「……立ってると疲れるから、ここ、座んなよ」
 ネロは、先ほど名前が腰掛けた場所をトントンと片手で叩く。名前は蚊の鳴くような声で返事とは言えないような返事をして、のろのろと歩きそこへ腰かけた。
「……俺もさ」
「っ、はい」
「似たような思いをしたことが……ないってわけじゃない、というか……まあ、これはもうほぼあるって言ってるようなものなんだけど」
「え……」
「だから、そういうこともあるよなって思ったのが、まず第一だった。もちろん、突然泣き崩れたアンタに驚きはしたけど……その発言に否定も、軽蔑も、なにもしないよ」
「っ……」
――どうして、こんなに肯定してくれるの。
 ネロはいつも、肯定してくれる。味がわからないときも、魔法舎の皆と仲良くなれるか心配していたときも、そして今回も、すべて名前の言葉を受け止めて、それをそのまま肯定してくれる。否定することも軽蔑することも簡単だし、そっちのほうが楽に決まっている。相手を受け入れることの方が難しいし、手間のかかることである。それでも、ネロが名前を肯定しなかったことは、これまで一度だってなかった。
「だからさ――」
 ネロの声が、少しだけ固くなった気がする。
 名前はネロから目をそらせない。星々が輝く空の下、澄んだ空気に身を包み、ネロの瞳はどこまでも輝いていて、まるで名前を導いてくれているようだった。
「――そういう気持ちになったら、俺のとこに来なよ」
「……え?」
 言われた意味を理解するまで時間がかかった。ネロは今何を言った? 自分のところに来るよう? それはつまり、病気のせいで気分が滅入ってしまったら、死にたい気持ちに襲われたら、駆け込んで来いという意味。それはまるで、頼ってほしいとでも言っているような――。
「えっ、と……」
「……あっ」
 言葉に詰まっていると、ネロは我に返ったかのように目を丸くした。片手で口を覆って、まるで自分の言葉が衝撃的だったとでもいっているようだ。
 いつの間にか、ネロが手にしていたワイングラスは、宙をふわふわ漂っている。名前はそれを視界に入れながらも、ネロの言葉にどう返したらいいのか、未だに迷っていた。
――ネロさんの言葉は、驚いたけど、うれしい、のかもしれない。
 名前は静かに胸に手を当てる。胸にぽっかりと空いていた穴は、不思議なことに今は埋まっている気がする。一人宛てがわれた個室で暇を持て余していた時も、眠ることしかできない日々も、慣れない粉薬を飲む時よりも、胸にはなにかが詰まっていて、それは名前を苦しめるものでは無い。
――気にかけて、くれた……。
 賢者の魔法使いとして、料理人として、日々忙しいはずなのに。自分に心を傾けてくれた。他でもない、淡い世界を見せてくれたネロが。もう、名前は寂しくもなんともない。
 星空も噴水の水しぶきも、ネロの周りもすべてが小さな光の粒で溢れ出し、キラキラと輝き彩っているように見えてくる。
「あ、あの――」
「――いや、悪い」
 名前が言葉を返しかけた瞬間、ネロの謝罪が中庭に響く。名前は息が止まりかけた。
「うわ……『俺のとこに来い』だとか、気持ち悪いよな……本当、不快にさせたなら謝るよ、ごめん」
「え、あっ、ち、ちが……!」
「自分でも何言ってんだろうなとは思ってんだ。酒の飲みすぎかもな」
 ネロは少し早口だけれど、一音一音まったりとした発音で言葉を返してくる。ネロの一声に、ワイングラスは踊るようにクルクルとその場で回り出した。
 名前はあまりしたくなかったが、話を遮るように息を吸った。
「私、不快だなんて――」
「別に、俺でなくてもいいんだ」
「っ、え?」
 ネロの言葉に、名前は心臓がドクンと大きく鳴った。瞬きでしか返事をできないでいると、ネロは口を開く。
「俺じゃなくたって、フィガロでもいい、リケやミチルだっていい。ルチルやクロエ、カイン、スノウやホワイトもきっと手を貸してくれる。それに、賢者さんも」
 ネロは自分の手のひらを眺めながら呟く。ネロが話してくれた名前は、今まで交流をしてくれた人たちの名前だった。二日目に一緒に夕食をともにした者、頼りになる各国の先生役の魔法使いたち。名前の脳裏には彼らが楽しそうに笑う姿が浮かんでくる。
「だから、もし、『そういう時』が来た時は……誰かといる時に、見せたくないだろうし、一人になりたいかもしれないけど……誰かといるのも悪くないかもよ」
「っ……」
 名前の脳裏に、二日目の夕食の時のことが思い出される。写真に撮っておきたいほど、形に残しておきたくて、映像として録画しておきたいほど、忘れたくない記憶。絶対に、命を落とすまで、消えてほしくない思い出。
――誰かといるなら……。
 胸の高鳴りを無視できない。頬の熱さを取り繕えない。名前は大きく息を吸った。
――もし、いいよって、許してくれるのなら。
 名前は握りしめていた毛布を外す。片手を伸ばして、ネロの袖に触れた。直接見上げることが出来ず、少しだけ首を傾けてしまう。
「――ネロさんでも、いい、ですか……?」
「っ……!」
 息を飲んで満月のように目を丸くするネロの瞳には、自分しか写っていなかった。
 雲が流れていく。月が影に隠れても、ネロの双眸は美しく輝いていた。そうしてまた、雲が風に乗って流れて、ネロの姿が月明かりに照らされていく。
 頬が熱くて、心臓のドキドキが止まなくて、ネロの顔を見つめていると、自分じゃなくなってしまいそうで、ちょっとだけ涙が出そうだった。
 どれくらい、そうしていたのだろう。それは、ネロがピクリと腕を動かしたことで終わりを告げる。短くて長い見つめ合いは、ネロのおかげで幕を閉じる。
「っ! あ、ごっ、ごめんなさい!」
「え?」
「わ、私、変なこと言いましたよね……!? ご迷惑おかけするようなこと言って、ごめんなさい……!」
 名前はネロの袖から手を離してその場で頭を下げる。しかし、早く謝らなければという気持ちは、名前に余計なことまで口走らせてしまう。
「ネロさんが、ネロさんが一番安心できるというか、ほっとするというか……それで、あの、ネロさんでもいいですかなんて……!」
「っ……!」
「っあ、あっ、わ、わたし、また、変なこと言っちゃった……!」
 名前の頭の中は混乱していた。心に残しておくべき言葉と、伝えるべき言葉がごちゃ混ぜになっており、なにを伝えたらいいのか線引きができていない。思ったことをすべて伝えてしまう。すなわち、心の声がダダ漏れ状態だった。
 名前はいたたまれなくなり、毛布を頭から被って縮こまった。
――私、何言っちゃってるの!?
 こんなの、こんなの、告白してるようなものではないか。一番安心できるだなんて、ほっとするだなんて、言われても困るようなこと。言葉を捉え間違えられれば、本当に告白になってしまうようなこと。
 毛布の温かさではない、顔から火が出るような熱さが名前を襲う。何も視界に入れたくなくて、ぎゅっと目を瞑った。
「あっいや、ほら、俺から言い始めたこと出しさ……頭上げてよ」
 ネロの少し焦ったような声が、毛布の向こう側で響く。名前は返事の代わりにブンブンと首を横に振った。こんな真っ赤な顔、見せられない。
「あ、だめ?」
 今度は大きく首を縦に振る。名前の視界は微かに毛布の隙間からネロの腕が見える程度である。
 恥ずかしいことこの上ない。ネロは気にしている様子はあまりないけれど、それがさらに恥ずかしい気持ちを助長させる。年上の余裕なのか、そういった経験の豊富さからくるものなのかはわからないが、ネロの反応が少しだけ救いでもあり切なくもあった。
 ぽすん。頭になにか落ちてくる。名前はその感触をよく知らなかった。驚いて思わず毛布から顔を上げてしまう。すると、ネロが見下ろしてきていた。
「上手くいかないこともあるけどさ……たまにはこうやって、息抜きも悪くないんじゃないか」
「っ、え……」
 頭はぽんぽんと一定のリズムで撫でるように軽く叩かれる。言葉を失っていると、ネロは穏やかに微笑んだ。
「……っわ、わたし」
 どうしてだろう。ネロの言葉を聞いていると、何だってできそうな気持ちになってくる。体調も安定しなくて、寝てる時間の方が多くて、未だに少食で味覚は戻らない。それでも、今よりも一歩踏み出せそうな、ちょっと良いことが起きそうな、特別ななにかを期待してしまいそうになる。
「私……ネロさんのご飯、ちゃんと味わいたいです……!」
「っ!」
「ちゃんと、味わって、ちゃんと、『美味しい』って伝えたい……! 本当は、初めてネロさんのご飯を食べた時から思ってました。『美味しい』って言いたいのに、言えないって。言えるようになれたら良いのにって」
「…………」
 ネロは固まってしまった。瞬きすらしていないのかと心配になるほど、ぴしりと凍るようだった。普段の名前ならば自分の失言を気にするだろうが、言葉が止められなかった。今の名前は、ネロのおかげで何にでもなれるのだ。
「だから……治療、がんばります。早く、ネロさんのご飯の味がわかるように。『美味しい』って、伝えられるように」
 それは治療を進めるための目標でもあった。ネロの食事を本当の意味で味わって食べられるように、名前はこれからフィガロの元で治療を続ける。一進一退なこともある治療だが、できることは毎日取り組んでいく。
「っはは……」
 ネロは名前の頭から手をどけて、小さく笑いを零した。なにか失言があっただろうか。名前はショックを受けないように、否定的なことを言われる準備を脳内で勝手にしてしまう。ネロが否定的なことを伝えるはずがないと理解していたが、名前の脳は防衛的になっていた。
「……元気づけるどころか、元気づけられちまった」
「え?」
 ぼそっと呟かれた言葉はよく聞こえなかった。名前が首を傾げていると、ネロは口元で緩く微笑んだ。
「いや、こっちの話」
 それっきり、しばらくの間、静寂がその場を支配する。星の声すら聞こえてきそうな夜だった。そういえば、精霊という存在が、各国には存在するとルチルが話していた。もしかしたら、精霊の気配も感じられてしまうのかもしれない。そんな大それた予感をしてしまうほど、夜空は幻想的だった。
「……名前はすごいな」
「えっ……? す、ごくないです……」
 突然のネロの言葉に、名前は動揺しながらも否定した。すごいことなんて一つもない。すごくないことを数えたらきりがないのだ。それなのに、ネロは一体なにをすごいと感じたのだろうか。
 名前の疑問は、すぐに答えがやってきた。
「いや、すごいよ……俺が考えまくってもできないことを、名前はすぐにやっちまう」
「…………」
 ネロが考えてもできないこと。それは何なのだろう。名前から見るネロは、とても器用そうで、けれどそれを率先して大々的にやるというよりも、そっと寄り添うように、花が開くように器用な面を覗かせている気がする。年齢も名前より年上だろうし、魔法使いということもあり人生経験だって豊富そうだ。名前よりもすごいだなんて、そんなこと。
「……ネロさんだって、すごいです」
「ん? いや、俺は別にすごくないさ」
「すごいです、本当です。だって私、わたし……」
 名前はそこで言葉を切った。どのような言葉を使えば伝わるのか考えていなかった。勢いで伝えるには、名前に語彙力と反応力が足りなかった。
「……私、こんなに肯定してもらったの、ネロさんが初めてかもしれないから」
「!」
「だから、ネロさんはすごいんです。見ず知らずの、ましてや異世界の人間である私を、ここまで肯定してくれるんですから……感謝しても、し尽くせないです」
 名前は大きく深呼吸をする。身体ごとネロの方に向けて真っ直ぐと見上げた。ネロの見開いた瞳が天使の輪のようにまんまるになっている。
「――ありがとう、ございます」
 風が大きく吹き付けた。草花は舞い上がって、星まで届くほど踊るように散っていく。星の瞬きと、風の音は音楽となって鼓膜を揺らす。月明かりに照らされた噴水は、水の粒がシャボン玉のように色を染めていく。
「……俺の方こそ」 
 ネロの言葉はよく聞こえなかった。口の中で唱えるように何かを言うと、続くように言葉を放つ。
「待ってるよ。味覚が戻るまで」
「っ! はい……!」
――ほら、またネロさんは優しい。
 言ってほしい言葉、待ち遠しい言葉、救われる言葉をたくさん紡いでくれる。
――待っててくれるんだ……。
 ネロが待っていてくれるだけで、安心して治療に集中することができる。すぐに回復しなくても、その言葉がずっと名前を生かし続ける。
 まるで味覚が戻るまで見ていてくれるとでも言ったような発言に、名前は胸が熱くなる。
 名前の頬は自然と笑みを浮かべていた。笑えるだなんて久々かもしれない。それがくすぐったくて、そうなった原因がネロというのも恥ずかしくて、名前は指先をそわそわと動かした。
 ネロとの会話は一旦終了したらしい。しかし、沈黙が痛くはなかった。どこか懐かしくて、すがすがしい感じがあって、身を委ねたいような静けさ。名前は夜空を見上げながら、静寂を全身で感じていた。
 ネロは足を組んで背中を丸め、足に肘をついている。二人してそうやって、しばらくの間、夜のひとときを味わっていた。

   *

 名前を部屋に送り届けたネロは、ぼふんとベッドに寝転がった。片付けは明日でも良いかと、考えつつ、やはりやっておこうと起き上がって、さっと洗い物を済ませ、再び横になる。
『――ネロさんでも、いい、ですか……?』
「むしろ、俺でいいのか……」
 まさか自分を選んでくれるだなんて思いもしなかった。晶や他の魔法使いのように自分は彼女と過ごしていない。関わるのだとしたら食事前後だけである。それでも、選んでくれた。他でもない、自分を。
「……だめだろ」
 名前に選ばれて、それは役目のように甘美で、自分が必要とされている感覚。これはだめだ、そうわかっているのに、心が止まれなくなっている。求められて嬉しいと、そうであってほしかったとすら感じている自分がいる。
「はあ……」
 片腕で両目を覆う。大きくため息をして思考を整理しようとしても、難しかった。
 求めていた、名前を。認めたくなくても、それが事実だった。名前と会話をしなくなってから、なんとなくつまらない日々が続いていた。その原因もすぐに見当がついた。自分の存在を消した方が良いと話す名前に対して、優しいことができるかどうか悩んだこともあった。その結果がこれだ。
「ははっ……結局、優しくされたのは俺だ」
 彼女のために何ができるか。手探りでの言葉に対して、きちんと名前は回答を用意していた。初めて会ったときに目を見張ったような、灯火のような言葉を、名前は今日もネロに届けてくれた。ネロが悩みながら紡いだ言葉を、名前は心を込めて返してくれる。元気づけたかった。けれど、元気づけられたのは自分だった。名前にはきっと、そういった天性の才能があるのだろう。
「難しいな……」
 数百年生きてきても、やはり人付き合いは難しかった。自分に向いていないと感じたことも星の数ほどある。それでも、この魔法舎にいる魔法使いや人間との交流は気に掛けてやりたいことや、自分のできることはやってやりたいことが多かった。同じように、いや、もしかしたらそれ以上に、名前に対してそれを考えている。
「だめだろ……」
 これは駄目だ。非常に駄目だ。脳が警報を鳴らすように、口を動かしている。しかし、止まることができないのは、薄らと察していた。
 魔法使いと、人間だ。辿る道が同じ道などあるはずがない。途中で人間の道は途切れるのだ。境遇も価値観もなにもかもが違うのだ。
――いや、俺はどうなりたいんだ?
 まるで一緒になりたいような考えをしてしまった。自分は名前と一緒になりたいのか。いいや、わからない。それはまだ、そこまで考えられてない。ただ、はやく体調が回復できるように。他の魔法使いたちと仲良く飯が食べられるように。そして、いつか味覚を取り戻せられるように。それだけのはずだった。なのに――。
「――期待しちまってる」
 名前の言葉、表情、振る舞い。それらが自分に向くように。笑顔も泣き顔も、自分に見せてくれたら嬉しいと。そしてそれを受け止められたらいいと。どんどん欲が膨らんでいく。
「こんなはずじゃなかったのにな……」
 最初は関わらないと考えていたのに。名前の立場や境遇を知って、そうできなくなった。むしろできることをしていきたいと考えるようになった。
「……酒、飲み過ぎたかもな」
 このまま考えていると、変なことまで考えてしまいそうだ。ネロは指先を振って室内の灯りを消す。改めてベッドに横になって布団を掛けて、目を瞑る。
『……私、こんなに肯定してもらったの、ネロさんが初めてかもしれないから』
 脳裏に名前の声が響く、そのときの名前の姿も鮮明に思い出せる。
――やっぱり、笑った顔も可愛いな。
 あの時の彼女は、月明かりに照らされて、とても美しかった。
『――ありがとう、ございます』
 久しぶりに、名前のお礼の言葉を受け取った。
 ネロはそれだけで、何者にでもなれそうなほど、勇気が湧いてきたのだ。