1-3-7
体調が安定傾向にある。それはとても喜ばしいことであり、起きている時に廊下や食堂で晶や魔法使いに出会うと、顔を綻ばせてくれる。仮眠を取ることはあるけれど、三食きちんと食べることを欠かさずにできるし、不安や悲観的に考えてしまうことも、体調が酷い時と比べれば減っていた。しかし、名前にはモヤモヤとしたものが胸に残っている。
「なんだろう……」
名前は手を止めた。折ろうとしていた折り紙には、折り線ひとつない。何を折ろうか考えても思いつかず、考えもまとまらない。
何も手につかない。集中が持続しないのかと問われれば、それとは違う気がする。どちらかと言うと、やることがしっくり来ない。没頭できないような、没入感を感じないような、パズルのピースがはまらない感覚。
「中だるみ?」
言い終えてすぐに、違うと心の中で答えを出す。治療に中だるみも何もあるかと突っ込みを入れる。
なにか別のことに挑戦してみる時期なのだろうか。しかし、安定傾向にある今、新しいことをしてみて、それがストレスにつながり体調をまた崩してしまったら。不調の時は、大きな決断はしない方がいいと言われたことがある。ならば不調ではない時期はいつか。今なのか。いいや、もう少し先なのか。
「うーん……わからない」
名前は腕を組んでしまう。考えても答えは出なかった。何にも手がつかず、没頭できず曖昧で、ただ日々を過ごしているだけになってしまっている。この生活は変えた方がいいのだろう。しかし、どうやって変えるべきなのかがわかりない。
誰かに聞いたら教えてくれるだろうか。なにかヒントになるような、答えに近いようなことを伝えてくれるだろうか。
コンコンコン。名前が悩み続けていると、ノック音が響く。
「はい」
名前は椅子から立ち上がって扉に向かう。来訪者の予想はつかなかった。
扉を開けると、そこにはルチルとクロエ、ヒースクリフが立っていた。
「名前さん、こんにちは」
「こんにちは、ルチルさん。クロエさんとヒースクリフさんも」
「こんにちは、名前!」
「こ、こんにちは……」
三者三様の挨拶が可愛らしい。名前が頬を緩めると、ルチルはにこやかに口を開いた。
「名前さん、今お時間大丈夫ですか?」
「え? はい」
「もしよかったら、俺たち今からお茶会をするんだけど、名前もどうかな?」
「えっ、私がですか?」
突然の誘いに目を丸くしていると、縮こまっているヒースクリフも話しかけてくる。
「……あの、無理にでは無いので、よかったらなんですが……」
気恥ずかし様子のヒースクリフは、少しだけ頬を赤く染めていた。緊張しているのもあるのだろうか。名前はヒースクリフの美しい顔を眺めつつ、この後の予定を考えた。
――……予定、何もなかった。
今日に限らず、今日も特に予定がない。それならば、参加を拒否する理由もない。
「大丈夫です。参加してもいいですか?」
「本当!? やったー!」
「お誘いしてみてよかったね、ヒース」
「えっ!? う、うん……」
自分の返事を嬉しそうに受け取ってくれる三人に、名前は胸があたたかくなってくる。
「さ、行こ!」
「今日は天気がとても良いから、中庭でやろうって決めたんです」
「ね、ネロのおやつも用意してあります」
三人の言葉に、名前は今まで抱えていたモヤモヤが少しだけ無くなった気がした。彼らに続いて踏み出した一歩は、普段よりも足取りが軽く簡単に扉をくぐる。名前は自分が浮き足立っているのを感じていた。
中庭には丸いテーブルと揃いのデザインの椅子が四脚置かれていた。前回名前がルチルから誘われた時は、レジャーシートのような大きな布の上だったが、今回は椅子に座ってお喋りをするようだった。
名前は促された席に腰を下ろし、ネロが焼いてくれたというクッキーに目を通した。クッキーは丸かったり四角かったり、猫の形をしていたりと様々である。
「可愛い……」
「可愛いよね!」
「ネロさん、『名前さんも誘おうと思ってる』って話したら、張り切って作ってくれたんですよ」
「えっ……!?」
「沢山作ってたよね、ネロ。他の魔法使いにも渡すからって言ってたけど」
ネロの名前が出てきた瞬間、名前の脳は覚醒したようにシャキッとしてしまう。ネロの顔を思い出し、ネロが張り切ってクッキーを作ることを想像してしまい、名前は顔が熱くなりかける。
「この猫ちゃんのクッキー、みんなから人気そうだよね」
ルチルが人差し指と親指で摘んだクッキーをかざす。ヒースクリフは大きく頷いた。
「ファウスト先生も喜ぶと思うよ」
「ファウストが猫クッキー見つけたところ、ちょっと見てみたいよね!」
三人がクッキーに釘付けになっている間、名前はひたすら深呼吸を繰り返して、頬の火照りを回避しようとしていた。深呼吸で逃れられるのかはわからないが、ドキッとした気持ちは次第に落ち着いてくる。
「そういえば、名前さんはネロさんと仲が良かったですよね?」
「えっ!?」
ルチルの言葉に名前は声を上げた。クロエとヒースクリフの視線と、ルチルの言葉から逃れようと、名前は必死に言い訳を考える。
「いや、それほどでは……そんなことは……?」
「名前さんが具合の悪い時、ネロさんが食事を運んでくれてましたもんね」
「俺もそれ見た! 何回か『変わろうか?』て聞いたんだけど、『大丈夫』ってやんわり断られたんだよね」
「シノが摘み食いしようとした時、『これは名前のだから』って、ネロ結構怒ってたんですよ」
「えっ、えっ、えっ……!」
名前は仰け反るように背中を背もたれに押し付ける。今聞いた話は本当なのか。誇張して話しているだけなのか。疑いたくなるけれど、この人たちが嘘をつくなんてことはないと直感で信じていた。ならば――。
――本当に?
かあっと首から登りつめるように頬が熱くなっていくのが、自分でも理解できた。
「あら、名前さんお顔が……」
「まっ、あの、見ないでください……!」
ルチルに指摘されて、名前は両手で顔を覆った。
――恥ずかしいっ……!
こんな些細なことで赤くなるだなんて。こんなの、ネロに対して何かしら想っていることがあると丸わかりではないか。
名前は身体を縮こませた。出来れば早くこの話題が変わってくれることを望んでいた。しかし、そんなはずもなく――。
「ねえ! 名前とネロって、どんな関係なの!?」
「ぅ、え……」
「お、俺もちょっと、気になります……」
「えっ……」
「ヒースも!? そうだよね! あのネロがすぐに名前と仲良くなったんだもん!」
「ネロさん、皆のお兄さんって感じですけど、関わるよりも見守ってくれる方がイメージが強いもんね」
クロエとヒース、ルチルがそれぞれの見解を話す中、名前は穴があったら埋まりたい気分だった。クロエの好奇心旺盛な直球の質問に、控えめだけれどクロエと同じように訊いてくるヒースクリフ、二人に応えるように話すルチル。純粋な気持ちが伝わってくるからこそ、名前はさらに追い詰められていく。
「どうなの、名前!?」
クロエの大きな声に、名前は指の隙間からチラリと前を向いた。目の前に座っていたクロエは立ち上がって問い詰めるように名前に顔を近づけていた。美しいアメジストのような瞳とバチりと目が合う。
「えっ、えっと……よく、してもらってます……」
「まぁ!」
「やっぱり……!」
「それで!?」
名前の返事に、ルチルとヒースクリフ、クロエが目を輝かせた。名前は口から悲鳴が飛び出そうになる。両手を顔から頬、そして胸の前に移動させ、ギュッと握った。
「ネロさん、お優しいので……体調のこととか色々、気にかけてくださって……ます」
自分の言葉で伝えると、まるでそれが現実のことであると認めているかのようで、変な違和感が残る。実際事実であるのだけれど、それを享受しているようで恥ずかしさが生まれてくる。
丸まった背中がそのまま固まってしまいそうだった。名前は三人の顔を見ることが出来ず、俯いて握った手を眺める。
「そうだよね、そうだよね!」
「ネロさん、名前さんのこと話す時、すごく優しそうな顔をなさるんです」
「俺もそれ、見たことあるな……! 普段見る顔とはちょっと違った顔なんだよね」
「ひぃ……」
――そんなことはない、はず……!?
否定したいが自分はまだ出会って数ヶ月である。ネロのことを理解するなど本人に失礼だ。それよりも一緒にいる時間が長い三人の意見は、きっと正しいのだろう。けれど、素直にそれを認めていいのか。認めたら自負していることに繋がらないか。気持ちが大きくなってしまわないか。名前は素直に頷くことが出来なかった。
『名前から好きなものの話が聞けて、思ってた以上に嬉しかったっつーか……』
「っ……!」
――なんでこのタイミングで思い出しちゃったの!?
名前は息を呑んだ。数日前の朝食時のことを思い出してしまった。『パンケーキが好きだと思う』と伝えたところ、ネロに『嬉しい』と思って貰えた出来事である。
「あら、どうしました?」
「なになに、ネロと何かあったの?」
「ちょっ、二人とも……! 聞いたら悪いよ……!」
「でも、ヒースも気になってるでしょ?」
「それは……! その……そうだけど……」
――いま絶対思い出しちゃいけなかった……!
名前は目をぎゅっと瞑り、墓穴を掘ったことを後悔する。しかし時間は巻き戻せない、発言も撤回できない。どうやって三人の好奇の目から逃れよう。名前は必死に考えた。
「ねっ、ネロさんって……!」
「うん?」
「あ、えっと……ネロさんって、何が、お好きなんでしょうか……」
「ネロさんが好きなもの、ですか?」
ぱちくりと目を瞬かせる三人に、名前はどっと汗をかきそうになる。多分背中には変な汗が流れている。
――これで話の流れが変わってくれれば……!
名前の願いはただ一つ、それだけだった。
「ネロはやっぱり、料理することが好きですね。料理のことを考えている時間も楽しそうです」
「ご飯ですと、アヒージョが好きみたいです! あと、お酒も好きですね。よく飲んでらっしゃるようですし」
「リケやミチルとか、年下の魔法使いに優しいから、子どもが好きなのかなって思うよ! 俺たちにも優しくしてくれるしね!」
「なるほど……」
名前は三人の話を忘れないよう頭の中のメモに書き込んだ。料理と、アヒージョとお酒、そして年下の魔法使いたち。確かに話を聞いてどれもその場面が思い浮かびやすい。
「名前は、あんまりこういうこと、ネロ本人には聞かないの?」
「えっ!?」
クロエの質問に、名前は声が裏返ってしまう。片手で口元を抑えてもそれは遅く、また変な汗をかいてしまいそうになる。
「いえ、あの、気にかけて、くださるばかりで……私、ネロさんのことあまり知らないな、と思いまして」
実際、ネロが名前と関わってくれる時は、いつも名前が困っている時や、悩んでいる時が多かった。ネロとなにか談笑することはあまりなく、他愛もない話のような内容の会話もあまり出来ていない。
「それじゃあ、これから知っていく楽しみがあるんですね」
「えっ……?」
「相手のことを、一つひとつ知っていくのには時間がかかりますけど……。でもその分、知ることが出来た時の楽しさや嬉しさは、かけがえのないものですよね」
「…………」
ルチルが大切そうに紡ぐ言葉に、名前は何も返すことが出来なかった。こんなに綺麗な言葉を、彼は自分の言葉にして人に伝えることが出来る。そして聞いた人も納得をしてしまう。言葉の力を信じていないとできないことだった。
「俺、人付き合いが苦手なので、最初ネロと上手くやれるのか心配だったこともあったんです。でも、ネロが気にかけてくれたり、料理を通して話してくれたり、助けてくれたりして、ちょっとずつネロを知っていけました。だから……その、名前さんも、きっと少しずつ、ネロのことを知っていけるんじゃないかと思います……」
「ヒースクリフさん……」
「あっ! 俺、差し出がましいこと言いましたよね!? すみません!」
「あ、いえ! そんなことはないです……!」
「そうだよ! ルチルとヒースクリフの言う通り、すぐに相手のことを知るって難しいからさ、少しずつお互いのことを知っていけたらいいんじゃないかな?」
クロエがヒースクリフをフォローしつつ、話をまとめてくれる。名前は胸にあったモヤモヤとしたものが、少しだけ晴れていくのを感じていた。正体の掴めない燻っていた何かは、紐解いていくと小さな出来事一つひとつが複雑に絡み合っていたのかもしれない。それが今、一個解決できそうである。
名前の背中はもう、丸まっていなかった。変な汗はかいていない。いつの間にか、三人の言葉に背中を押されていた。
「ありがとうございます。三人にお話を聞いてもらって、自分が実は悩んでいたのかもって気づけました」
名前は今度こそ三人の顔をきちんと見ることが出来た。名前の言葉を受け取った彼らは嬉しそうに頬を綻ばせる。それが照れくさくて、名前はクッキーに手を伸ばして口に運んだ。
「そうと決まれば、ネロに振り向いてもらわないとね!」
「っ、げほ……!」
クロエの流れ星に似た速さをした言葉に、名前はすかさず口元を抑えた。食べ出していたクッキーを危うく噴き出してしまいそうだった。
「そうですね! こういう時って、何をするのがいいんでしょう?」
「ネロが気に入りそうなこと……ってことだよね?」
ワクワクするルチルと、顎に指を添えて真剣に悩むヒースクリフ。
――待って、そういう問題じゃない。
本人をさて置いて、三人はあれよこれよと案を出し始める。
「ネロの手伝いをしてみるとかどうかな?」
「でも、ネロって手伝いはやんわり断りそうなとこあるよね。最近はみんなの手伝いも受け入れてくれるけど。名前さんはまだ本調子じゃないし、ネロが遠慮しそう」
「なら、お手紙を書いてみるのはどうでしょう!」
「いいね! 手紙なら、普段直接言えないことでも伝えられる!」
「あっ、でも、賢者様と同じ世界から来たのなら、名前さんもこの世界の字は読んだり書けたりしないんじゃないかな……」
「はっ、そうでした! 私ったらうっかり!」
名前の存在は、もはやないものとして扱われ、三人が和気あいあいと話し合いを進めていく。名前は気が遠くなるような思いだった。
――振り向いてもらわないとねって、何!?
振り向いてもらうとは。振り向いてもらう必要性とは。そもそも自分はそういう恋愛的な気持ちをネロに抱いているのだろうか。
――確かに、他の人とは違う特別な気持ちではあるけど。
けれどそれを『恋愛』に分類していいものなのだろうか。恋愛というのはもっとこう、相手を独占したいとか、支配したいとか、性愛的な意味を含めてである。しかし、名前にはネロに対して独占したいとも、支配したいとも、はたまた性愛的な感情も抱いていなかった。
――これは恋ではない、でしょ……?
自信が無い。しかし現時点では恋ではないと言えるはず。現時点と言っている時点で、少し未来に余白と伸びしろが生まれてしまうが、今は考えないことにする。
「あの、別に振り向いてもらわなくても――」
「そうだ! 新しい服を着るっていうのはどうかな!?」
クロエが指をパチンと鳴らして名案だと言わんばかりの自信を見せる。名前は目を瞬かせた。
「新しい……服?」
「うん! 名前、ここに来てからずっとその服着てるでしょ?」
「はい。カナリアさんから支給されて……。給仕の服が余ってたからと」
名前が普段着ているのは、この世界にやってきた時にカナリアから渡された給仕服の、ワイシャツとスラックスだった。男物ということもあり、若干サイズが合っていないが、着れないよりかはずっとマシだと特に気にせず着ていたものだ。具合が悪い時は寝間着のまま過ごすことがあるため、一時期この給仕服は着られない
こともあったが、最近は普段着のように着ている。
「名前さん、いつもそのお洋服ですものね」
「そうだよ! もっと色んな服を着てもいいと思うんだ!」
「確かに、違う服を着ると気持ちが変わることがあるよね。俺もクロエが作った服を着ると、気持ちがシャキッとするというか、前向きになれるよ」
「本当!? ありがとう!」
クロエはヒースクリフの言葉に頬を染めた。クロエが作った服を見たことは無かったが、ヒースクリフがそう言うのならば、クロエは相当裁縫の腕が立つようだ。名前は自分が今着ている服以外のものを着ていたらと想像してみることにする。
――だめだ、元いた場所の服しか思い浮かばない。
そもそもこの世界のファッションはどのようなものが主流なのだろうか。魔法使いや晶の服を見ていると様々で、おそらく出身地によってもデザインが異なっている気がする。貴族のような服、ひらひらとしていて気品のある服、中世ヨーロッパを思い起こさせるような服……。そして女性が着ている服は今のところ晶とカナリアが着ているものしか見たことがない。名前はうまくイメージがつかないでいた。
「でも……私今のところ、お外に出る予定もないですし……」
「あら、そうですか? もしかしたらこれから、お外に出る用事ができるかもしれませんよ?」
「えっ」
「そうですね。もっと名前さんが元気になったら、一緒にお出かけとかもできるかも」
「その時のために、俺、名前に作った服をプレゼントしたいな!」
「えっ……!」
話がトントン拍子に進んでいき、名前は目を丸くしてしまった。
――クロエさんが服を……!?
クロエは裁縫が得意なのだとカナリアに教わっていたものの、まだあまり交流が多くは無い自分のために服を贈るだなんて発想、思い至るとは考えてもいなかった。
むしろ自分が貰ってしまってもいいのか。もっとクロエの服を待ち遠しいと考えている人は他にでもいるのではないか。きっとその人々の方が、クロエと交流経験はあるのではないか。様々な憶測が名前の中で巡っていく。
「でも、あの……お忙しいのでは……?」
クロエは魔法使いの彼らの服も作るという。この魔法舎にいるのは二十一人。晶も入れたら二十二人である。大勢の服を作るのは労力のいることだ。
「任せて! 俺、ずっと名前に俺の作った服を着てほしかったんだ!」
「え……」
「俺ができること、何かなってずっと探してたんだ。俺は医療の知識もないし、料理もネロみたいに上手くないから、何も役に立てないなって。でも、自分の得意なことで、名前を元気づけられたらなって」
クロエは暖かな陽だまりのように言葉を紡ぐ。クロエの思いやりがまるで熱を持って、名前を照らしているようだった。
――そんなの、断れない。
遠慮して、申し訳なくて、断ろうとすら考えていた。しかしクロエの言葉を断るということは、クロエの気持ちも否定してしまうことである。そんなこと、できるはずがない。
「ありがとう、ございます……」
名前はそわそわとした気持ちを抑えきれず、膝の上に置いた指先を動かした。
「あの、本当にお願いしてしまっても、いいんですか……?」
迷惑ではないのか。手間ではないのか。忙しいはずの時間を、ゆったり過ごすのではなく、服作りの時間にさせてしまっても構わないのか。クロエが自分に出来ることを探して提案したことであっても、名前は未だに迷ってしまう。
「もちろんだよ! 名前はどんな服が着たい!? 賢者様みたいな服? それともお姫様? それとも、素敵な魔女みたいな服!?」
クロエは魔法でスケッチブックを取り出すと、早速ペンを走らせて何かを書き込んでいく。クロエの饒舌さに圧倒されていると、ルチルとヒースクリフはくすくすと笑を零しながら、紅茶やクッキーを楽しんでいた。
「えっと、私、この世界のお洋服のこと全然知らなくて……」
「そうですよね、名前さん、まだ魔法舎から出たことなかったですもんね」
「会ったことある女性といえば……賢者様とカナリアさんか」
ルチルとヒースクリフが名前の境遇を想像する。その通りだと名前は頷きつつ、クロエの顔色を伺う。
「そっか、そうだよね……。じゃあ! 名前はどんな服が好き? いつもどんな服を着ていたの?」
「えっ……どんな服、ですか……?」
「そう!」
名前はクロエの質問に思わず腕を組んで考えてしまう。この世界にやってくる前は、体調もあまり良くなくて、オシャレに気を遣うことはほとんどなかった。着られればいいものを着ていたというか、最低限のものを着ていたらそれでいいというか。
――私、どんな服着てたっけ……!?
名前はうんうん唸りながら必死にクローゼットの中を思い出した。よく着ていた服……は仕事に行く時の最低限動きやすい服。出かける時に着ていた服は……コーディネートが必要ないワンピース。
「……ワンピース、着てました。たぶん」
ぽつりと、名前が閃いたように呟く。小さな声を、クロエはすぐさま拾った。
「ワンピース! 可愛いよね! スカート丈はミニ? マキシ丈? それともミディ? ミモレ?」
「えっ、えっ! えっと、長い方……膝が隠れる長さです……?」
「うんうん! 可愛いよね! 上品でキュートさもあってさ! シルエットは!? Aライン? Iライン? どっちも捨て難いよね! 名前は足が長いからどっちも似合いそう!」
「ええと……」
「テントラインとか、エンパイヤとかもあるよ! あっ、ごめん! 難しかった? 裾が広がってるのと、そうじゃないの、どっちが好き?」
「えっと、広がってる方、です……?」
「いいねいいね! 色々思いついてきたよ!」
クロエは手が止まらなかった。ガリガリとスケッチブックに描き起こしては、次のページへと進んでいく。
「俺、アイディアが止まらないや! ちょっと待ってね、名前!」
クロエはそう言ったっきり、スケッチブックと睨めっこを始める。時折小さな声でぶつぶつ独り言を言いながら、ペンを止めず走らせ続けた。
「すごい……」
クロエの熱意に名前はぽつりと感想をこぼす。それを聞いたルチルとヒースクリフは、顔を合わせて笑みを浮かべた。
「クロエ、ずっと悩んでたみたいですよ。名前さんのためにできること、俺にはなにかないかなって」
「え……」
「俺とルチルのところに相談に来たんです。自分は直接名前さんのためにできることはない。それでも、元気づけられることがあればって」
「そんな……」
「だからきっと、クロエは今、すごく楽しいんだと思います」
「そしてきっと、嬉しさもあると思うんです」
ルチルとヒースクリフの言葉が、名前の心に染み渡っていく。
――うれしい。
名前は純粋にそう思った。クロエの気持ちと、そしてそれを伝えてくれるルチルとヒースクリフの気遣い。気持ちを言葉に、想いを伝えることに、三人は躊躇をしなかった。きっと伝えたいと考えて、どのような言葉だったら伝わるのか思案して、唇にそれを乗せた。
――私も、できるかな。
今までできていたかわからない。もしかしたら、出来ていたかもしれないし、出来なかったかもしれない。それでも、これからは出来るようになっていきたい。
この世界の、この魔法舎にいる、優しい彼らに少しでも感謝が伝わるように。クロエのように自分に出来ることを探して、考えて、見つけられるように。ルチルやヒースクリフのように、相手を気遣えるように。
名前が自室で感じていたモヤモヤは、いつの間にかすべて消え失せていた。
「クロエさん」
「――ん? あ、ごめん! 俺、なにか聞きそびれてたかな!?」
クロエが慌てるのを、名前は首を振って否定する。
「ありがとうございます。クロエさんが作る素敵なお洋服、今からとっても楽しみです……!」
「っ……! うん! 楽しみにしてて! 俺、頑張る!」
名前の言葉に、クロエの美しいアメジストの瞳がつるんと光った。これ以上ないほどにこりと笑ったクロエの笑顔が眩しくて、その笑顔が見られたことが嬉しくて、名前はそっと胸を抑える。
――私にも、何か出来ることがあるのかな。
この三人のように。誰かを想って、何かを考えて実行できるだろうか。その答えはまだ何も浮かんでこないけれど、少しずつ見つけていければいいと思った。そして、一人で見つけられない時は、あの人に、彼らに、相談できたらいい。
名前は笑みを浮かべて、クロエたちを見つめ返す。暖かな風が、中庭に吹き付けた。