1-3-8

――私には何ができるんだろう。
 クロエから服を作ってもらえることになった翌日。名前は一日中ぼうっとしていた。理由はただ一つ。自分に出来ることを探していたからだ。
 それが原因となってか、朝食を持ってきたネロ、一緒に食べていた晶やリケ、ミチルに心配される始末。名前は自分の中で正解が出せていないため、多くを語らず『大丈夫』のみ伝えたが、それが逆効果だったのか、『具合が悪いなら休んだ方がいい』と自室に戻されてしまった。
「言葉って難しい……」
 もうちょっと良い言い回しがあったはずなのだ。しかし考え事をしていて、心ここに在らず状態で返事をしてしまった。それはきっと相手にだって失礼だったはずだ。反省しないと。
「それにしても、なにも思い浮かばない……」
 できることってなんだろう。そもそも自分にできることが、この世界で使える技術なのかどうかがわからない。
 名前は頭の中を整理しようと、指を立てながら考え事を進めた。できることと言えば、家事が挙げられる。一人暮らしをしていたため、ある程度の炊事洗濯掃除はできる。ただ、調理に関してはネロがいるし、洗濯と掃除はカナリアが担っている。手伝いという形で協力できればいいが、二人がそれを良しとするかどうか。
「あとはなんだろう……」
 腕を組んで考えてみる。しかし、一向に思いつかない。折り紙はできることよりも、趣味に該当するから、自分にできることとは少し違うだろう。仕事のスキルを活かすといっても、以前いた職場環境とは全く違う環境であるため、そのまま発揮することは難しい。
「待って……私ってできること……ない……!?」
 うんうん唸った挙句、でてきた正解はとんでもなく悲しいものだった。
「嘘でしょ……心折れそう……」
 できることを探したいのに、できることが無い。これは由々しき問題である。できることを探す云々の前に、自己肯定感に関わりそうな問題だ。
「まだ考え始めたばかりなのに……」
 まさに詰みの状態。どうしてこうなってしまったのか。そもそもこの世界のことをまだ知らないから、自分のできることを見つけられないのだろうか。
「そうだとしたら……まずは外に出ないと」
 名前は小さく決心をする。考え事をしている場合などではない。視野が狭くなる前に、思考が狭まる前に、外の空気を吸おう。
 名前は立ち上がって扉に向かった。

 外に出てみたものの、行く宛ては思い浮かばず、名前はふらふらと廊下を突き進んでいた。窓から見える景色は今日も晴れ。名前がこの世界にやってきて、あまり中央の国は雨が降っていないように思う。もしかしたら具合が悪かった時に雨天だったかもしれないが、その時は天候を気にする余地もなかった。
 階段を降り、廊下を進み、うねうねと魔法舎の中を練り歩く。いつの間にか五階から一階へとたどり着いてしまった。
「静かだな……」
 そういえば今朝、晶が北の魔法使いたちと任務に行くのだと話していた。少しだけ人数の減った魔法舎は、普段の喧騒が過ぎ去ったかのよう。
「それにしても……何も思いつかない」
 名前は足を止めた。ちょうど中庭に続く出入口は、足元に穏やかな陽射しが差し込んでくる。暗がりから見える外の世界はとても眩しくて、名前は目を細めた。一歩前に足を踏み出せば、明るい陽の元に出られるというのに、なぜか躊躇してしまう自分がいた。
「おや? そこにいるのは……名前じゃないかい?」
「あ……ラスティカさん……?」
 声のする方に顔を上げる。そこにはラスティカがいた。ラスティカは魔法で出したであろうテーブルに紅茶を置き、優雅に座っていた。
「こんなところで奇遇だね。君もこの穏やかな天気に、外に出たくなった?」
「あ、えっと……考え事をしていたら、ここに」
 名前はラスティカのにこやかな表情に嘘をつくこともできず、本当のことを話してしまう。少しの気まずさが残り、両手を腹の前で組んだ。
「よかったら名前も一緒にどうかな?」
 ラスティカはティーカップを掲げて名前に見せてみせる。
「え? でも……」
 突然の誘いに、名前はすぐに首を縦に振ることができなかった。正直今のモヤモヤした気分で、誰かと茶を共にすることはできないと考えてしまったからだ。
「この美味しい紅茶を、誰かと一緒に味わいたいたくてね」
 しかし、ラスティカは穏やかに言葉を続ける。名前が断らないと信じているのか、それとも本当に一緒にティーブレイクをしたいと考えているのか、名前にはまだラスティカのことがわからなかった。
「……えっと、私で、良ければ」
「もちろん! 君でよかったよ」
 最終的に、名前は負けてしまう。勝負ではないのだから負けるという言葉は当てはまらないだろうが、名前はラスティカの言葉で一歩を踏み出した。明るい陽射しに照らされて、ラスティカはキラキラと輝いて見えた。
 通された席は、紅茶の芳ばしい香りが漂っていた。肩に入っていた力が抜けていくようで、名前は体が緊張していたことをそこで思い知る。
「これは西の国に行った時に見つけた紅茶でね。誰かと一緒に味わえたらと思っていたんだ。名前が訪れてくれてよかったよ」
「……どなたかとお約束してたんではなかったんですか?」
「魔法使いは約束をしないからね。自由気ままに、心のままに行動する。それが西の魔法使いだよ」
 ラスティカは歌を口ずさむように話をした。西の国の魔法使いが自分の欲望のままに行動する、どちらかというとふわふわとした印象なのはルチルから教えてもらったり、実際に西の魔法使いと交流して知っていた。しかし――。
「魔法使いは、約束をしないんですか?」
 聞いたことが無い言葉がラスティカから飛び出していた。魔法使いは約束をしない。初めて聞いた言葉だった。約束をしないとはどういうことなのだろう。
「魔法使いは、約束をしない。約束は自分の心に誓うこと。約束をして、それが守れなかった時、魔力を失ってしまうんだ」
「え……」
 ラスティカのしっとりとした声が、風に乗って舞い上がる。
――魔力を失うって? 魔法使いじゃなくなってしまうってこと?
「だから、魔法使いは約束をしない。だから、約束をしたら絶対に破らないようにするんだ」
 ラスティカは目を伏せてティーカップを口元に運ぶ。その姿が水彩画に描かれたようにぼんやりとしていて、なぜだか名前は昔に見た、印象派の画家の絵画のことを思い出した。
――自分の心に誓う。それが約束……。
 約束というものがこれほど重いものに感じたのは、今日が初めてかもしれない。元いた場所では、約束は日常に溢れていて、叶うものから叶えられないものまで様々だった。それでも日常を明日に繋げるように、約束は存在した。叶うことなどなくても良かった。その瞬間が、約束という形で、そのままの姿で保たれれば、安心感が生まれた。安心を得たくて、まだこの関係性は続くのだと信じたくて、約束を手段にしていた。
――約束は、手段にしちゃいけないんだ。
 名前は頭に血が登った。今までの自分が恥ずかしく思えてきた。言葉や心を大切に扱う魔法使いにとって、約束も同じように大切に、両手で包み込むように扱うものだった。自分はそれを知らなかったとはいえ、これまでぞんざいに扱っていたんだ。
――恥ずかしい。
 自分が失敗した時のような、恥ずかしいことをしでかした時のような羞恥心が、名前を襲う。
「名前がそんな顔をする必要はないよ」
「えっ……」
「僕たちのことを知って、君が心を痛めることは、とても嬉しい。でもそのせいで、自分を傷つけてしまうのは悲しいかな」
「ラスティカさん……」
「それに、何か悩んでいたように見えたよ。これ以上、頭を悩ませれば身体に触る」
「あ……」
 ラスティカは、名前が悩んでいたことにどうやら気づいていたようだった。名前は時が止まったかのように、息をするのを忘れてしまった。
 どうしても、『彼らのように』上手くいかない。だから人間と魔法使いは違うのだろうか。そんな浅はかなことを考えてしまう。言葉一つひとつに心を乗せたいというのに、どうしても自分はまだそれができそうにない。今までできなくても、これからしていきたいと考えていても、いざそうしようとしたときに、上手くいかない。
「……私、そんな顔をしていました?」
「少なくとも、ティータイムに身を委ねるような顔ではなかったね」
「……すみません」
 ラスティカも、きっと他の魔法使いだって、晶だってきっと気づいている。いや、気づいていた。だから気を遣ってくれて今朝は部屋に戻されたし、ラスティカもこうやって話してくれている。自分にできないことが多すぎて、歯がゆくなった。
「私にできることを、探していたんです」
「できること?」
「はい。ここで暮らしている皆さんは、自分のできることを見つけて、それをしている。でも私は、自分にできることがまだわからなくて、わかったとしてもそれはできて当たり前のことで、皆さんの役に立ちたいけれど、それすらも難しくて……」
 話しながら名前の背中は丸まっていく、俯いた視線の先には自分の握った手があった。
――私は、特別に何かをしたいのかな。
 名前は自問自答する。特別な何かを望んでいるのだろうか。特別など、なれるはずがないのに。誰かの特別は、重くて苦しくて、きっと自分には耐えられないというのに。それでも、特別を求めているんだろうか。
「どうして、できることはしたいことと別物なんだい?」
「え?」
「ここにいる彼らは、できることとしたいこと、同じだと思うけどな」
 名前が顔を上げると、ラスティカは優しく微笑んでいた。
「もちろん、目標を持って過ごしている魔法使いも多いけど。皆、悩む前にまずやってみているよ」
「やってみる……」
「やってみて、失敗したのなら、違うやり方で。そうやって試行錯誤しながら、自分のやり方が見つかっていく」
 ラスティカがティーカップを持ち上げる。ふわりと香った香ばしい匂いに、名前はなぜだか鼻の奥がツンとした。
「名前は何がしたい? どんなことをやりたいんだい?」
 ラスティカの紺碧の瞳が、まるで眠れない一夜に見た朝焼けのように美しく、名前は涙がでそうになった。
「私……私は……」
――私がやりたいこと……。
 名前は考える。自分ができることで、したいこと。何がしたいのか。何に挑戦したいのか。悩む前にまずやってみたいこと。
「――私、皆さんに、恩返しがしたいです……!」
 胸の前で組んだ手はそっと握っていた。自分を責めるような握り方を、名前はもうしていなかった。
「具合が悪くなったとき、助けてくれた人がいました。この世界に来たとき、優しくしてくれた人がいました。私と一緒に過ごしてくれる人が、いました」
「うん。そうだね」
「私は、あの人たちに、少しでもそのお返しがしたいです。私にできることは家事しかないけど……それでも、役に立てるのなら、それで、恩返しがしたい……!」
「それが、名前のやりたいことなんだね」
「はい……!」
 ラスティカは頷きながら名前の話を聞いてくれていた。名前は言い切った清々しい気持ちで胸が満たされていく。
「あ、ご、ごめんなさい……! ずっと聞いていただいてて……」
「いいんだよ。君の気持ちが聞けて僕も嬉しいんだ」
「え?」
「君がこの世界にやって来たとき、迷子のような顔をしていたのを覚えている。そこから次第に体調が悪くなって、一時は部屋からも出られなくなった。そのときの彼らの心配ようも、僕は見てきた」
「…………」
「だから、嬉しいんだ。こうしてまた君が、部屋から出られるようになったこと。そして、笑えるようになったこと」
「……!」
 ラスティカは立ち上がると、名前の目の前にやって来て、その場に跪いた。
「えっ、あの……」
「名前。笑って。君の笑顔が大好きな人たちが、この魔法舎には沢山いるよ」
「っ……!」
 ラスティカが魔法でなにもないところから現した花を渡される。それはカスミソウだった。
「花言葉は幸福。小さな蕾のようで、実は沢山の花が開いているこの花が、名前にはぴったりだと思ったんだ」
「あっ、ありがとう、ございます……!」
 名前はカスミソウが波に揺れるように映っていた。涙が零れないよう、必死に耐えながら、下を向かないようにしながら、ラスティカからカスミソウを受け取る。
「私、がんばります……!」
「ふふ、無理はしてはいけないよ。名前は頑張り屋さんのようだからね」
 ラスティカの言葉はどこまでもあたたかく、名前を照らし続けた。

 ラスティカと別れてから、名前の足取りは軽かった。できることでしたいことをすればいい。ラスティカの言葉は、名前に希望を与えてくれていた。
 今まで悩んでいたことがなくなり、まるで晴れ渡る空のようにすっきりとしている。魔法使いだからできることなのだろうか。ふと考えたところで、名前はすぐに首を横に振った。
――違う、ラスティカさんだからだ。
 ラスティカだから、あの言葉をあのような形で紡いで、名前に届けることができた。そこに、魔法使いも人間も関係はなく、あるのはただ一つ、ラスティカだったという事実のみ。
――うれしいな。
 ラスティカの言葉。元気づけてくれたこと。そして、前を向かせてくれたこと。きっとラスティカはこれまでも同じように、沢山の人々に希望をもたらしてきたのだろう。
「クロエさんの師匠はすごいな……」
 カスミソウを眺めながら、名前は思い返す。自分のことをラスティカは救い出してくれたと話していたクロエは、大切な思い出を語るように穏やかな表情だった。きっと二人は素敵な師弟関係なのだろうと、名前は改めて思い知った。
「これ、花瓶に生けなくちゃ……」
 ラスティカから受け取ったカスミソウを生けるちょうど良い大きさの花瓶は、名前の部屋にはなかった。以前リケとミチルが花束を作ってくれたときは、フィガロが花瓶を魔法で出してくれたが、今回も頼むには気が引ける。
「どうしよう、ここって花瓶あるのかな……」
 一番良いのは、ここで働いているカナリアに聞くことだった。しかし、カナリアは忙しなく動いているため、捕まえることが難しい。もしかしたら買い出しに外へ出ている可能性もある。
「探してみる……?」
 悲しいことに、時間は数え切れないほど有り余っている。そして、予定も入っていない。花瓶を探すついでに、魔法舎のどこに何があるのかを再度確認する良い時間になるかもしれない。
「……やってみるか」
 名前は魔法舎を練り歩くことに決めた。花瓶探しの始まりだった。

 花瓶探しの旅は難航している。なぜなら、やはりこういうときに限って、名前は一人も魔法使いと会うことができないからだ。晶と北の魔法使いがいないにせよ、他の魔法使いは魔法舎にいるはずである。それなのに、まるでかくれんぼをしている気分になるかのように、誰とも遭遇しない。
「本当にどうして……?」
 もしかして、魔法使いたちは見えないように隠れて、名前のことを見ているのだろうか。そんな疑問までが名前の頭を支配してくる。頼みの綱でもあるネロがいるはずの厨房も覗いてみたが、タイミングが合わなかったのか彼の姿はなかった。談話室なら数人の魔法使いがいてもおかしくないだろうと行ってみたものの、人っ子一人おらず引き返す始末。
「……運がないのかな」
 ここまでくると不運としか言い様がない。誰かと出会うことができず、花瓶も借りられず、足腰はすでに悲鳴を上げている。足腰ならまだいいが、手にしているカスミソウが枯れてしまうなどのことがあったら、しばらく立ち直れそうになかった。
「手当たり次第探すしか……」
 名前は半ばやけくその気持ちでいた。花瓶があるところならどこへだっていける気がする。今の名前は普段とは考えられないほど強気だった。
「図書室……あるわけないか」
 名前の目の前にそびえ立つ大きな扉は、図書室に続くものだった。本が濡れてしまう可能性のあるものを図書室に置くはずがない。そう分かっていても、小さな可能性にかけたい気持ちが勝ってしまった。
「……行ってみよう」
 ここで見つからなかったら凹むかもしれない。いいや、おそらく凹むに決まっている。それでも名前はドアノブを握り、扉を開けた。
 一度この図書室には来たことがあったが、じっくりと全体を眺めることはなかった。天井まで続く本棚に、二階部分にまで分けられた読書スペース。日本にはない、海外の図書室に匹敵するような造り。
――やっぱりかっこいいな。
 ここにある本が読めたら良いのに。そうしたらこの図書室をもっと楽しむことができるかもしれない。名前は字が読めないことを少しだけ悔いていた。
 本棚を見上げながら練り歩きつつ、花瓶がないか探し続ける。ここになければあとはどこを探そうかと頭の隅で考えながら探していると、視界の端に黒い何かを見つけた。
「あっ」
「……あ」
「ファウスト、さん……」
 そこにいたのは、黒いローブのような服をまとい、帽子を被ってサングラスをしているのは、ファウストだった。ファウストと会ったのは具合が悪くなる前に、一方的に言葉を交わしたのが最初で最後である。食堂で見かけることは数回会ったが、そのときは会話ができていなかった。
――気まずい……。
 何を話したらいいのか。そもそも話すべきなのだろうか。それとも、挨拶するだけで終わりにするべきなのか。ファウストとの距離の取り方がわからず、名前は頭を悩ませる。
 名前は考えた挙句、とりあえず挨拶をすることにする。
「こんにちは」
「……こんにちは」
「……えっと」
「…………」
 挨拶で終わってしまった会話に、若干気まずさを引きずってしまう。他に何かを話すべきだろうか。名前は必死に頭を捻っていた。
――お久しぶりです? 奇遇ですね? 調子はどうですか? ……いいや無理、言えない。
 考えてみた言葉は全て却下。言えるはずがない。挨拶程度の交流しかしたことがないのだから。
「えっと、失礼しま――」 
「――悪かった」
「え……?」
 名前は目を丸くする。おいとましようと決心して出した言葉は、ファウストの謝罪に遮られた。謝罪をされる理由が思い当たらず、名前は声を漏らす。
 ファウストは帽子のつばを下げて俯いた。
「君の言う通り、君が一人で対処するのを優先した。しかし、君はどんどん具合が悪くなって……取り返しのつかないことになってしまった」
「あ……」
 ファウストが語ったのは、名前が一人で何とかするから大丈夫と話した時のことだった。
「……僕がいながら、君を苦しめた」
「あ、いえ、そんな……私が言ったことですし、ファウストさんはそれを聞いてくださっただけで……」
 ファウストが罪悪感を抱える理由などなかった。あの時のことは、名前からお願いしたことなのだ。調子が悪くなる程度は想像できなかったものの、調子が悪くなった時に持ちこたえようとしたのは事実。他者にそれを助けてもらわず、自分でなんとかしようとしたのも事実。ファウストの責任ではない。
「いいや、僕の過ちだ。僕が選択を間違えた。君の提案を鵜呑みにせず、君の様子を確認しに行ったり、できる処置はすればよかった」
 しかし、名前がそう考える一方で、ファウストも深くまで考えて後悔しているようだった。
――もしかして、責任感のある人なのかな……。
 話を聞いていると、ファウストは名前を救う術があったのにも関わらず、それを行使しなかったとも聞こえる。しかし、どれだけ後悔しようと、過ぎてしまったことはもう二度と元に戻れないのだ。後悔を背負いつつ、前を向くしかない。
 どう言葉にしてそれを伝えたら良いのか。名前はカスミソウをぎゅっと抱えて視線を惑わす。言葉が出そうで出てこない、まるで喉に引っかかっているような感覚が、気持ち悪かった。
「あの、私……ちゃんと回復しました……!」
「!」
「あ、いえ、正確にはまだ回復途中なんでしょうけど……ちょっと回復したかどうかの線引きが分からない病気なんですけど……」
 現状は、具合が悪い時にできなかった事ができるようになっている。回復したかどうかの線引きはそれしかないため、比較対象が具合の悪い自分であるがゆえ、判断が難しい。それでも。
「それでも、具合が悪い時よりも、今は部屋から出られていますし、他の人と一緒にご飯を食べたりできています。だから、あの……」
 名前は言い淀んだ。ファウストになんと言葉をかけていいのか一瞬悩んでしまった。
 言っていいのか。まだほとんど一緒に過ごしたことのないこの人に。相手の考え方やものの価値観がわからない状態で自分の考えを伝えるのは、緊張してしまう。もしかしたら受け入れてもらえないかもしれない。同じ方向を向けないかもしれない。それでも、思ったことは伝えるべきなのだと、名前はこの世界に来て学んでいた。
「――あの、ありがとうございます。心配してくださって……嬉しかったです」
「……!」
 名前は真っ直ぐにファウストを見上げた。ズレたサングラスから見える美しい瞳が丸くなっている。しかしすぐに瞳は瞼が閉じたことにより見られなくなってしまう。ファウストは咳払いをして、ズレたサングラスを上げた。
「……そう」
 ファウストは短く返事をすると、踵を返した。もう会話は終わってしまったようだった。
 言うべきことを間違えただろうか。名前は不安に襲われる。もっと別の言葉で伝えた方がよかっただろうか。
「あっ……」
 ファウストが歩き出す。なにか図書室で探す予定だったのではないだろうか。そう聞きたかったが、会話が終わってしまった以上、問いかけることが出来ない。
――でも、でも……。
 名前はカスミソウを抱えている腕にぐっと力を込めた。
「あ、あの!」
「!」
 ファウストは歩みを止める。名前は心臓がドキドキとしているのに気づきながら、大きく息を吸った。
「今度、食堂でお会いできたら、一緒にご飯を食べてくれませんか……!?」
「っ! なに……?」
 ファウストが振り返る。驚いている顔を目の当たりにして、自分が伝えた内容がトンチンカンであることに気づく。しかし、言い出してしまった今、撤回することは不可能だった。
「ファウストさんと、ご飯を食べて……仲良く、なりたいです……!」
「!」
「あ、いえ、無理だったらいいんですけど……」
 名前の声は萎んでいく。最初の勢いはどうしたのかというほど、名前は弱気になっていた。
 ファウストはどちらかと言うと、人付き合いを積極的にしない雰囲気があるし、きっと根は優しく情熱もある人なのだろうけど、人見知りをする猫のように背中の毛を逆立てている印象がある。名前の提案が、ファウストのペースにそぐわないものであるのなら、それは無理をさせている提案になるだろう。
 無理をしてほしいのではない。ただ、ファウストとはあまり関われていないし、ヒースクリフたちがファウストのことを楽しそうに語る姿を見て、もっとファウストを知りたくなった。
「あの、本当に! 無理じゃなければの話なんです……!」
 名前は念を押すように伝えた。両手をファウストに見えるようにかざして降参したように振るくらいには、必死だった。
 ファウストはサングラスに触れたまま固まっていた。その場には静寂が流れていた。ピリピリとしたものではないけれど、これで否定されてしまったら、ちょっと落ち込んでしまうかもしれない。
 ファウストはゆっくりと名前に背中を向けた。名前の心に冷たい風が吹き付けたようだった。
――やっぱりだめだったか……。
 名前が諦めかけたその時、ファウストの服が少しだけ少しだけ擦れるような音がした。
「……食堂で会ったら、な」
「っ! え……」
 名前が声を漏らすと、ファウストは既に歩き出していた。あっという間にいなくなったファウストに、名前は呆然としてしまう。
「いいのかな、本当に……」
 挨拶だけじゃなくて、話しかけてもいいのだろうか。一緒に食事をしてもいいのだろうか。
「いいん、だよね、本当に……」
 ファウストの言葉が名前の中で巡っている。食堂で会ったら。会えたのならそうしてもいいと、そういう意味で間違いないだろうか。
「……! ありがとうございます!」
 名前は自分を抱きしめるようにカスミソウを掻き抱いて、大きな声で礼を伝えた。図書室に反響した名前の声が響いている。ファウスト本人に聞こえているかはわからない。けれど、きっと届いていると名前は信じていた。