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 ロビーのような場所から、スノウとホワイトと名乗った双子の少年を筆頭に、長い階段を昇って名前は移動をした。建物の中は、第一印象で抱いた美術館かお城という言葉がぴったりだった。上品なのに固くなりすぎず、どこか親しみのあるような色合いをする館内に、名前は至るところに目をやりながら双子の後に続く。廊下は赤い絨毯が敷かれており、なにも成し遂げていないのにレッドカーペットを歩いている気分になる。
 スノウとホワイトは、スキップをするような軽やかな足取りで大きな扉を開けた。どうやらここが談話室らしい。室内に踏み込むと、大きなシャンデリアに名前は目を奪われた。天井に設置されている頂点から、シャワーのように放射線状に流れるパールに似た丸い粒たち。金の輪の縁に接着した部分で、半円を描くように下へ伸びていき、終着点には大きな宝石が垂れ下がっていた。金の輪の縁には長いロウソクが立っており、炎を揺らしている。
――ロウソク? 電気じゃないの?
 名前は首を傾げる。この時代にロウソクで灯りを灯すだなんて。まるで産業革命以前の時代ではないか。
 壁に設置された巨大な鏡の下には、鏡の幅と同じくらいの暖炉が設置してある。暖炉だなんて、なかなかお目にかかれない。人の身長の何倍もある大きな窓がいくつか設置されており、半分カーテンが掛けられていた。ソファはローテーブルを囲むように設置されており、名前は促されて中央に置かれているそこへ腰を下ろした。座ると弾力のある皮が跳ね返るようだった。さりげなく生地に触れると、肌に馴染むような感触をしている。高そう、という感想が先ず第一にきてしまった。
 名前が室内を静かに見回しているうちに、彼らはどこからか紅茶を取り出して容れ始める。
「えっ……?」
 ティーカップやティーポットが、宙に浮いている。ふわふわと漂いながら、紅茶が勝手に注がれていた。容れられたティーカップは、くるくると回りながら人々の目の前へ移動していく。
 名前は目の前にやってきた紅茶が、零れもせずにテーブルに着地したことに言葉を失った。晶も含め他の人々はそれが当たり前のように、何にも驚くことなく紅茶を口にし始める。名前がお礼を伝えられたのは、その頃だった。
――やっぱり、本当に魔法?
 魔法と捉えてしまえば、すべて説明がついてしまう。彼らは魔法使いで、息をするように魔法を使う。
 名前の脳裏に『信じる心と妖精の粉』というフレーズが呼び覚まされる。幼い頃繰り返し見ていたアニメーション映画の言葉だった。魔法を信じる心と妖精の粉があれば、空が飛べるといったシーン。思い出せば、名前が魔法に触れた一番古い時の記憶である。
「では、ようこそ名前よ」
「よく来てくれたの、名前よ」
 スノウとホワイトの言葉に、名前の身体に緊張が走る。社長が大事な話を始める時のような雰囲気が漂い始めた。
 双子をはじめ、彼らが語り出したのは、この場所の常識というような内容だった。 
 ここは、魔法使いと人間が共存する世界。五つの大陸が存在し、この魔法舎と呼ばれる建物は中央の国にあるということ。この世界では大きな月が空に浮かんでおり、〈大いなる厄災〉と呼ばれ畏怖の対象だということ。〈大いなる厄災〉は毎年強大な力を奮って世界を破滅させようとするため、『賢者の魔法使い』と呼ばれる選ばれし魔法使い、そして異世界からやってきた『賢者』とともに戦っているということ。
 壮大な物語に名前は開いた口が塞がらない。容れてもらった紅茶の湯気は、一切見当たらなくなっていた。
「ここまで、理解出来ました?」
「……なんとか」
 パイプの煙を揺らしながらシャイロックがほくそ笑む。
 理解できる、できないの問題ではなかった。理解しなければならない事態であったことに、きっとこの場にいる全員が気づいている。
 名前はふと窓に顔を向けた。外は日が昇っており、青空が広がっている。そして、薄らと大きな月が浮かんでいた。これが、彼らの言う〈大いなる厄災〉なのだと名前は察した。
――月と闘うってどういうことなんだろう。
 月が攻撃を仕掛けてくるだなんて、想像もつかなかった。唯一イメージできたのは、月から使者が訪れて攻撃してくる様子。しかし、使者なんて言葉は一回も彼らの話に登場しなかったから、きっと本当に月が攻撃してくるのだろう。それが毎年のように行われていて、前回は被害も拡大し窮地に立たされたというでは無いか。
――魔法を使っても苦境に立たされるって、そうとう強いってこと?
 わからない。話だけでは何も。世界を破滅させようとするだなんて、まるで月に意思が宿っているようではないか。
 異世界といい、魔法使いといい、月との闘いといい、物語の中に入り込んでしまったよう。これは電車の中で見ている夢なのではないか。膝の上で重ねた手の甲に爪を立ててみたが、じくじくと痛みが走る。夢の中は痛みがないというから、これは現実ということになってしまう。
 理解しなければならない。この世界のことを。けれどまだ、飲み込むのに時間がかかる。世界事情を知ったとしても、自分の置かれた状況についていまだ謎が残っていた。
――そうだ、媒介とか言っていた。
 晶から伝えられた、媒介という言葉。それはどうやら名前のことを指している。
 媒介とは一体何なのだろう。
「あの……」
「うむ?」
「なんじゃ?」
 名前は恐る恐る質問するために手を上げる。行儀よく指先をピンと立たせることはできず、丸まってしまう。名前の言葉に、双子は首を傾げた。晶やフィガロ、シャイロックやムルの視線が注がれているのを、名前は感じていた。注目されるのは、今はあまり好きではない。
 手を下ろした名前は、手持ち無沙汰から膝の上で指を遊ばせる。左右の指先をくるくると回して数回経った頃、名前は言葉を選びながら口を開いた。
「その、媒介っていうのは……? さっき、最初にいたところで、話してました、よね……?」
 スノウとホワイトは、きょとんとする。しかし、すぐににっこりと顔を見合せて、人差し指を立てた。
「説明しよう! 媒介というのは結界に関することじゃ!」
「そなたは結界の強化のための、媒介として召喚されたのじゃ!」
「……はあ」
 失礼とはわかっていても、名前の口から出た返事は曖昧な声だった。パパっと説明されてしまったが、理解が追いつかない。まるで知らない商品のコマーシャルを見せられたようだった。
――結界? 強化? 召喚?
 話の全貌が見えず、名前は首を傾げるしか無かった。また新しい言葉が出てきた。すべてゲームにでてきそうな言葉である。 
「えっと、結界というのはですね」
 晶がたどたどしくではあったが、詳しく説明を追加してくれた。
 この魔法舎は結界で守られている。だが、それが万全な状況ではなくなった。綻びが見つかった結界を強化するための術として今回用いられたのが、古くに伝えられている媒介を召喚するという方法。魔法使いの力が強ければ強いほど、召喚される媒介は強く、結界も強化されるという。召喚された媒介の生命エネルギーを通して、結界は強くなるらしい。 つまり、媒介がいることによって、結界の強化は実現する。
「……それが、私ってことですか?」
「その通り!」
「その通りじゃ!」
 スノウとホワイトから拍手を送られる。拍手が心臓の音と重なって、身体の内外から叩かれている気分になる。
 媒介は、やはり自分のことだった。つまり自分は、結界を強化するためにこの世界へとやってきたことになる。
 名前は自分の置かれた状況を、ようやく知ることが出来た。
――なんだか疲れた。
 名前はソファに背中を預けた。話を聞き終えるまで背筋を伸ばしていたことを少しだけ後悔する。もっと楽な姿勢でいれば、疲れをあまり感じなかったかもしれない。
――なんで私?
 額に手を当てて、名前は途方に暮れてしまう。
 異世界だなんて存在するわけがない。そんなこと、誰も知らないし、物語の中でしか登場しない世界だ。そうやって、目の前のことをすべてを否定したくなった。しかし、名前は見てしまった。魔法を使うところを。話してしまった。魔法使いの彼らと。それは紛れもない事実であり、真実。さらには、同じように異世界へとやってきた晶という女の子がいる。彼女の存在が、異世界へ来たという事実を濃厚にしていく。
 名前は背中を丸めて脚の上で手を組んだ。考えろ、落ち着いて、整理をするんだ。情報を綺麗に整頓させるのは得意な方だから。
 けれど、心臓はバクバクと脈打っていて、頭の奥はだるさと重さを抱えていて、身体はどっと疲れている。心よりも身体のほうが現状についていけていない。
――ならせめて、心だけでも追いつかないと。
 名前は静かに深呼吸を繰り返す。心拍が落ち着いてから、ようやく紅茶に手を伸ばした。冷めているそれの、匂いも風味も良いものなのだろうが、今の状態では味わうことすら難しい。喉を潤すだけ潤して、カップを置いた。
 現状を受け入れるしかなかった。どれだけ拒絶しても、突きつけられた真実には変わりようがない。
 名前がこの世界に来たことで、魔法舎と呼ばれるこの建物の結界は強化された。
――ん?
 名前は眉間に皺を寄せる。とある疑問が浮かんできたからだ。
――だったらもう、私は必要ないのでは?
 結界を強化させるために呼び出された。その結果、結界は強化された。ならば、もう役目は果たしたのではないだろうか。
――それなら、もう私は帰れるよね?
 名前は希望が湧いてくる。小さな可能性だとしても、それは疲れを一時的に吹き飛ばすには充分だった。
「あの、私はいつ元の場所に帰れるんですか? 結界が強化されたのなら、もう帰れますよね?」
 いてもたってもいられず、肝心なことについに触れる。早口気味になってしまった。
 いつ帰れるのか。今すぐなのか、それとも明日なのか。それが最大の問題である。
 魔法使いたちは皆キョトンとした顔をして、首を傾げる。晶は唯一、困った顔をして首を傾げていた。
「さあ?」
「いつかの?」
「さて、分かりませんねぇ」
「まあ、しばらくはいることになるんじゃない?」
「ずーっとかもしれないけどね!」
 スノウ、ホワイト、シャイロック、フィガロ、そしてムルが歌うように言い放つ。
「え……?」
「実はその、私も未だに帰れるかどうか分からなくて……」
「えっ!?」
 晶の言葉がトドメの一撃だった。名前は雷に打たれたような衝撃を受ける。
――うそ、いつ帰れるのかわからないってこと!?
 いつの間にか乗り出していた体から、へなへなと力が抜けていく。再び背もたれに背中を預けた。
「あははっ! ふにゃふにゃだね!」
 ムルの笑い声に返事をすることも気持ちを動かすことも出来ない。突きつけられた事実は、名前の頭をガツンと殴り飛ばした。
――帰れない。……帰れない? 本当に?
 帰れないとはどういうことだ。家は、あのまま? 仕事は? ずっと無断欠勤になるということ? 音信不通で行方不明? 警察の捜索が入る?
 名前は両手で顔を覆った。世界から自分の存在を遮断したくなった。
「名前さん……大丈夫ですか?」
「大丈夫ではなさそうですねえ」
「突然違う世界に来たら動揺しちゃうよね」
 晶とシャイロック、フィガロの声が、名前の右耳から左耳へ流れて消えていく。
 頭の中では、自分がいなくなったあとのストーリーが展開されていた。
――困る、非常に困る、こんなのめちゃくちゃ困るに決まってる。
 仕事なんて、無断欠勤は厳重注意だし、それがずっと続くのなら、復帰後に自己退職を勧められる。無断欠勤だから給料は振り込まれない。それなのに、各支払いはどんどん引き落とされていく。貯金がなくなっていくに等しいではないか。
 名前の脳内には自宅、職場、通勤風景、行きつけの店の様子が、走馬燈のように流れていく。家にも職場にも、大事なものがある。築き上げてきたものがある。まるでそれらがガラガラと崩れてしまったような絶望感を感じていた。
 見慣れたところから、遥か彼方まで来てしまったということ。自分がしなければならないこと、できること、したいこと。それらが名前のなかでぐるぐると駆け巡り、上手く整理がつかない。
 これからどうすればいいのか。帰れるまでの生活は、衣食住はどうするのか。仕事をどう探していけばいいのか。この世界で自分にできることはあるのか。
 考えたいことがある。考えなきゃいけないこともある。それなのに、帰れないという事実があまりにも衝撃的すぎて、考えに手がつけられない。
 名前は言葉を発せなかった。聞きたいこともあった。自分の媒介としての役目も、聞いておかなければならない。しかし、やはり混乱は収まらなかった。
――このまま、二度と元の場所に戻れない可能性もあるのか。
 頭の奥から一筋の光が降り注ぐように、絶望的な可能性が産まれてくる。唯一すぐに口から出てきそうな言葉がそれだった。しかしそんなこと、怖くて聞けるわけがなかった。

 名前が思い悩んでしまったため、談話室での話し合いはお開きとなった。自分のために集まってくれたのに申し訳なさでいっぱいになったが、魔法使いたちは特に気にせずにこりと笑って退室していく。
「そうだ、ちょっと待っててください!」
 晶はソファから立ち上がると、思い立ったように走っていってしまう。談話室に一人ぽつんと取り残されてしまった名前は、急に静かになった室内を見回した。
 撮影のセットのようで、しかし大事に使い込まれてそうな家具は、見慣れないもの。まるで自分が場違いなのではないかと思えてくる。
 名前は立ち上がってゆっくりと歩き出す。絨毯は柔らかく、外靴で踏むのには勿体ない感覚だった。ソファの縁に触れながら、窓際を目指す。
 自分の背丈の倍以上ある窓は掃除が行き届いていて、曇りひとつなかった。窓から見える景色は外国のような建物ばかりで、遠くの方にはお城も見える。そして見上げると、大きな月が名前を見下ろしていた。
 名前は〈大いなる厄災〉を眺める。月のクレーターなどは、元いた場所でも見上げていた月とそっくりだった。日中に月が見えることも変わらない。大きさだけが異質だった。ここまでの大きさで空に浮かんで見えるということは、かなりこの星に近づいていることになる。まるで隕石が迫ってきている感覚に、名前はぶるりと肩を震わせた。
「名前さん、まだいますか?」
「はい」
 扉がガチャリと重たい音を鳴らす。名前は晶の声に振り返った。晶の後ろから、金髪の女性が現れる。
――他にも女性がいたんだ。
 名前は謎の感動を覚え、その場から動けなかった。
「紹介します。こちら、魔法舎でお手伝いをしてくれているカナリアさんです」
「初めまして、カナリアといいます」
 カナリアはスカートの裾を上げて、片足を後ろに下げてお辞儀をした。パーティーで行うような挨拶の仕方に、初めて見たと声を出しそうになってしまう。
 名前は早足で窓際から扉の前に移動する。家具にぶつからないよう気をつけながら、待たせてはいけないと気を引きしめて足を動かした。
「はじめまして、苗字名前といいます」
 カナリアの前に着くと、名前はお辞儀をして自己紹介した。カナリアのスカートがひらりと動く。
 顔を見上げると、カナリアからにこりと微笑みかけられて、名前はドキリとしてしまった。そばかすがチャームポイントで、ハツラツとした印象は声からも伺える。メイド服のような格好をじっと見つめていると、答えはすぐ晶から伝えられた。
 カナリアはこの魔法舎で給仕の仕事を担っている女性のようで、名前の身の回りについても世話をしてくれるという。
「この魔法舎は、賢者様しか女性がいなかったから、嬉しいです。よろしくお願いしますね」
 カナリアは名前の通り綺麗な声だ。男性に囲まれていたからか、女性と話せることに名前は肩の力を抜いていた。
「では、私は少しやることがあるので、失礼します」
「はい、賢者様」
「あっ、あの……色々と、ありがとうございます」
 晶が扉の向こうへ行こうとする。名前が慌てて声を掛けると、晶は嬉しそうに「いえ、また来ますね」と話して部屋を後にした。
「では、名前さんのお部屋にご案内しますね」
「えっ」
――部屋、貰えるの?
 名前は驚きを隠せなかった。この世界での問題はまず衣食住であると考えていたが、これほど簡単にその一つをクリアできてしまうだなんて。
「私、お部屋使ってもいいんですか?」
「ええ。スノウさん、ホワイトさんが空室を使ってもいいって。賢者様も是非そうしてほしいと、さっき話していました」
 自分の知らないところでそんなやり取りがあっただなんて。きっと、談話室での話が終わって、魔法使いたちが出て行ったあとのことだろう。晶もカナリアを呼ぶために一時退室していた。
――ここで暮らすのか。
 建物の中の造りに慣れるまで、どのくらいかかるのだろう。できれば慣れないまま元の場所に帰りたいけれど、そうもいかないのかもしれない。
「では、行きましょう」
 カナリアは扉を開けて名前を促した。名前は慌ててソファの上に置きっぱなしにしたリュックとスマホを取りに行く。リュックを背負ってスマホをポケットに突っ込んで、カナリアのあとに続いた。
 部屋までの道すがら、カナリアは様々なことを教えてくれた。この魔法舎は中央の国のグランヴェル城の管轄だということ。その王族はこの国を建国してからずっと王位についており、王子であるアーサーは賢者の魔法使いに選ばれたらしい。
 そういえば、王子のような雰囲気の男の子がいたな。名前は話を聞きながら、ロビーでのことを思い出す。これまでの話を振り返ると、あの場にいたのは晶以外、全員魔法使いということになる。
「この魔法舎は、〈大いなる厄災〉を迎撃するためにと王宮から与えられた場所なんです。皆さんここで一緒に生活しながら、日々訓練だったり任務に行ったりしているんですよ」
「共同生活ってことですか? ……全員?」
「はい。最初は反対する方もいたそうなんですが、賢者様の働きで今はこうしてここで生活しているんです」
 全員で共同生活。まるで寮のようではないか。おそらく二十名以上の人がこの大きな建物で生活をしているのか。つまり、自分もその一員としてここで暮らすということになる。
 名前はくらりとしてしまった。ただでさえ慣れない場所だというのに、共同生活をするだなんて。休日は絶対に他者に会いたくない気持ちになっていたというのに、同じ屋根の下で、しかも多くの男性と生活する。気が遠くなるような話だった。部屋から出ない限り人に会わないけれど、果たしてどこまでそれが通用するのだろう。 
「大丈夫ですよ。ここの人たちは良い人ばかりですから。……一部、癖が強い人もいますけど」
 カナリアの最後の一言が聞き捨てならなかった。一部癖が強い人。本当に一部なのだろうか。名前からしてみたら、魔法使いというだけで、かなり癖が強い印象を覚えた。
 階段に差し掛かり、カナリアは一度歩みを止める。ここから五階まで登るそうだ。階段に慣れてないことはないが、五階まで登る経験はそれほど多くない。エスカレーターやエレベーターに甘えていた事実を突きつけられる。
 カナリアは名前を気遣いつつも、さくさくと登っていく。スカートの裾が名前の目の前で優雅に揺れる。息切れもしない彼女には慣れが隠れていた。
 カナリアは登りながらも話題が尽きなかった。元々は王宮の給仕をしていたこと。魔法舎に来たのは、旦那が魔法舎の書記官としての仕事に就くことになったため。魔法舎の現状を旦那から聞き、手伝いが必要だと自分から立候補したこと。
 既婚者だということに驚いたが、カナリアなら結婚してそうだとすぐに納得してしまった。話している様子からも、カナリアはかなり仕事ができそうなイメージを抱いた。相手を気遣うことができるし、自分の意見もハッキリと伝えることができる。
――こっちの世界には指輪の文化はないのかな。
 カナリアが既婚者だと知って、まず最初に左手薬指を確認してしまったのは、いけない癖のようなものだった。既婚者にはそこに必ず嵌められている結婚指はなかった。仕事だから外している可能性も高いが、指輪を嵌めていた痕はなさそうだった。野暮なことを確認してしまって、名前は心の中でカナリアに謝り反省する。
――文化が違うんだな。
 挨拶、距離感、風習や慣習は、歴史や文化に影響を受ける。名前はまだ、この世界の全貌がわかっていない。知っていることは、人と魔法使いが共存していること、電気がなくロウソクが使われていること、そのくらいである。
 環境がガラリと変わりすぎていて、ついていける自信がないに等しい。名前の脳内は不安の塊が支配している。世界が違うというだけで目を回してしまうのに、見通しがまったく持てないことに完全に困り果てていた。一つ一つクリアしていくしかないのだと理解していても、気持ちは焦ってしまう。
 階段を登り終えたカナリアを、名前は少し息を切らしながら追う。本当は足を止めたかったが、過度に心配されそうで重たい足を引き摺った。歩きながら息を整えるのは難しいし。けれど、それをカナリアに気づかれることも恥ずかしい。名前は運動不足の自分を呪った。
「ここが名前さんのお部屋になります」
 カナリアは預かったと話す鍵を刺して部屋を開けた。
 空室だという話にしては、室内は物が散乱していた。部屋には大きな棚と形が様々な瓶が置かれていたり、楽器が置かれていたりしている。誰かが使っているような形跡も見られたが、どちらかというと物置のようだった。
「まだ片付けが済んでいなくて、すみません。この後、ベッドを運んでくださるみたいですよ」 
「わ、いいんですか? ありがとうございます」
「食事は、三食きちんと食堂で食べられます。主にネロさんと私が作ってるんですけど。あっ、食堂は一階にあるので、あとで案内しますね」
「食事まで? ……いいんですか?」
「もちろん! それに、一人増えたくらい、ここじゃあまり変わりませんから」
 楽しそうにくすくす笑うカナリアに、名前は頬をゆるめる。彼女が朗らかで、名前の緊張は完全にほぐれていた。
 部屋を貰えるだけでも、ありがたいのに、食事までついているなんて。そんな待遇を受け入れてもいいのか。
――それはきっと、私が媒介だから……?
 おろらくこの考えは正解だと名前は考える。そうでなければ、今頃自分は『家なき子』になっていただろう。果たして、自分は媒介という役目に見合うのだろうか。媒介についても説明を受けただけで、まだ理解が追いついていない。名前は立っているのに、足元がぐらぐらと揺れているように感じた。
「あとは、衣類ですね。いま魔法舎にあるのは、給仕の服しかないんですけど……ちょっと待っててください! 持ってきますから!」
「えっ、あっ、すみません……!」
 カナリアは返事も待たず、風のように部屋から出ていってしまう。ぽつんと名前は取り残された。やることも無いため、部屋の中を見て回ることにする。
「空室ね……」
 名前の目には物置にしか見えない。しかし、魔法舎の中を簡単に案内してくれたカナリアは、物置部屋もあるといったようなことも話していた。
「ここに置いてあるもの、どかしてもいいのかな」
 名前は着の身着のままこの世界にやってきた。荷物と言えば、スマホと通勤リュックだけである。インテリアなど増える予定も今のところないし、私物を増やしてしまったら長居する現実を受け入れてしまいそうで、気が引けた。
 ここで生活をする。寝て起きて、食事をする。そのイメージが未だに持てないでいる。
「なんで私なんだろ……」
 小さな本音は誰の耳にも入らぬまま、雪のように溶けて消えてしまう。自分ではいけなかった理由が、どこかにあるのだろうか。それとも偶然が起こした、おかしな現象なのだろうか。誰に聞いてもはぐらかされそうで、そもそも誰に聞いていいのかもわからない。
「お待たせしました、名前さん。お洋服持ってきたんですけど――」
 扉をノックして入ってきたカナリアは、数着衣類を抱えていた。部屋の奥に置かれた机の上に広げて見てみると、カナリアが着ているような給仕の人用の服が男女用、どちらもある。
「名前さん、背が高いので、ワンピースが入らなかった時の為に、念の為に男性用も持ってきたんです」
 男性用はワイシャツとスラックスだった。ベストとネクタイもあったが、必要最低限着られるのならそれでいい。
「普段着るお洋服は、きっとそのうち用意してくれると思います。だからこれは、数日の間は着回してもらうことになると思うんです。私の方からもお洋服については相談してみますね」
「ありがとうございます、何から何まで……本当に、助かります」
「いいえ。言ったでしょう? 女性が増えて、私、嬉しいんですよ」
 にこにこするカナリアによって、脳内を支配していた不安が、少しずつ拭われていくようだった。頭が少しだけ軽い。視界が開けたように感じる。本当にちょっとだけ、なにか前向きに考えてみてもいいのかもと思えてしまう。それはきっと、カナリアの優しさがもたらしたものだった。
 この世界はなんだか、優しさに色でもついているみたいだ。現代社会では置き去りになりかけているさり気ない優しさが、この場所ではとても印象に残る。元の場所では無色透明だったのに、ここではハッキリと優しさを感じる。受け取るのは少し恐れ多いけれど、手にしてみるとあたたかくて柔らかくて、照れくさいような。優しくしてくれたことを忘れたくなくて、名前はカナリアの色合いを目に焼き付けた。
 優しさの色合いに気づけたのは、名前がいた場所とは文化が違うからなのか、それとも魔法使いと人間が共存している世界だからなのか。名前はまだ、正体が掴めないでいる。