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名前が五階の自室移動してしばらくが経過した。移動して一週間ほどは食事を届けてもらっていたが、名前から断って自分の足で食堂に向かうようになる。体調によって食堂に行く時間は定まっていないけれど、それでも出会った人は挨拶をしてくれたり一緒に食事をしたりすることもあった。
自室と食堂、トイレや浴場以外にもなるべく足を運ぼうと、中庭を散歩したり図書室を見て回ることが増えた。体力がないためすぐに疲れてしまい、その場で座って過ごすことの方が多かったが、それでも以前よりもできていることが増えた喜びを噛み締めていた。
座って過ごしているだけなのに、魔法使いの彼らとはよく出会うことがあった。中庭で勉強をしに来たミチルとリケ、ルチルだったり、昼寝をしようとしていたミスラだったり、忙しなく仕事をするカナリア、羊の散歩をするレノックス、優雅にティータイムを楽しむラスティカなど。挨拶で終わる関係ではなくなった彼らとの会話は、どこかくすぐったくも、名前に良い刺激を与えていた。
――あ、今日無理かも。
名前は目を覚ましすぐに身体の倦怠感を自覚する。体調は回復傾向にはあるものの、日々変動が激しく、良い日もあれば悪い日もあるというのが実情だった。どうやら今日は駄目な日らしい。身体の動かしにくさはよく知っているものだった。
「寝てたい……でも薬……」
体調が良くない日は寝ているに限る。しかし、朝は服薬があるため、必然的に食事をして薬を飲む必要があった。薬は数日分ミチルから渡してもらうため、今日飲む分は手元にあるが、肝心の食事を取りに行かなければならない。
――こういうとき、急患部屋だと距離が近くてよかったんだけどな。
頑張れば手に届く範囲に厨房があるのは、心強かった。しかし五階のこの部屋は違う。そびえ立つ階段が名前の行く手を拒んでいる。
――思い切って二度寝しちゃう? いやそれだと薬の時間ずれちゃうもんな……。
「時間かかっても、下に降りるしかないか……」
名前は腹をくくる。まずは起き上がって着替えなければならない。起き上がるために腕に力を入れるが上手くいかず、しばらくその場で蹲って英気を養うことに決めた。
名前が部屋を出られたのは約一時間が経過した頃だった。朝食には少し遅めの時間になってしまったが、決死の覚悟で部屋を抜け出した。階段は踊り場に降り立つたびに少し休憩を取ってから降りていく。登るよりかは幾分かマシであったため、そこまで時間を掛けずに降りられたかもしれない。
名前は厨房を目指した。食堂にいて食事を運んでもらうよりも、自分から厨房に顔を出した方がネロの負担にならないと考えたからだ。
「すみません……おはようございます」
少し恐る恐る覗いた厨房にネロはいなかった。代わりにいたのは――。
「――オーエンさん……?」
「……なに」
白いマントに、白いストライプスーツに、白い帽子。雪の中にいたらきっとすぐには見つけられない人。それが名前によるオーエンの第一印象だった。オーエンは大きなボウルを持って、スプーンでひたすら何かを食べている。
「なんだ、おまえか」
オーエンは興味がなさそうに呟き、スプーンで白いものを掬って頬張っていく。
――生クリーム……?
ボウルの中身はまごうことなき生クリームである。名前は生クリームの味など忘れてしまったが、相当甘いことを想像して手で口を覆いかけた。さすがに失礼だと踏みとどまりやらなかったが、あそこまでの量を食べたらさすがに胃もたれが起きるかもしれない。
「いつまでここにいるんだよ」
邪魔そうな視線を向けてくるオーエンに身を引きそうになるも、名前はぐっと堪えて返事をした。
「ネロさん、見ませんでしたか? 朝食を頂こうかと思って……」
「ああ、朝食食べ損ねたんだ。可哀想、ネロ」
「え?」
間髪入れずに飛んできた返答に、名前はぴたりと固まった。驚いてオーエンを見つめてしまう。視線に気づいたオーエンは、にたりと唇をゆがめた。
「だってそうだろう? 温かい朝食を食べてくれない、朝食の時間になっても来ないやつに、今更用意しなきゃならないだなんて、面倒に決まってる」
「…………」
確かにそうだという気持ちと、この人はどうしてこの話を持ち出したのだろうという疑問が頭に浮かぶ。これは、言われた言葉をすぐに飲み込めない時に生じる現象だと、名前は薄らと自覚していた。
身体は重たく、鬱々しい感じを引きずっているようだったが、意外と脳内はクリアに物事を考えることができた。
「今までだってそうだ。毎食部屋に運ばなきゃならない手間だってあっただろうに。それに加えて、おまえは味がわからないときてる」
「っ! どうして……」
――知ってるの?
衝撃を受けすぎて、言葉が続かなかった。名前が固まっていると、オーエンは楽しそうに話を続ける。
「ここにいるヤツらからチヤホヤされて、勘違いしているんじゃない? おまえはただの媒介で、ここのヤツらもおまえのことは媒介としか思っていないよ。この魔法舎を守る結界に不備があってはならないから、おまえに優しくしてやるだけだ」
「…………」
「役目を果たせずただ居座って優しさを貪るのは気持ちいいだろう? まるで自分を受け止めてもらっているように思うだろうけど、本当にそうなのかな? どこまでいっても、おまえはただの異世界人で、媒介の役目を果たせないのなら役たたずの人間でしょ」
名前はじっと話を聞くことしか出来なかった。オーエンは楽しそうに言葉を続ける。
「悲劇のヒロインにでもなったつもり? 見捨てられそうになったところを助けて貰った時どんな気分だった? 自分に役目を果たす能力がないのに、何の関係もないここの魔法使いのために身を粉にしなきゃならないだなんて、可哀想。みんなの期待を背負って裏切れなくて、それすらも叶えられない自分自身に絶望して。いつしか自分に見合うのは死ぬことだけだって思うしかなくなるんだ」
オーエンはスプーンに沢山盛った生クリームを大きな口で舐めとった。
――確かに。
名前は俯いて考える。オーエンの言葉を頭の中で繰り返す。
――確かに、そうなのかも。
オーエンの言葉は、これまでの名前の葛藤をすべて見てきたようだった。普段一緒に過ごさせてもらっている人々からは、あまり出ないような意見。それは冷静で、中立の立場からではないと見えてこないもの。
――悲劇のヒロイン、か……。
きっと周りからはそう見える。そう見てる人だっている。それは見て見ぬふりをしても空気感でわかってしまうことだった。
それでも、名前と言葉を交わしてくれる人達はあたたかくて、名前を受け入れてくれるから、名前は今日までこうしてこの魔法舎で暮らしていられている。しかしきっと、オーエンの意見の方が透明性はある。
「なに? ショックで言葉も出ない?」
名前はゆっくりと顔を上げる。口の端についた生クリームを舌先で舐め取ったオーエンは、にたにたと笑っていた。
「いえ、その……」
「悲しくて泣きそう?」
「オーエンさんは……よく見ているなと思いまして」
「……は?」
オーエンの笑みが消える。低くて地を這うような声に、名前はびくりと身体が震えそうになった。
「えっと……オーエンさんとはあまりお話したことないはずなのに、色々なことをよく知っていて驚いたと言いますか、言い当てられてドキッとしたと言いますか……」
名前は慌てて返事をする。あまりオーエンの顔を真っ直ぐに見ていられず、視線を惑わせながらだったが、言い終えて最終的に盗み見たオーエンは剣幕顔だった。
「なにそれ」
「あの、えっと……私もずっと、私が媒介だからここの人たちは私に関わってくれているのだと考えたりとか、みんなの優しさに甘えてしまったりだとか、そんな自分が情けなかったり悲劇のヒロインのような思考になってしまったりしていたので……全部当たってて、すごかった、です」
オーエンは生クリームを舐めずにじっと聞いていた。名前は両手の指を腹の前でそわそわさせながら話を続ける。
「私は多分、恵まれているんだと思います。この魔法舎に来なかったら、きっとそれこそ野垂れ死んでいたかもしれないので。だからせめて、体調が回復したら、少しでも皆さんに感謝の気持ちが返せるように、したいなって思ってます……」
「……なんだよそれ」
オーエンは興味を失ったかのように、あさっての方向を向く。呟かれたその言葉は、もう地を這うような声ではなかったが、水滴が一滴こぼれ落ちたような小さなものだった。
「つまんない。もっと楽しませろよ」
「あっ……」
オーエンはボウルを抱えたまま、マントを翻して出入口へと向かっていく。
「随分趣味がいいんじゃない?」
「え?」
オーエンは誰かに話しかけてそのまま居なくなってしまった。名前が首を傾げていると、控えめな靴音が鳴り響く。
「悪ぃ、聞くつもりはなかったんだけど、入るタイミングがなくて」
「あっ……いいえ、大丈夫です」
入ってきたのはネロだった。ネロは申し訳なさそうに首の裏に手を置いて歩み寄ってくる。
「朝飯、これからだろ? 今朝はパンケーキなんだ。今焼くからさ」
「あ、ありがとうございます」
手際よく準備を始めるネロにお礼を伝えると、名前の脳裏にオーエンの言葉が蘇ってくる。
『朝食食べ損ねたんだ。可哀想、ネロ』
「っ……」
オーエンと話している時は緊張もあってか、言葉の重みを感じなかったのに、こうして時間が経つと、なぜかじわじわと恐怖に似たものが名前を襲ってくる。
「すみません、お手間取らせてしまって……」
慌てて名前は謝った。申し訳なく思っているのは事実だったが、それ以上にオーエンの言葉がまるで鬼ごっこの鬼のように名前を追いかけてくるようだった。
「……ここで食ってくか?」
「……!」
ネロはパンケーキを焼きつつ、振り返って名前を見つめてくる。食堂で食べようと考えていたため、思ってもみなかった言葉だったが、今の思考の持ちようで食堂に行った時、誰かと会話しながら食べられる自信はなかった。まるでネロは、名前のそれらを見抜いているようだった。
「……そう、ですね。そうしても、いいですか……?」
「ああ。構わねえよ」
ネロの言葉の裏には優しさが隠れている気がして、名前は胸の内があたたかくなる。
ネロの返事の後、返事の後、二人の間に会話はなかった。しかし、名前にとってはそれがとても心地よかった。次第に自分が落ち着いていくのがわかってきて、追いかけてくるオーエンの言葉と距離が取れているのにも気づくことが出来た。
――まだ起きてちょっとしか経ってないのに、色々あったな……。
体調の変動しかり、オーエンとの出会いしかり。すでに名前は一日過ごした疲労感を抱えていた。その疲労感のほとんどが、オーエンの言葉によることも薄々気づいていた。
――鋭かったな、オーエンさん。
やはりオーエンは、よく人を見ているのだろう。
『みんなの期待を背負って裏切れなくて、それすらも叶えられない自分自身に絶望して。いつしか自分に見合うのは死ぬことだけだって思うしかなくなるんだ』
「っ……」
思い出した瞬間、ぶるりと身体が震えてしまう。オーエンの言葉は紛れもなく事実であり、それはこの厨房で、ネロとブラッドリーの前で取り乱した時のことによく当てはまった。その時は自責の念に支配されていて、それ以外の考え方ができなかった。きっと、そんなことないと誰かに声を掛けられたとしても、考えを曲げられなかっただろう。
オーエンは気づいているのだろうか。名前が病に侵されていることからくる思考の問題を。そこまで考えてみて、名前は軽く頭を振る。
――知ってても知らなくても、どちらでもいい話かも。
スノウとホワイトが、他の北の魔法使いに名前の体調について話している可能性もあるし、聞いていない可能性だってある。しかし、それは大きな問題ではなかった。病気があるにせよないにせよ、人は追い込まれたらきっと同じ道にたどり着く。オーエンの話したことは、最終的に行き着いた先がどこであるかという内容だった。
『……私、なんかっ、死んじゃえば――』
行く着く先は、オーエンの話したことと同じだった。けれど、行き着くまでに病によって思考の舵取りが行われていた。自分の意思でなのか、病気のせいなのかわからない発言は、まるで遭難しそうなほど揺れる船に乗っているようで、不安定さにより一層具合が悪くなりかける。
今冷静に自分の発言を振り返られるということは、その時よりも体調が回復しているということ。喜んでいいはずなのに、なぜか名前の気分は沈んだままだった。
「お待ちどうさん」
「ありがとうございます。……いただきます」
パンケーキは、店で売っているかのように綺麗な円形と焼き色だった。パンケーキの上には生クリームが絞られていて、それに沿うようにフルーツが飾られている。ここにカメラがあるのなら、記念に写真に撮っておきたいほど、完璧なパンケーキだった。
――勿体ないな。
名前はナイフとフォークを使い、パンケーキを一口サイズに切ってから口に運ぶ。この、きっと見た目も味も素晴らしく美味しいはずのパンケーキを、きちんと味わえる人間が食べていない事実は、とてつもなく勿体ないと感じてしまう。自分じゃなければ、『美味しい』とにこにこしながら食べられていたというのに。
名前が生クリームやフルーツと一緒にパンケーキを食べていると、ネロの声が降りかかった。
「オーエンはさ、人を脅かしたり怯えさせたりするのが好きなんだよ」
「え……?」
「だから、名前にだけやってるわけじゃないんだ。まあ、言っていいこととそうじゃないことはあるけど」
「あ、いえ、いいんです。オーエンさんが言ったことは、本当のことだと思うので……」
心から本当のことだと思った。感心すらしてしまって、言葉をなくしたというのが正しかった。名前とオーエンが過ごした日々はとてつもなく浅いけれど、彼は彼なりに、現状を知って予測もして、名前に真実を突きつけたのだ。
名前は静かにナイフとフォークを置いた。
「私はどこか悲劇のヒロインぶっていて、それすらも気づけないまま自分勝手になっていたんです、きっと」
自分本位になっていた。それは紛れもなく事実だった。自分のことしか考えられなくて、周囲を巻き込んだ。フィガロたちだから付き合ってくれていただけで、これが別の人だった場合、もしかしたら甲斐甲斐しく面倒を見てくれなかったかもしれない。
それはきっと、自分が媒介の役目を担っているから。それは否定できない事実だった。
「だから、体調が回復して、折り紙を通してみんなと交流出来たことが嬉しくても、どこかそれを期待していた自分がいるんじゃないかって」
身体が重くなっていくのを感じる。まるで懺悔しているみたいだ。これはきっと、本当だったら、オーエンと話をしている時から感じていたはずのもの。目を背けて気付かないふりを決め込んでいたものが、濁流のように一気に身体の中を駆け巡る。
「……だめですね。オーエンさんの前では気丈に振る舞えていたはずなのに、いなくなった途端にこんな弱気になって」
黒い濁流が流れていく。こういう時いつも、自分の心には穴が空いていて、それらはその穴から流れ出す。自分では止めることも出来なくて、流れていくのを眺めることしか出来ない。
「……いいんじゃねえの?」
「え……」
濁流の流れが、遅くなった気がした。
「ほら、前話したけどさ。あー……『そういう気持ちになったら』って」
「……!」
「ずっと一人でいなくても、たまには誰かに話したい時だってあるだろ。それに……」
濁流が動きを止める。名前を支配していた重さが、少しずつ軽くなっていくのを感じる。
「そうやって話してくれて、良かったよ。……また一人で、名前が悩まずに済んだのが」
「っ……!」
少し恥ずかしそうにネロが続けた言葉に、名前は衝撃のあまり言葉を失った。
――どうして……。
名前はネロの顔から目が離せなかった。ネロの周りの空気がふわりと軽やかになり、淡色に染まっていく。水彩画のように色づいたネロはとても綺麗で、名前はずっとこの景色を目に焼き付けたいとすら考えた。
「あ、えっと……ありがとう、ございます……」
名前は頬が熱くなっていくのを感じながら、ネロから視線を逸らした。一人で悩まなかった。それはつまり、胸の内をネロにさらけ出したということ。無意識のうちに、ネロに寄りかかってしまった。頼りたいと思ってしまった。その事実に名前はドキリと胸が高鳴った。
「……ちょっとだけ、なんだか気分が沈んでしまったのが……なくなった気がします」
名前は小さな声で呟いた。気分が晴れたのは事実。ネロの優しい世界に、また救われた。
名前は膝の上でぎゅっと両手を握る。手の中が熱い。それがじんわりと全身に巡っていくのを感じながら、名前は他にどんな言葉でネロに感謝を伝えられるか考え始める。
――ネロさんに頼れて良かったです? 安心しました? いつも気にかけてくれてありがとうございます?
いいや、なにかちょっと違う。伝えたいけど、恥ずかしくて少し言いにくい。
「えっと、その……」
それでも名前の口は勝手に動いてしまう。続く言葉が見当たらずに言い淀んでしまう。
ネロは動かずにじっと続きに耳を傾けようとしてくれている。ネロを待たせてしまっていることが、さらに名前を焦らせていく。
「あ、あの……えっと……」
手を握ったり力を抜いたりしながら、名前の頭はフル回転していた。改まってネロと話す時、いったい何を話したらいいか。緊張と恥ずかしさでいっぱいいっぱいになってしまう。見ていてとても綺麗な淡い世界が、今となってはとても眩しく感じてしまう。
「ぱっ、パンケーキは! どんな味がしますか!?」
「……ん?」
――言っちゃった……!
ぽかんとするネロに、名前は失敗したと頭を抱えたくなった。しかし、それはネロからしたら失礼にあたるため、名前はぐっと堪えながら必死に続きを考える。
「あの……味が、わからないので……」
「うん? ああ……」
「ね、ネロさんに、教えて、もらおうかと……思って……」
自信がなくてだんだん萎んでいった声は、きっと最後の方はほとんどネロに届いていないかもしれない。名前は真っ直ぐにネロを見つめ返せず、ちらりと上目で確認した。
ネロは腕を組みつつ顎に手を当てていた。腕まくりした腕が逞しい。名前は見てはいけないものを見てしまったような気持ちになって、視線のやりどころに困ってしまった。
「……なるほどな」
「え……?」
「パンケーキは、甘いのが好きなやつも苦手なやつもいるから、生クリームで甘さを調節出来るようにしてあるんだよ。添えたフルーツは、西のルージュベリーって言って、基本的には酸っぱいんだ。形もいいから、見栄えもいいだろ?」
「は、はい」
「そんで、パンケーキはおかわり自由。もちろん、生クリームが大好きなやつもいるから、生クリームもおかわり自由」
ネロは歌を口ずさむように説明していく。それが名前には珍しく目に映るが、きっとネロだって好きなことには饒舌になるのだと、どこか納得した。ネロが好きなものを好きなように語っている姿が、眩しくもずっと見ていたくなり、名前の頬は自然と緩んでいく。
「ありがとうございます……聞けてよかったです。……想像して食べられます」
「!」
名前は言葉を言い切る頃、ネロから視線を外していたため、ネロが目を見開いたことに気づけなかった。
味がわからないで美味しいであろう食事を食べ続けるのは、申し訳なさと苦痛を伴う。それならばせめて、味を想像できればいいのでは無いか。
名前は置いていたナイフとフォークを持ち、一口サイズに切り分けて、生クリームを付けてルージュベリーというフルーツも付けてから口に運ぶ。
生クリームの滑らかさと、パンケーキのふわふわとした食感。酸っぱいというルージュベリー。ここに甘さを感じることが出来たら。
――きっと、美味しいに違いない。
ネロの作る食事なのだ。美味しいに決まっている。名前はしっかりと味わうように咀嚼して飲み込んだ。味は依然としてわからないけれど、味がわかった気がした。
「……私、きっとこのパンケーキ、好きです」
「っ!」
なぜだかわからないけれど、直感でそうだと感じた。きっと自分はこのパンケーキを気に入って、ネロがパンケーキを作るたびに喜んで食べるはずだ。
ネロが時間をかけて作ってくれた。さらには今日、朝食の時間とズレていてもわざわざ作ってくれた。そして味の説明まで丁寧にしてくれた。
手と口を動かしながら、思い描くのはネロの姿だった。不思議だ、目の前に本人がいるのに、今までネロと過ごした日々のことが溢れてくる。
『俺で良ければ、話、聞けるから……』
『まあ、生きてりゃそう思うことくらいあるさ』
『――そういう気持ちになったら、俺のとこに来なよ』
『待ってるよ。味覚が戻るまで』
ネロの眼差しはどこまでもあたたかくて柔らかくて、その光景を思い出しただけで涙が出てしまいそうだった。
ネロの言葉はいつまでも自分の中で生き続けるだろう。宝箱をそっと開くように、大切にとっておきたいと思う。そうしてつらい時、一歩踏み出したい時に宝箱を開いて、アルバムを捲るように思い返したい。
どうしてネロの言葉はこんなに響くのだろう。そこまで考えて、名前はピタりと手を止めた。
――そんなの、決まってる。
理由は明白だった。これ以外の理由なんてなかった。
――ネロさんだからだ。
ネロだから、そうなんだ。ネロじゃなければ、きっとこうはならなかった。
名前はちらりと上目でネロを盗み見た。静かなネロが今何をしているのか気になったからだ。自分の発言で気を悪くしていないかも、確かめたかった。
「え……」
名前は言葉を失ってしまった。ネロは、片手で口元を覆って、顔を背けていたからだ。ネロの白い肌は、ほんのりと赤く染っていた。
「あっ、いや、その、なんだ……!」
ネロと目が合った途端、慌てて誤魔化すように声をあげられる。名前はパチクリと瞬きをして、その様子を眺めることしか出来なかった。
「あー……悪ぃ、ほんと……かっこ悪」
「えっ、あ……!」
ネロはそのままずるずるとその場にしゃがみこんでしまう。名前は慌てて食器を置き、椅子から降りて、ネロの前で同じように膝をついた。
「あの、私、失礼なこと言っちゃってたらすみません……!」
「はあー……」
ネロは両手を合わせて大きくため息をつく。まるで息を整えるようなそれは、ピリピリとした雰囲気の呼吸ではなかった。
「いや、名前のせいとかじゃないよ」
「え、でも……」
明らかに自分の発言の後、ネロは普段と違う行動を取っていた。考えられる中でも一番の原因は自分である。
名前は自分の考えを信じて疑わなかったが、ネロがそう言うのならば、もしかしたら違うのかもしれない。
「いや、なんつーか、その……」
ネロは片手で顔を脱ぐうように動かすと、その場で足を抱えるように膝の上で腕を組んだ。
「名前から好きなものの話が聞けて、思ってた以上に嬉しかったっつーか……」
「えっ……」
ネロの言葉に名前は耳を疑った。
――いま、嬉しいって言った?
しかも、名前がパンケーキを好きだという発言をしたことに対して、である。
「えっ、えっ……!」
今度は名前の頬が熱くなる番だった。自分でもわかるほどに頬が赤くなっている。心臓がドキドキと大きな音で鳴り響く。指先が震えて、声も震え出してしまいそうだった。
「あ、おい! ……大丈夫か?」
名前はへなへなと力が抜けてその場に腰を落としてしまう。ネロの心配そうな声を他所に、わなわなと震える手のひらを眺めて、熱く火照る頬を押さえつけた。
「あ、あの……なんだかすごく……私……」
名前の口は勝手に動いてしまう。ネロの前ではどうしてか、深く考えなくても言葉がどんどん唇に乗っていく。
「すごく……ドキドキしてます……」
「!」
心臓が高鳴っている。耳のすぐそばで聞こえている。言葉がどんどん心から溢れてくる。噴水から湧き出る水のように、コップから溢れる水のように、名前は言葉を紡いだ。
「私……もっと、もっとネロさんの料理で好きなもの、増やしていきたいです……!」
名前の手はするすると頬から落ちて胸の前にたどり着く。縋るように、決意を込めるように、ぎゅっと両手を握った。
「今まで食べたものも好きです。きっと、ネロさんの作るものなら、なんでも好きです。もっとネロさんのごはんを食べて、それこそ味わって食べて、ちゃんと、好きって伝えたいです……!」
名前は今、ネロしか見えていなかった。けれど、ネロの周りの淡い色彩が光の粒となって、自分の周りにも輝いているようだった。目には見えないけど、確かにそこにあるような、優しさの色。ネロの優しさは様々な淡い色でできていて、それらが水彩画のように瑞々しい。
――わたし、今、ネロさんの世界にいる。
その世界が今、手の届く範囲にある。ネロの優しさに、自分は包まれている。自分の話したことを受け取って、嬉しいと返してくれる。たったそれだけのことなのに、名前は胸が張り裂けそうなくらい嬉しかった。今なら魔法が使えなくても、空も飛べてしまいそうなくらいだ。
「……そっか。ありがとうな」
ネロは静かに呟いた。その声は、朝よりも夜が似合うような、月がやわらかく光り輝くようなものだった。
名前が多くを語ったかわりに、ネロは最低限しか語らなかった。しかし、名前はそれでも満足だった。ネロが自分の言葉を受け取ってくれた。返事をしてくれた。その事実だけで、名前は一歩前に進めそうな気がしていた。
ネロのその一言は、今までの言葉と同じくらいかそれ以上に、優しさに包まれていたのだから。