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ネロと会話をした夜から一週間が経った。相変わらず名前は急患部屋で過ごしており、食事も一人で摂っていたものの、フィガロが留守の時はネロが食事を持ってきてくれるようになっていた。どうやら魔法使いたちは晶とともに任務に赴く日々を送っており、それは南の国の先生役であるフィガロも例外ではないようだ。
そして、名前の成長が二つ。一つ目は、起きていられる時間が長くなった。時間数にしてみれば数時間ほどだが、少しずつではあるが元の生活に戻る準備が整ってきている。そして二つ目、毎日入浴ができるようになった。これは入浴がきついこともあったり、入浴する気持ちを固めるまでに時間を要することが多かったりもするが、フィガロに魔法で全身綺麗にしてもらうことが無くなった。
少しだけできることが増えただけで、誇らしいような気持ちになってしまう。治療はそこまでシンプルなものではないため、一進一退ではあるのだが、喜ばずにはいられなかった。
『そっか、よかったな。ここんとこ、特に頑張ってるもんな』
それになにより、ネロが自分のことのように言葉をかけてくれた。それが何よりも嬉しくて、名前はネロの言葉を思い出しては喜びをかみ締めてしまう。
「ふふ……うれしいな」
名前は頬を緩ませながら、指先を操作させて紙を折っていく。
名前は起きている時間は、暇つぶしのようにひたすら折り紙を折っていた。何かを作りたいというような目標があるわけでもなく、ただひたすら折り紙を折り続ける。作品も多種多様で、箱や花、動物、ユニット折り紙と呼ばれる同じパーツを数多く組み合わせたものなど。急患部屋の机の上は、折り紙で溢れている。
この世界に折り紙はないらしい。フィガロに話をした時は首を傾げていたが、名前の説明と、おそらく晶から聞いたのか、次にフィガロが部屋を訪れた時は大量の紙を抱えてやってきた。大きさも色も感触もバラバラだったが、名前からしてみたらそれは宝の山である。その日から、名前は時間を持て余しては折り紙を折り続けている。
折り紙を折っていてもう一つ効果的なものがある。それは、自分の体調を推し量ることに有効な手段となっていることだ。調子よく折り進められれば体調も調子よく、指先が進まなければあまり体調はよくない。そういう時は、早めに休んだり、休息を取ったりする。
この病は、回復の兆しがあると、好きなことはできるようになってくる。そうやって好きなことを通して活動を増やしていき、最終的には社会復帰へと進んでいくのだ。
自分の場合、社会復帰とは何を指すのか。名前は指先を止めて考えてみる。職業に就いていたわけでもなければ、社会の枠組みに組み込まれているわけでもない。ただあるのは、媒介という役目だけである。それならば、媒介の役目を果たして、この魔法舎の結界を強化できるようになれば、それが社会復帰なのだろうか。
「道のりは長いな……」
名前自身、魔法に関することはなにもわからず、魔力のようなものも感じることがない。そのため、結界が許可されているかどうかの変化も気づくことができないのだ。結界が強化されたと魔法使いに教えてもらわない限りは、自分の役目が果たせたかどうかも謎である。
しばらくはこうやって、折り紙を折り続ける生活だろうか。そのうち、食事の量も少しずつ多く食べられるようになったりするだろうか。一日の活動量が増えれば、食事量も多くなるのかもしれない。運動量は、外に出て身体を動かさない限りは増えていかないけれど。
「何から手をつけたら良いのかわからないな……」
とりあえずは今の生活スタイルの継続が精神状態や体調の安定に繋がるのであれば、続けるしかない。その後は、フィガロの判断で、少しずつできることを増やしていくのかもしれない。
名前が今後のことを悶々と考えていると、コンコンとノック音が響く。
――誰だろう。
薬の時間は終わっているし、昼食には早すぎる。来訪の予定はないはずだ。
「……はい」
名前は返事をして立ち上がる。扉に近づき、ドアノブを握って捻って引っ張ると、そこに立っていたのはミチルだった。
「こんにちは、名前さん。ちょっとお話したくて……いいですか?」
「はい、大丈夫です。お久しぶりです、ミチルさん」
不安そうなミチルを受け入れ、名前は座っていた椅子に腰を落ち着かせてもらおうと、椅子を動かそうとしていた。
「あ、いえ! 大丈夫です、立ったままで!」
ミチルは大きな声で遮る。驚いて目を丸くすると、慌てたように話を続けた。
「その、名前さんがもし、体調が悪かったりしたら、長居するのは申し訳ないなと思って……なるべく早く済ませられるようにしようとしたんです」
両手を握り目を逸らすミチルに、嘘はないようだった。名前はミチルの優しさに無意識に感じていた緊張が解れていく。
「わかりました。気遣ってくれて、ありがとうございます」
「いえ。……今日は、体調はどうですか?」
恐る恐るといった様子で尋ねてくるミチルに、名前は頬を緩ませた。
「今日はいい方なんです。おかげで起きてられて、暇つぶしばかりしてます。ほら」
名前は机に置いてある折り紙を一つ手に取り、ミチルに見せた。
「うわあ、すごい! これ、お花ですか?」
「はい。桜っていうんですけど、これをあと何個か作ってつなげると、くす玉になるんです」
まだ作れているのは三個程度だったが、全てのパーツが揃えば、組み立てて立体の桜のくす玉が完成する。
「すごい! 平面の紙から、こんなに立体的なものが出来るだなんて!」
ミチルは楽しそうに桜を眺めていた。名前は少しだけ嬉しくなって、他の作品も見せたくなってしまう。しかし、ミチルはなにか用事があって来たようだったから、先にそれを済ませた方がいいのかもしれない。
「そういえば、ミチルさんの用って、何かあったんですか?」
「あっ! そうでした! すみません!」
ミチルは一度大きく深呼吸をして、自分を落ち着かせてから口を開いた。
「その……薬は、どうですか?」
「え? 薬、ですか?」
名前は伝えられた内容が予想外すぎて目を丸くする。なにか特別な用事とか、フィガロに変わって体調を見に来たのかとばかり思っていたが、どちらもハズレのようだった。
「ボク、薬師を目指しているんです」
「くすし?」
「薬を作る人のことです」
「あっ……なるほど」
薬剤師みたいなものかと結論づけたが、正しくは製薬会社のほうが当たっているのだろう。この世界はまだ名前がいた世界のような科学技術はないため、道半ばな医療が提供されている。フィガロは魔法使いだからできることも多いだろうが、人間の医者ならばきっと治療できない病も少なくないはずだ。そのため、薬はおそらく毎回か作り置きして、名前に処方されている。
「それで……その……」
ミチルは指先をソワソワさせたあと、顔を勢いよく上げて言い放った。
「名前さんの薬、ちょっと前からボクが作っているんです! なにか、飲んでて変なところとかはないですか……!?」
「えっ……え!? ミチルさんが、作ってくれてるんですか……!?」
――薬を作れるだなんて、相当勉強しないと難しいのでは……!?
名前が驚きのあまり口をあんぐりさせていると、ミチルは照れつつも口を開いた。
「ボク、フィガロ先生に訊いたんです。ボクが名前さんのために、できることはないですかって。そうしたら、フィガロ先生が『じゃあ薬を作ってみない?』って、提案してくれたんです。本当だったら、名前さんの了承を得てからやるべきだったんですけど、その頃まだ、お部屋で休んでいることの方が多いってフィガロ先生に聞いて……だから、順番が逆になってしまったんですけど、ボクの作った薬を試しもらってから、話をしに行こうって」
「そうだったんですか……」
薬はてっきり、フィガロが用意してくれているのだとばかり考えていた。
――ミチルさんが……。
きっと一日三回の薬を用意するのは手間だろう。ミチルは魔法の勉強も熱心だと聞いていたから、その時間を割いて薬を作ってくれていたことになる。忙しかったはずだ。
「ありがとうございます……私、全然気づかなくて」
「いえ、いいんです! 気づいてたらすごいですし……!」
ミチルは胸の前で両手を振って焦ったように話す。フィガロとミチルの薬の違い、いつから切り替わったのか、全くわからなかった。それほど、ミチルの薬を作る腕は高いということになる。
「それで……その、どこか、体調に変わったところとかないですか……?」
ミチルは恐る恐る訊いてくる。薬の効果がきちんと出ているのか聞きたいのだろう。名前は頬を緩めて口を開いた。
「最近、調子が良くなってきた気がするんです。起きている時間が長くなったり、こうして折り紙を折ることが出来たり。少しずつ、以前の生活に近づけているような気がして」
「! 本当ですか……!? よかった……!」
ミチルの嬉しそうな様子に、名前はさらに頬を綻ばせる。自分の体調の調子で、喜んでくれる人がいる。嬉しそうにしてくれる人がいる。それは、なんて幸せなことなんだろう。一人でこの部屋で過ごしているはずなのに、『ひとり』ではないと信じることが出来る。
「あっ……」
「はい?」
「ボク、名前さんに謝らないといけないことがあって……」
「え?」
ミチルはそわそわして視線を床に落とす。名前は検討がつかなくて首を傾げていると、ミチルはおずおずと話し始めた。
「ボク、薬を作るにあたって……名前さんの体調について、フィガロ先生から聞いちゃいました。……勝手に。ごめんなさい!」
「……ああ! なるほど!」
「なっ、なるほどって……!」
ミチルが語ったことは、名前が思っていたよりも軽いものだった。もっと重くて重大なことだと予想していたが、どうやら違ったらしい。名前はそんなことかと言った様子で相槌を打つと、ミチルからは真面目なツッコミが返ってくる。
「気にしてないですよ」
「え?」
「だって、薬を作るためには、必要な知識じゃないですか。私は自分の体調について、他の人達に話すかどうかはフィガロさんに一任しているんです。だから、ミチルさんが知っていても、なにも思いませんよ」
「えっ……でも、知られたくないこととか……」
「もちろん、病気になって、病気が原因でいい事があったことの方が少ないので、知られたくない気持ちは少なからずありますけど……」
名前はこれまでを思い出す。元の世界で発症した時のこと。初めての精神科と薬。思い通りにいかない生活と、コントロールできない気分。なにもかもできなくなってしまったかのように感じて、自分自身を価値のないように考えてしまうこと。そして、この世界にやってきて、手を差し伸べてくれた人々のこと。名前が彷徨っていたときに掬い上げてくれた人々のこと。
「病気であっても、私は私なので。なにも心配いらないです」
「……!」
ミチルは大きく瞳を見開いた。ミチルの瞳は若草のような、これから大きく伸びていく草花のような色をしている。木漏れ日の光に当たってキラキラと輝いているような、草原でゆらゆらと揺れているような双眸は、将来の希望を抱えているように見えた。
「ぼ、ボク、もっといい薬が作れるよう、頑張ります!」
「!」
「中庭に、薬草を植える花壇をつくるんです! そこに名前さんの薬に必要な薬草を植えて、南の国に取りに行かなくてもいいようにしようって、ボクが提案しました!」
「すごい……そんなことまで……?」
「早く、名前さんが元気になるように。ボク、頑張りますね!」
ミチルは片手をぎゅっと胸の前で握り、顔を上げる。ミチルに見つめられていると、なぜだか不思議な気持ちが湧いてくる。ミチルの努力に自分も応えたいような、ミチルのように自分も躍進できるようになりたいような、前に進んでいきたい気持ち。
「ありがとうございます、ミチルさん。すごく、嬉しかったです……!」
名前は胸の前で両手を組んで伝えた。少しでも多く、この気持ちが伝わってほしい。そして、いつか体調が回復したら、恩返しをさせてほしい。感謝を返せるようになりたい。
「ミチルさんとリケさんがくださった花束、まだ少し咲いているんです。枯れてしまったのは、ドライフラワーにしようと思っているんですよ」
「本当だ! 部屋に入ったとき、ボクすぐに発見して、まだ飾ってくれているの嬉しかったんです!」
ミチルは嬉しそうにはにかんだ。二人が渡してくれた花束の中出、唯一黄色い花は未だに咲き誇っている。
「ボク、その『折り紙』っていうのも気になってて……見ても良いですか?」
「もちろんです……! どうぞ」
ミチルはその後しばらく、名前の部屋に留まって一緒に過ごした。折り紙の話、いま魔法舎の中でどんなことが起きているのか。各国に行った任務や、地域の話。ネロが作ったおやつの話など。
昼食を運んでくれるネロが部屋を訪れるまで、二人は時間を忘れて話をしていた。
夕暮れ時、名前は椅子に座って今日の出来事を振り返っていた。ミチルの来訪と薬の処方について。そして、二人で談笑したこと。
「まさか、ミチルさんが手伝ってくれるだなんて……」
ミチルは名前がこの世界にやって来たときに不安で警戒していた人である。それが今となっては、自分から名前のためにできることはないかと、フィガロに掛け合ってくれるようになるなんて。
「私、なにもしてないんだけどな……」
ミチルになにか特別なことをした記憶はなかった。この世界に来て二日目の夕食をきっかけに話すようにはなったが、体調が悪化するまでの間、二人で話すことはなかったように思う。
「どうしてだろう……」
そういえば、リケとミチルが花束をくれたことも疑問に思っていた。二人とはずっと一緒にいるほど生活を共にしていたことはなかったのに。それでも想いを形に、言葉にしてくれた二人は、少なからず名前に対して好意的であるということなのだろうが、名前にはその理由が未だに探せなかった。
それでも、ネロはそれを見つけるのが器用で上手かった。
『なんだ。ミチルもここにいたのか』
名前の昼食を持ってきたネロは、ミチルには食堂に用意してあることを伝えて退室させた後、内緒話をするように、名前にこっそりと話を聞かせた。
『ミチル、名前のことずっと心配してたからな』
名前はドキリと胸が高鳴った。ネロが教えてくれたことと、ミチルの行動が全て結びついて、一本の線となったからだ。そしてネロは、そんなミチルの日々の様子に気づいていたということ。ネロの視野の広さを思い知り、名前は胸が熱くなる。
――心配、してくれたんだ。
言葉にされないと、伝わらない想い。言葉じゃなくても、行動や振る舞いで察することができる想い。自分は今、どれほどそれを察することができて、受け取れているのだろうか。
名前はネロから食事を受け取り、口にしてから、ずっとそのことについて思いを巡らせている。この世界に来たばかりの頃、小さな優しさも見逃さないようになりたいと考えていた。それが、今ではどうだろう。できているのだろうか。優しさに気づけているのだろうか。伝えられないと理解できないようには、なっていないだろうか。
「難しい……」
名前は折り紙をしていた手を止めて、椅子にだらりと背中を預けた。そもその現状として名前はこの部屋から出ることはほとんどない。そのため、他者と接することも少ない。それでも来室するネロやフィガロなどの優しさには気づけるよう努力はしている。けれど――。
――それだけで、いいんだろうか。
もしかしたらミチルのように、この部屋に来なくても何かしらの想いを馳せてくれている人がいるかもしれない。その人に対して、自分は何ができるのだろう。
コンコンと扉が鳴らされる。窓の外を見るとすでに日は暮れて〈大いなる厄災〉が色濃く浮かんでいる。
「はい」
夕食を届けに来てくれたのだろうか。名前は立ち上がって扉を開けに行く。ネロだろうか。そう思って扉を開けると、そこには久々に会う人がいた。
「! 晶さん……」
「お久しぶりです……名前さん」
晶は少しだけ居心地が悪そうにしている。いや、それを取り繕うようにゆったりと話していた。晶の両手には、料理の乗ったトレーが置かれていた。
「ネロにお願いして、ご飯を届けるのを代わってもらったんです」
「あ……そうだったんですね。ありがとうございます、わざわざ」
名前はトレーを受け取り、椅子の上に置いた。机の上は折り紙だらけで、置く場所がなかったのだ。
晶は室内を見渡して目を丸くしていた。簡素で清潔な部屋に、不釣合いなほど大量の折り紙の作品。名前がどうやってこれまでの間過ごしていたのかは、一目瞭然だった。
「ご飯が冷めないうちに、名前さんにお話したいことがあって……いいですか?」
「……? はい」
今日は話したいことがある人が多く来訪する。と言っても、まだ二人だけだけれど。
名前は立ち話はなんだとベッドに腰掛けるよう促した。病人のベッドなど座りたくなかったかもしれないが、生憎椅子は既に食事が鎮座している。晶は名前に続いてベッドに腰かける。
――そういえば、前にもこんなことがあったっけ。
あれは、この世界に来てまだ二日目のこと。晶がフィガロから名前の病について聞いた後の話だった。晶は聞いてしまったことや、自分が気づけなかったこと、配慮ができなかったことについて謝りに来たのだ。
――もしかして、また同じようなことかな。
名前はこれから晶がする話を想像してみても、まったく見当がつかなかった。晶は深く息を吸うと、身体を名前に向けて頭を勢いよく下げた。
「――名前さん、私……ごめんなさい!」
「えっ……?」
「私、名前さんが具合の悪い時、何も力になれなかったです……!」
「えっ、晶さん、待って……」
「フィガロに言われたんです。名前さんの体調について教わった時に。名前さんを『ひとり』にさせないためには、私が傍にいることが一番だって。それなのに、それなのに……」
そんな話をしていたのか。全く知らなかった。名前はただただ目を丸くした。
「私、いざ名前さんが具合が悪くなっていくのを目の当たりにしたら、どう関わったらいいか、わからなくなってしまって。関わりすぎて、名前さんの負担にもなりたくなかったですし……かと言って、見守りを決め込むことも出来なくて……」
名前は相槌を打たずに、じっくり話を聞き入れていた。
「名前さんが、部屋から出られなくなって、ご飯も食べられなくなっていくのを見て、つらくて……でも一番つらいのは名前さんだから、こんなこと思っちゃいけないとも考えて。でも医療の知識がない私には、できることすらなくて……」
晶は次第に俯いていく。膝の上で両拳を握り、まるで懺悔するかのようだった。声は徐々にしぼんでいき、名前と仲睦まじく食事をしていた晶とは別人だと勘違いしてしまうほど、弱々しい姿だった。
「……結果、名前さんを、ひとりにしてしまいました」
「……!」
「だから、ごめんなさい……」
「…………」
謝ることではないと、すぐに返事をしたかった。しかし、そうしてしまったら、晶の気持ちを無下にしてしまうのではないかという予感が頭によぎる。
晶の気持ちを大切にしたい。けれど、思い詰めるまで気にしてほしくない。しかし否定する言い方をすれば、違った形でもまた名前は晶を苦しめることとなるのではないだろうか。
名前はあまり働かない脳をフル回転させて考える。なにか、晶にかける言葉はないだろうか。晶の気持ちをぞんざいに扱わずにできる返事はないだろうか。
晶は居心地の悪そうに視線を落としている。名前が怒っていると勘違いしているのだろうか。
――怒ってなんかない。むしろ……。
「……ありがとうございます。私のこと、気にかけてくださって」
「……!」
晶が弾かれたように、けれどゆったりと顔を上げる。名前は考え抜いた挙句、答えはすぐに出てきていた。
「晶さんが、私のことを心配してくれたの、すごく嬉しいです。私、体調が悪くなると自分のことしか考えられなくなるので、その間も晶さんが私のことを気にかけてくれたと知れて、今すごく、嬉しくなりました」
体調が酷い時は、症状のせいで自分を責め続けることしか考えられていなかった。周りのことなど二の次だったのだ。
「正直、体調が酷くて、誰とも過ごせなくて、今考えたら寂しかったんです。だから、こうして晶さんとまた話せるようになって嬉しい。この部屋を訪れてくれて、嬉しいんです」
「名前さん……」
晶は目をつるんと光らせる。綺麗なブラウンの瞳が、お日様に祝福されたように輝いた。それは、名前の知っている晶の姿に近かった。いつもあたたかくて、天使のように心に寄り添ってくれて、楽しい時間を共有したくなるような、そんな晶の姿。それはずっと、ベッドの中で、この急患部屋で夢にも描いていた、いつかまた戻りたい日々の象徴でもある。
「……その、わがまま、なんですけど」
「え?」
「私、最近、ちょっと体調が回復して、起きてられる時間が増えたんです……」
「え……! すごい! おめでとうございます!」
「あ、ありがとうございます……。それでなんですけど……」
名前はドキドキとうるさい心臓を意識しないように息を吸った。
「もし、晶さんのお時間があるとき……任務とか、賢者のお仕事できっとお忙しいと思うんですけど――」
名前は一度言葉を切る。心臓がうるさい。頬が熱くなっていく。今から話すことは恥ずかしいことでもある。それでも――。
――あなたが、『ひとり』にしないと、傍にいることを、考えてくれたから……。
「――私の話し相手……になってもらえませんか……?」
両手を膝の上でぎゅっと握った。もし断られたらどうしよう。今までの名前だったのなら、それを強く感じてしまった。けれど、なぜか今、晶の隣にいるこの時は、そんな心配も気にならなくなっていた。
「もっ……もちろんです!」
「わ……」
晶は勢いよく、名前の握った手の上に手のひらを重ねた。そしてにぎにぎと音が聞こえるくらい握りしめる。
「私も、名前さんと話したいこと、名前さんに聞きたいこと、沢山……沢山! あったんです!」
「ほ、本当ですか?」
「はい!」
晶はにこにことしながら手を握り続ける。名前はほっと息を撫で下ろした。次第に心臓が落ち着いていく。頬はまだ火照っているようだった。
――うれしい。
晶の手のひらの体温が伝わってくる。ほっとするような温かさで、名前の手の平の中は少しだけ汗をかいていた。
――うれしい、とても、すごく、とっても!
名前は身体に羽が生えてきたような軽さを感じて、今にも飛び上がってどこへでも飛んでいけそうなくらい、喜びを噛みしめていた。
晶の気持ち、晶の考えていたこと、それらが一つ一つ言葉となって、伝わってくる。言葉も表情も仕草も、すべてが名前に晶の気持ちを訴えかけてくる。一緒にいられなかった寂しさも、力になれなかった悔しさも、またこうして話すことができている喜びも。名前は全身でそれらを受け止めたくなる。
――もしかして、これが『友達』?
一緒にいるときもいないときも、相手を思いやって、想いを馳せる。自分の力になれることはやりたくなる。相手の気持ちに応えたくなる。そして、相手が嬉しいと自分も嬉しくなる。
名前は正解を導きかけていた。晶との交流を通して、ミチルとのやりとりで疑問に思っていたことが解けかかっていた。
――じゃあ、私とミチルさんは、もう、『友達』?
友達を作った記憶がもうずいぶん前の古い記憶だからわからない。『友達になろう』という言葉がなければ、友達という関係性はスタートしないのかとも考えていた。もしかしたら違うのかもしれない。自然と、少しずつ、互いを知って、交流して、心に寄り添い合って、友達になるのかもしれない。
「だから、またこうして話せるようになって、すごく嬉しいです!」
「……!」
晶の満面の笑みに、名前は涙が込み上げそうになる。けれど、それよりもなによりも、名前は笑みを浮かべたくて仕方がなかった。
「私も、晶さんとお話できて、嬉しい……!」
このとき、名前は晶のことを『友達』だと胸を張って他の人々に紹介したくなった。
名前は久々に、晶と笑顔を交わしたのだった。