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ラスティカに背中を押され、ファウストと会話してから数日。名前は無事、カナリアと出会い花瓶を手に入れることに成功していた。名前の部屋にはカスミソウが可愛らしく咲き誇っている
そして名前は、自分に出来ることでしたいことを探していた。中庭の噴水に腰掛けながら名前は腕を組む。なぜかここで考えれば、答えが出そうな気がしていた。
「やっぱり、家事かな……」
思いつくのは炊事洗濯掃除といった家事。主にそういった役目はネロとカナリアがこの魔法舎では担っている。
「二人の手伝いができるのならいいけど」
直接、ネロとカナリアに家事に関することを質問したことは無かった。ネロは元々料理屋を営んでいたから、沢山の料理を作ることは慣れている。カナリアもグランヴェル城で働いていた経験から、大所帯での仕事は慣れていそうだった。
「私で力になれるのかな……」
少しでも負担が減るのならば、ぜひ手伝わせてほしい気持ちでいる。しかし、慣れていない人間が入って、逆に仕事が増えるようなことになったら申し訳ない。
「そういうの、社会の縮図的な……」
新人社員が入るときはいつも似たようなことが起きる。仕事を覚えてもらうための犠牲ともいえるが、時間を要するのが難点だし、仕事も二倍になるのが当たり前だった。
「その苦労をネロさんとカナリアさんに? 背負わせられる……?」
――いいや、無理かも。
ただでさえ作業量が多そうなのに、新人の相手までさせてしまうのは申し訳ない。それならば、今のうちから二人の仕事を観察するべきだろうか。
「んー……でも二人は勘が鋭そうだし……」
そう、ネロもカナリアも、よく人を見ているのだ。人の感情の機微だとかにも敏感そうである。名前が自分の気持ちを隠しつつ二人を観察することを始めたら、すぐに気づいてしまいそうだ。
「うーん……っ!?」
名前が考え込んでいると、突然、ぼふん! と名前の目の前で爆発が起きる。咄嗟に目を瞑ったが、煙たくなった空気に名前は咳き込みながら片目を開いた。
「けほっ、こほ……何?」
片手を口元に咳をしつつ、もう片手で周囲の煙たい空気を払おうとする。
「よっしゃ! 戻ってこれたな! ラッキーだぜ!」
「え……?」
煙の中から誰かの声が聞こえる。この声は聞いたことがある。そう、最後に聞いたのは、確か厨房――。
「あ? お前、媒介の嬢ちゃんか」
「ブラッドリーさん……!?」
ブラッドリーはなぜか顔中に口紅をつけており、キツイ香水の匂いもした。
「どうしたんですか、その格好……」
「ああ、くしゃみで飛ばされた先が西の国でよ。ったく、西のやつらはマジで西って感じでよぉ」
――マジで西……語呂がいい。
「その場から抜け出すためにくしゃみで飛んだんだが、運良く戻ってこれて良かったぜ」
ブラッドリーは頬についた口紅をゴシゴシ拭いながら誇らしげに笑った。
「……お疲れ様です」
「おう。嬢ちゃんは何してんだ? こんなとこ出歩いてていいのか?」
ブラッドリーはどうやらご機嫌らしい。くしゃみで飛ぶという話は、名前はついていけていなかったが、機嫌を損ねていないのならよかったと胸を撫で下ろした。
「最近は調子がいいです。皆さんのおかげもあって」
支えてくれた人たちの顔を思い浮かべながら、名前は語った。彼らの働きがなければ、今の回復している自分はなかったのだ。
「体調が悪い時は、身体の主導権を病気に奪われた感じがして。なので、体調がいい時はこうやってなるべく外に出るようにしてます」
身体を慣らすために。そして、心も同時に慣らすために。最近はよく外に出れている。それが自分でも少しだけ誇らしかった。
「へえ。良かったじゃねーか」
「はい。身体の主導権を病気から自分に戻すために、外に出たり、なにかに挑戦する練習をしたりしているんです」
次の挑戦は間違いなく、この魔法舎にいる人々の手伝いだった。それが叶うのならば、努力して、体力もつけて臨みたい一心だった。
『クロエ、ずっと悩んでたみたいですよ。名前さんのためにできること、俺にはなにかないかなって』
『俺とルチルのところに相談に来たんです。自分は直接名前さんのためにできることはない。それでも、元気づけられることがあればって』
自分のために、動いてくれた人がいた。悩んで、悩み抜いて、行動に移してくれた。
『名前は何がしたい? どんなことをやりたいんだい?』
『名前。笑って。君の笑顔が大好きな人たちが、この魔法舎には沢山いるよ』
背中を押してくれた人がいた。そのままでいいと、気持ちを大事にしていいんだと言ってくれた。
『そうやって話してくれて、良かったよ。……また一人で、名前が悩まずに済んだのが』
一人で悩まなかったことを、良かったと言ってくれる人がいた。いつも見守ってくれて、時に話を聞いてくれて、寄りかからせてくれた。
「……自分の身体は自分のものだから、たとえ病であってもコントロールされたくない。そのためにできることは、なんだってしたいんです」
名前は握った手のひらを眺めていた。強く握ってしまうには大切すぎて、けれど手を開いていたら取りこぼしてしまいそうな、彼らの優しさ。どうやったら取りこぼさずに、一つひとつ拾い上げていけるのだろうか。
「あっ、すみません、変なこと話しちゃって……!」
名前はブラッドリーがいるのを少し忘れてしまっていた。独り言のような決意を聞かれて恥ずかしい。名前の頬は赤く染まっていく。
「……気に入ったぜ! そうでなくっちゃな!」
「え?」
「おい、行くぞ!」
「え? どこですか?」
「決まってるじゃねーか! 俺の部屋だ!」
「え!? なんでですか!?」
「いい酒があるんだ! 飲むしかねえだろ!」
「わっ、私お酒は飲めないです!」
「あ? なんだお前も賢者と同じで飲めねえのか。つまんねーな。まあいい、行くぞ」
「えっ、えっ!?」
名前はあれよあれよという間に、ブラッドリーに肩を抱かれて連行されてしまう。ブラッドリーの足の長さについていくには、名前は足を動かすのに苦労しなければならなかった。
こうして名前はブラッドリーに連れていかれ、解放されたのは夕食の時間になってからだった。
夕食と入浴を終え、名前は就寝した。しかし、夜中にふと目が覚めてしまう。眠った気になれなかったが、再度眠ることも出来ない。名前はベッドの上で寝返りを打ちながら、ぼうっとしていた。
夕食の後、クロエに呼び出された名前は、彼が作ってくれた洋服たちと対面した。クロエは合計五着の服を作ってくれており、てっきり一着のみだと思い込んでいた名前は驚きを隠せなかった。
『アイディアがまとまらなくて、気づいたら五着になっちゃってたんだ!』
クロエは笑いながら話していたが、服を作るとなってから五着を作れるまでの時間はきっとそう長くなかったはずだ。名前は服を作った経験がないため、ハッキリとしたことはわからないが、集中して取り掛からなければこの短期間で五着も作れるはずがない。
「クロエさん、やっぱりプロなんだな……」
クロエが作ってくれたのは、四着の普段着と、一着の寝間着だった。寝間着は早速今夜から着ることにして、他四着の普段着は明日から着ることに決めていた。普段着はどれもワンピースで、名前が伝えていないはずなのに、どれも名前好みのデザインだった。
壁に掛けられたワンピースを暗がりで眺めて、名前は頬を緩める。
「ふふ……嬉しいな」
新しい服を着ると、前向きな気持ちになれる。ヒースクリフも似たようなことを話していた。きっとクロエの服もそうなのだろう。そして、クロエの作った服に袖を通す度に、クロエが自分のためにと考えて行動してくれたことを思い返すだろう。
「私にできること……」
名前は仰向けになり、片手を天井に伸ばした。今は何も掴めていないこの手に、自分に出来ることを初めて見たら、なにか触れるものがあるのだろうか。
ぎゅっと手を握ってみる。それが、みんなの笑顔だったり、みんなの役に立てることだったらいい。
名前はゆっくりと体を起こす。握った手を緩めて、手のひらを見た。
「やっぱり、最初はネロさんに、恩返しがしたい」
一番名前の心の支えになってくれて、名前に寂しさを教えてくれた人。優しさの淡い世界に触れさせてくれて、包み込んでくれた。ネロがいなければ。そう考えただけで、名前はぶるりと震えてしまう。
「ネロさんの為にできることって、なんだろう」
名前は椅子に掛けていたカーディガンに手を伸ばし、肩に羽織り袖を通す。考え事を始めてしまい、もうしばらくは眠れる自覚はなかった。
「やっぱり、料理のお手伝いかな……。でも食材もきっとこの世界は違うんだろうな」
この世界の食材を名前はまだ見たことがなかった。知っているのはマカロニ菜くらいだ。
「それを調理するんだもんね、しかも二十人以上……すごいなあ」
そして大半は成人男性である。名前とは食べる量が段違いだ。料理人の経験がなければできない仕事である。
「でも、ネロさんと料理できたら、きっと楽しいだろうなあ……」
名前は想像してみる。ネロが調理しているところはまだあまり見たことがないけど、一緒にあのキッチンに並んで、互いにやることを分担しながら一つの料理を作っていく。名前は自分の料理経験がそれに活かされるかはわからなかったが、ネロの指示を聞きながら料理を進めるのは、とても楽しそうだった。
「ふふ、いいな、こういうの……」
同じ作業を、心を寄り添える人と一緒に行えるのは、きっととても楽しい。何気ない日常の一コマの様な作業であるのに、それはかけがえのない思い出へと変わっていく。
「一緒に料理が夢、かな……」
名前は天井を見上げながら考える。こればかりは、ネロの了承がなければ実現しない。キッチンはネロのテリトリーであり、誰だって他者にテリトリーに入られたら意識するだろう。
「料理人と一緒に料理だなんて烏滸がましいかな……でも……」
名前は両手で頬を抑える。ドキドキと高鳴る胸の音が耳の奥でしている。光景を想像しただけでこんなに身体は反応してしまったら、実際にできるようになった時はどうなってしまうのか。
「できたらいいな……一緒に」
ぽつりと呟いた声は、暗い部屋に消えていく。カーテンの隙間から見える〈大いなる厄災〉だけが、名前の言葉を聞いていた。
「……喉、乾いたな」
名前は足をベッドから床に下ろして立ち上がる。カーディガンを身体の前で引き寄せて、靴を履いた。
「この時間なら誰もいないはず」
深夜も深夜。誰もが寝静まっている時間である。厨房へ行っても誰もいないはずだ。
「これでネロさんと会ったら……恥ずかしいかも」
ネロと一緒に料理することを考えてしまった後に、本人に会うのは心臓に悪い。きっと出会うこともないと自分を鼓舞しながら、名前は静かに部屋を飛び出した。
たどり着いたキッチンは、部屋に入るだけで灯りが灯る。これが魔法の力なのかと驚いてしまった名前は、しばらく天井のシャンデリアも見つめていた。
「そうだ、ヤカン……」
冷たい水でも良かったが、今夜は白湯を飲みたかった。お湯を沸かすくらい自分でもできるだろう。そう考えた名前は早速ヤカンを探す。
ヤカンはすぐに見つかった。コンロの上に置いてあった。今になって初めて気づいたが、コンロはIHのようにのっぺりとした造りだった。
名前はヤカンに水を入れる。水道は元いた場所と同じ造りであったため、特に問題なく入れることができた。ヤカンをコンロにかけて、火をつけようとしたところだ。
「あれ……どうやるんだろう」
コンロの火をつける部分、ボタンなりレバーなりが見当たらない。
「えっ? これ使えるの……?」
ここまで準備してできないだなんて。名前は混乱してしまった。ネロはどうやってコンロに火をつけているのだろう。名前はその場に膝をついてコンロを観察した。
「これ……?」
コンロの下に、引き出しのような扉が二つ。名前は恐る恐る開けてみると、そこは薪を入れるような場所になっていた。
「薪……!? ってことは、マッチ!?」
わからない。本当に薪とマッチを使っているのか定かではないが、本当にそうだとしたら、火加減を調節するのはとてつもなく難しいはずだ。
「ネロさん……すごい」
これはもうコンロではなく釜と言えるのではないだろうか。これが釜だとして、コンロの役割を果たしているのだとして、これを自分の指先とセンスで扱えるネロは、相当の料理人だと伺える。
「さて……どうしよう」
これからが問題だった。たった湯を沸かすことさえ自分はできないということだ。
「こんなの……お手伝いするとか夢のまた夢……」
名前は愕然としてしまった。まだ知らないことが多くある。というか、ほとんどのことを名前はまだ知らなかったのだ。
「どうしようかな……白湯は諦めようかな。でも白湯の気持ちで来ちゃったし……」
口の中は既に温かいものを求めてしまっている。今更変更することは難しい。そうなれば、なんとかしてコンロの使い方をマスターし、湯を沸かさなければならない。
「薪なんて近くにある……?」
名前は室内を見渡した。しかし、薪のようなものはどこにも見当たらない。もちろん、マッチも近くに置いてはいなかった。
「じゃあ、薪とマッチは使ってない……?」
室内に置かれていなければ、名前の推理は外れたも同然だった。料理のたびに薪とマッチを使うのならば、すぐ手の届く所に置いておくはずだからだ。
「んん……なんだろう」
コンロの使い方が、名前には思いつかなかった。せめてボタンやレバーであればよかったのに。そう考えても現状は変わらない。
――諦めるか。
もう今日はこのまま寝てしまおう。眠れるか分からないけど。名前は入れた水をシンクに流そうと、ヤカンに手を伸ばした。
「――名前?」
「あっ、ネロさん……?」
厨房の入口に立っていたのは、ネロだった。まさかこの時間に誰か色とは思っていなかったのだろう。星の瞬き色をした瞳が大きく見開かれていた。
「どうした? 眠れないか?」
「えっと、はい」
ネロは近づいてくる。なんだろう。いつもより視線が突き刺さっている気がする。名前はネロを見上げられずに、コンロを見つめながら話を続けた。
「それで、白湯を頂こうかと思ったんですけど、コンロの使い方がわからなくて……」
「ああ、そっか……。俺がやるよ。座ってて」
ネロはそう言って名前の隣にやってくると、いとも簡単にコンロを弄り火をつけてみせた。名前はネロがやった火の付け方を頭の中で復習しながら呟いた。
「そうやってつけるんですね……」
「このコンロ、少し古いからちょっと癖があってさ。……それより、白湯でいいのか? ホットミルクとか用意する?」
「あ、白湯で、大丈夫です。ありがとうございます」
ホットミルクの方が寝られそうだと考えたが、味のあるものを飲んでも味が分からない。それに、もう歯磨きをしてしまったから、ホットミルクを飲んだら再度することになる。名前はやんわりと断った。
ネロは火加減を見つつ、名前に向き合った。
「それ、どうしたんだ?」
「え?」
「似合ってるよ。クロエが作ってくれた?」
名前が着ていたのは、クロエが作ってくれた服のなかの一つだった。
『せっかくだから、寝間着も作ってみたよ!』
笑顔で渡してくれたクロエに、名前は驚きを隠せなかったが、着てみるととても着心地がよかった。初めて着るネグリジェに緊張したものの、なんだか自分ではない自分になれたようで、少しだけ背伸びしたみたいだった。
名前が恥ずかしさから、ネグリジェの上に羽織っているカーディガンの袖を伸ばしていると、ネロの手が伸びてくる。名前は驚いて目をぱちくりさせていると、ネロの手は顔の近くで止まった。指の背で髪に触れられ、弄られる。突然の出来事に、名前は挙動不審になってしまった。
「あっ、えっ、あの、はい……クロエさんが、何着か作ってくださって……」
「へえ。完成したんだな」
「えっ、ご、ご存じだったんですか……!?」
「ああ。クロエが数日前に皆に言いふらしてたから。張り切ってたぜ」
「ひぇ」
ネロの指先は、名前の髪から離れなかった。ネロの太い指先が名前の髪を弄ぶ。さらりと動く髪と、ネロの指先。近くで香るアルコールの匂い。名前は心臓が爆発しそうだった。
「っと。できたな」
ネロは名前から離れる。名前はほっと胸を撫で下ろした。ようやく息ができる。
「ほら。熱いから気をつけな」
「ありがとうございます……いただきます」
ネロは持ち手を名前に向けて差し出してくれる。こういうところが、ネロの優しいところだ。名前は心がじんわりとあたたかくなっていくのを感じた。
名前は火傷しないようマグカップを持ち、白湯に息を吹きかけた。しかし、じっとネロの視線が突き刺さっている。名前は息を吹きかけるのをやめて、ちろりとネロを見上げた。
「あ、あの……」
「ん?」
「私、なにかついてますか……?」
「え?」
「えっと、先ほどから、ずっと見られていたようなので……」
ネロが自分を見ている。そう考えただけで、なぜだか恥ずかしくなってしまう。しかし、名前はどうしてか負けないぞという気持ちを込めて、ネロを見上げた。
「ああ、いや、その寝間着、本当に似合ってるなと思ってさ」
「あ、え、ありがとう、ございます……」
しかし、名前は負けてしまう。ネロから似合っていると言われて、さらに恥ずかしくなってとうとう目を伏せた。そうこうしているうちに、白湯はある程度冷めたようで、名前はゆっくりと口をつける。
――まだ、見られてる……?
ネロは腕を組んでキッチンに腰を預けていた。すこし距離ができたことに安心しつつ、名前はネロと目を合わせないように、白湯を飲み込んでいく。
どれくらいそうしていただろう。名前はゆっくりと最後の一口を飲み込んだ。
「……ふぅ」
「飲み干した?」
「はい。ありがとうございました。身体がぽかぽかです」
白湯の温かさが全身に渡っていき、今ならこのまま眠れてしまいそうだ。名前はマグカップを洗おうとシンクに向かおうとすると、ネロが横からマグカップをかっさらった。
「あ、あの、洗います……!」
「いいよ。温まったのなら、そのまま寝ちまいな」
「で、でも……!」
「充分夜更かししただろ? 身体も温まったし、よく眠れるだろうよ」
「う、あ……」
ネロの手が名前の頭をぽんぽんと軽く撫でる。名前は自分の頬が熱くなったのがわかった。
――なんでこんなことするの……!? 酔ってるから!?
ネロは近くにいるとふんわりとアルコールの匂いを纏っている。酒を飲んでいたのは明らかだった。
――ネロさんって、お酒飲むとこうなるってこと……!?
普段人との距離感を保ち続ける印象があるのに、アルコールが入ると人との距離が近づいてしまうのだろうか。でなければ、名前の髪を弄ったり、頭を撫でたりしないはずだ。
――い、今なら手言えるかな……。
名前がもだもだしているうちに、ネロはマグカップをあっという間に洗ってしまった。
「はい、終了。ほら、早く寝ないと、明日寝坊しちまうぞ?」
ネロの声が掛かったのを、名前はぼんやりと聞いていた。指先をそわそわと胸の前で動かしながら、名前は腹を括ろうとしていた。
――今だから、言うべき? それとも、今じゃなくてもいい?
「あの……」
名前は口火を切った。まだ言葉が纏まっていないため、その後の話が進まない。しかし、ネロはじっと待ってくれていた。
「えっと、私……」
「うん?」
ネロの顔を見ていると、どうしても伝えたくなる想い。きっと伝えなくてもいいはずの言葉。
『名前は何がしたい? どんなことをやりたいんだい?』
ラスティカの言葉を思い出す。名前は突き動かされるように言葉を紡ごうとしていた。
「わ、私、ネロさんのために、何か出来ることないですか……!?」
「は!?」
ネロは声を上げた。びっくりして言葉が続かない様子で、固まってしまう。名前はネロを置き去りにして、話を続けた。
「私、自分の出来ることで、皆さんに恩返ししていきたいって最近ずっと考えてて……」
胸の前でぎゅっと手を握る。名前は大きく息を吸った。
「それで、一番、たくさん、助けてくれたのがネロさんだから……ネロさんに、私ができることだったら、なんでもしたいんです……!」
「え、待って、待て待て……!」
名前の訴えに、ネロは片手で口を抑えて、もう片手を名前に見せながら焦ってる。心做しか、頬が赤かった。
――私にできること、ネロさんがしてほしいこと、まだ分からないけど。
名前はじっとネロを見上げた。
――それでも、ネロさんのために、できることはしたい。
名前がじっと見上げていると、ネロは突然声を上げた。
「あ、あのさ!」
「ひっ、はい……!」
名前の肩に、ネロの両手が伸びてくる。がっと掴まれて、名前は少しだけよろけそうになった。
「それ、あの、そういうこと誰にでも、言わない方が……いいと思います……」
「……?」
ネロの言葉がだんだんと萎んでいった。弱気といえばいいのか、いつもの様子からは想像できないしおらしいネロは初めて見るかもしれない。
――誰にでも……?
「えっ、ネロさんにしか言わないです!」
「ひっ」
ネロは小さく悲鳴をあげた。
――なんで? 悲鳴あげるようなこと言ってないよ……?
一番恩返しをしたいのはネロなのだ。だから、ネロが望むことで自分が出来ることをしたいと思う。これは立派な理由になるはず。他の誰かにも聞くかもしれないが、まずはネロに聞かないと。
「名前」
「え……っ!」
名前は名前を呼ばれると、息を飲んだ。肩に置いてあった手が腰に滑り降りてくる。ぐっと力強く引き寄せられ、もう片方の手によって頬を撫でられた。ネロの香りとアルコールの匂いが混ざって、名前を包み込んだ。
ネロの頬と、撫でられていない自分の頬が擦り寄った。
「あんまり可愛いこと言うと……悪い魔法使いに食われちまうぞ」
「ひゃっ……!」
一気に耳まで赤くなったのが自分でもわかった。
――なに、なに、なに!?
名前はじわりと涙が込み上げてきた。何が起こっているのかわからない。どうして名前の申し出からこんな展開になってしまったのかもわからない。わからない、わからない、わからない! でも……。
――この申し出は絶対に、届いてほしい。
「――かっ……」
「ん?」
名前は負けられない闘いにいた。もしかしたらヤケになっていたのかもしれないし、混乱していたのかもしれない。
「可愛くなかったら、言ってもいいんですか……?」
「っ……!」
名前は涙目でネロを見上げた。ネロの言葉をそのまま受け取るなら、可愛くなければ言ってもいいことになるのだ。名前の質問に、ネロが答えてくれる可能性もあるはずだ。
「あっ! いえ、ごめんなさい! 本当に、失礼しました!」
「あっ!」
しかし、名前はすぐに我に返ったか。こんな調子に乗ったこと、するもんじゃなかった。何をしてしまったんだ自分は。ネロを困らせるようなことをして。困らせたくなかったのに。
名前は飛び上がってネロの腕から抜け出した。
「ああああの、私、変なこと言っちゃって、ごめんなさい……!」
「あ、いや、大丈夫。俺も注意しすぎたといいますか……」
名前は頭を下げた。ここで日本人の癖が出るとは思ってもみなかった。文化の慣れというのは怖い。
「でも、そのっ、ネロさんに恩返ししたい気持ちは、本当なんです」
「っ!」
「なので……えっと、私、頑張ります……! おやすみなさい!」
「あ、おい!」
名前はネロに一礼すると、駆け足で厨房を抜け出した。今ネロの顔を見てしまえば、今度こそドキドキが止まらない気がしたからだ。
『あんまり可愛いこと言うと……悪い魔法使いに食われちまうぞ』
階段で足を止めて手すりにもたれ掛かる。どっと疲れが現れて、名前はしばらくその場から動けそうになかった。
「なに……? 無理……」
どうしてネロはあんな言い方をしたのか。なぜネロはあんなに距離を詰めたのか。どうやったらネロはあのような声を出せるのか。
――わからない、わからない、わからなすぎる!
名前はそろりと踊り場の大きな窓から外を眺める。まだ真っ暗闇に覆われた時間にほっとしつつ、きっともう眠りにつけないと悟る。
「明日どんな顔で会ったらいいんだろう……」
名前の悩みは尽きないのであった。