1-3-10
優しさはどうして目に見えないのだろうか。
ネロはグラスを傾けながら、自室で一人ふと考える。氷がグラスにカランとぶつかる音がした。
――いいや見えない方がいい。
そうしてすぐに結論づける。見えない方がいいのだ。
見えてしまえば、それはいつまでも脳裏に焼きつく。見えてしまえば、見過ごすことなどできない。見えてしまえば、きっと一つずつ拾い集めてしまう。拾い集めた優しさは、いつか腕から零れ落ちて、それでも自分はその一つひとつが忘れられずもう一度拾おうとしてしまう。
人付き合いが苦手な自分にとって、優しさが目に見えてしまうことはきっと、苦しみに近いだろう。優しさを優しさとして受け取ることが出来ないかもしれない。けれど――。
『……私、きっとこのパンケーキ、好きです』
『私……もっと、もっとネロさんの料理で好きなもの、増やしていきたいです……!』
名前の優しさは、どうして言葉からこんなに綺麗で、ずっと見て聞いて、形に残していたくなるのだろうか。
『今まで食べたものも好きです。きっと、ネロさんの作るものなら、なんでも好きです。もっとネロさんのごはんを食べて、それこそ味わって食べて、ちゃんと、好きって伝えたいです……!』
ネロの心揺さぶる言葉を、名前はいつも贈ってくれる。きっと名前本人からすれば、贈るという認識は無いかもしれない。けれど、ネロからすれば、会話の一つひとつがとても大切にしたい言葉だった。
名前の優しさは、ずっとぬくもりを感じてネロの中に宿っている。それはネロが一人になった時に再びあたたかくなって、ネロをあたためてくれる。
名前は少しずつではあるが回復している。一階から五階の自室に戻っても、食事を抜くことは少なかった。どうしても体調が優れない時は、遅くなりながらもなんとかして食事を取ろうとする姿が見られている。
――本当、頑張ってるよな。
治療を続けて、本人も努力している。さらには、晶や魔法使いたちとの交流も楽しくやっている。一時はどうなるかと思ったが、段々と、この世界にやってきたばかりの、名前の姿に似てきている。誰かと食事をする機会も増えているみたいだ。
「……よかったな」
ネロはグラスに口をつけた。つまみを食べながら、じんわりと身体の中に広がっていくアルコールを感じる。
『好きです』
名前の言葉が頭の中を駆け巡る。自分自身ではなく、自分の作った料理に対して言われたと分かっていても、まるで自分に言われたことのように嬉しくて、どこか照れくさくて、それでもその言葉を両手で受け取りたくなる。
味がわからないというハンディキャップがあるから、まさか食事の好みの話をされるだなんて思ってもみなかった。こういう考えもきっと、名前を枠に当て嵌めて見てしまっていたのだろう。『好き』という言葉への衝撃と、『なんでも好き』という言葉への高揚感、なんでも食べさせたくなる想い。それらがごちゃ混ぜになって整理しきれなくて、ネロはその時、最低限の言葉しか名前に返せなかった。
しかし、それでも名前は嬉しそうにしていた。頬を染めて、胸の前で手を握り、喜びを噛み締めていた。
――俺のたったの一言で、あんなになっちまうなんてな。
ただ『ありがとう』と伝えただけなのに。いいや、一言がとてつもない力を持っていて影響するのは、名前の言葉で体感済みだ。人のことなど言えない。
「はぁ……参ったな」
いつまでも名前の言葉は、ネロの中で光り続ける。灯火のように暖かくて、そこを目指して駆けて行きたくなる。
『それこそ味わって食べて、ちゃんと、好きって伝えたいです……!』
「待ってるって、言えばよかったか……?」
ネロはグラスを傾けながら考える。言ってやっても良かったのだ。待っている、見守っていると。それまでも、それからもずっと自分は料理を作り続けると。けれど、その言葉が名前に重くのしかかってほしくはなかった。真面目でひたむきで、努力して治療している彼女を、刺激するようなことは言いたくなかった。
「いや、でもな……」
言ってやった方がよかったのだろうか。傍にいることを伝えてやった方が、安心できただろうか。一人で病と闘わせていることにならないだろうか。
人付き合いで何を伝えて、何を伝えなければいいか。約六百年生きている今でも、その正解が分からない。西の魔法使いのように欲望のまま、北の魔法使いのように己を押し通して、中央の魔法使いのように真っ直ぐに、南の魔法使いのようにあたたかく言葉を掛けられたら、どんなに良いだろうか。
「ははっ……聞いて呆れるな」
東の国で過ごした時間。北の国で生きた過去。何も自分に活かされてなどいないではないか。
ネロが少し乱暴にグラスへ口をつけた瞬間。
ドンドンドンドン。扉が乱雑にノックされる。ネロは眉間に皺を寄せた。
「誰だ?」
ネロは少し嫌な予感を感じつつ、立ち上がって扉を開けた。
「よう、ネロ」
「……なんだ。肉はねえぞ。今夜はもう店仕舞だ」
「まあそう言うなって。いい酒が手に入ったんだ。飲むだろ?」
ブラッドリーが見せてきたラベルは、確かに手に入れることが難しいものだった。ネロは片眉を上げた後、溜息をして扉の前から身体をずらす。
「……ちゃんと部屋戻れよ」
「おう」
ブラッドリーは大股で部屋に入る。テーブルの上を眺め、振り返った。
「一人で飲んでたのか」
「なんだよ、悪ぃかよ」
「いや? 好都合だと思ってよ」
「好都合?」
ネロはブラッドリーの分のつまみも用意することにした。ブラッドリーはドカりと席に座り、早速と言わんばかりに酒を開けて、とぷとぷ音を鳴らしながら注いでいく。
「お前、媒介の嬢ちゃんと随分仲がいいらしいじゃねーか」
「は? そんなことねぇよ」
ドキリと心臓が跳ね上がったものの、声は上ずることなく平然を保ってネロは返事をする。
「あの様子じゃ、もう身体の方は大丈夫そうだな」
「へえ。今度は医者にでもなる気か?」
完成したつまみをテーブルに置き、椅子に腰を下ろす。
「お前もわかってるはずだ。あの時みたいに、死にそうな顔、してねーだろ」
「……まあな」
ブラッドリーの話すあの時というのは、十中八九、厨房で名前が取り乱して『自分なんて死んでしまえばいい、死にたい』と発言した時だった。その時はブラッドリーが廊下で倒れていた名前を抱き抱えて連れてきたらしく、その場にいたブラッドリーもその発言を聞いている。
「自分で自分を殺そうとするなんざ興味なかったが、あの嬢ちゃん、なかなか良い考え方してたぜ」
「へえ? 話したのか」
名前とブラッドリーが二人で会話をしているところを想像して、胸糞悪い気分になりかける。ネロはブラッドリーのついだ酒をぐっと一気に飲んだ。
「おいおい、落ち着けって。血の料理人が人間の小娘にまさかご執心か?」
楽しそうな笑い声に紛れたブラッドリーの言葉に、ネロはカチンときた。
――うるせぇ。てめぇには一生わかんねえよ。
しかし、すんでのところで踏みとどまり、ネロは言い返すのをやめる。その代わりじっとブラッドリーを睨みつけた。
「おお、怖ぇなあ。ただ話したくらいでそんなかよ」
「うるせーよ。……で? なに話したんだよ」
「大したことじゃねえさ。くしゃみで運良く魔法舎に戻れた時、偶然中庭で居合わせてその流れで喋ったんだが……」
ブラッドリーは一度言葉を切ると、グラスに残っていた酒を一気に飲み干して、続けた。
「あいつ、北の魔法使いの考えに似てるぜ」
「……! どういうことだよ」
ブラッドリーのギラギラした瞳には覚えがある。盗賊団の時に嫌というほど見てきた双眸。狙った獲物は絶対に逃がさないという顔だった。
ネロはブラッドリーがこういう表情をする時、輪をかけて慎重に話を聞く。それが、盗賊団時代に染み付いた癖のようなものだった。
「ただの世間話だ。外を出歩いてていいのか、なんて返すか気になって聞いてみたんだよ」
「へえ。それで?」
ブラッドリーの高揚感が上がっていくのを、ネロは感じていた。
――こりゃ、嫌というほど味わってきたやつだ。
ネロは腹の底が冷え始めているのを感じていた。自分が大切にしてきたものが、他者に奪われてしまうような、宝箱を勝手に荒らされるような感じ。誰が悪いわけでもない。皆それぞれ他者と交流した結果なだけであるから、自分がどうすることも出来ないという無力感すら抱いてしまう。
「そうしたらよ、『身体の主導権を病気から自分に戻すために、外に出たりなにかに挑戦する練習をしてるんです』だってよ!」
ブラッドリーは楽しそうに膝を叩いて、空のグラスに酒を注いだ。
――真面目な名前なら言いそうな言葉だな。
ネロは名前が話しているところがすぐに想像できた。目標に向かってひたむきに、けれど繊細な心で臨む名前の姿をこれまで見てきた。彼女のシャボン玉のように様々な色に光る言葉は、どれも美しくて眩しくもあり、ネロにとってはかけがえのないものである。
「こうも言ってたな。『自分の身体は自分のものだから、たとえ病であってもコントロールされたくない。そのためにできることはなんだってしたい』とも」
口笛を吹きそうなブラッドリーは、指輪を煌めかせながらグラスを傾ける。ネロは次にくるブラッドリーの言葉を想像して、目を伏せた。
「気に入ったぜ、あいつ! いい考え方すんじゃねえか!」
――そうだろうな。
ネロは頭の中に雨が降り注いでいた。目の前にいるブラッドリーの声が遠く感じる。雨音でうるさくて、何も考えられない。
――この感覚、“また”か。
まただ。前にもあった。それこそ死に物狂いで頭自ら動こうとするブラッドリーを、必死で止めたのに叶わなかった時。
――まさか名前のことで思い出すとはな。
血なまぐささとは無縁の、開花する前の花のような彼女のことで、この感覚がよみがえってくるとは考えてもみなかった。
「賢者も肝が座ってるが、嬢ちゃんも同じだな。俺様の子分にしてやろうか」
ブラッドリーの声は、ラスティカが奏でるような軽快なリズムに乗っていた。それがさらにネロの心をえぐるようで、ネロはそっと片手で腹を抑えた。
「まあ、お前の唾付きなら考えてやらんこともねえが」
「はあ!?」
手に持っていたグラスが大きく揺れる。とぷんと酒が波打った。
「てめぇ! んなわけねぇだろ!」
「そうか? 仲良いらしいじゃねえか。名前も話してたぜ」
「は!?」
――なに自然と名前呼んでんだ!?
声を荒げ続けかけるも、名前が話していたことが気になってネロは必死に耐えた。
「『ネロには世話になってる』って。『感謝してもし尽くせない』んだと。俺の部屋で飲んだ時言ってたぜ」
「いや、まあ……なんだ、その……」
「……本気で照れてるじゃねぇか」
あんぐりとしているブラッドリーに、ネロは即座に返事をして、残っていた酒を酒を飲み干す。ぐっと口元を拭い、キッとブラッドリーを睨みつけた。
「照れてねーよ! っつーか! なんだ俺の部屋で飲んだって!? まさか酒飲ませてねえだろうな!?」
「飲ませてねえよ。本人の口から飲めねえことは聞いたさ。アイツは小動物のようにツマミ食ってただけだよ」
名前に酒を飲ませてないことにほっとしつつ、ネロはやはり聞き捨てならない言葉に反抗した。
「誓って唾なんて付けてねーからな!」
「おお怖ぇ。そこまで本気で反論するんだ。なにか裏があるんじゃねえか?」
「はあ!? だからねえっつってんだろ!」
ネロはブラッドリーの近くにあった瓶を掴むと、グラスいっぱいになるまで酒を注いだ。
――くそっ、なんなんだ。
ネロはぐっとグラスを握り喉を鳴らしながら酒を流し込んだ。確かにいい酒だ。こんな飲み方台無しだ。わかっていながらも、そうしないとなにかボロが出てしまいそうで、必死にネロは酒の力を借りて自分に蓋をする。
――唾なんてつけられるわけないだろ。
元々住む世界が違うんだ。魔法使いと人間。しかも異世界の女の子。いつかは帰るかもしれない存在。綺麗で真っ直ぐで、一度その優しさやぬくもりを知ってしまえば、忘れることなどできないのに。これ以上を望んでしまったら。
――ダメに決まってる。
ネロは自分の手のひらを眺める。この手は血で汚れている。汚いことだって数え切れないほどしてきたのだ。
あの柔らかい眼差しを、言葉をずっと受け取ってしまったら、自分はいったいどうなってしまうのか。
ネロは一度瞼を閉じて息を吐く。ブラッドリーの近くにあった瓶を掴み、グラスに注いだ。 ――名前が元気でいてくれれば、何だっていい。
グラスを傾けて、ネロは雑念を払った。
ブラッドリーとの酒盛りがお開きになった後、ネロは眠れずにいた。頭の中を支配している存在に気づかないふりをして、ネロはベッドの上で寝返りを打つ。酒を飲んだのに眠気がやってこないことに若干の苛立ちを感じつつ、何度目かの寝返りをした頃、大きなため息をついて起き上がった。
「仕込みの準備でもするかな」
眠れないならば料理に携わっているに限る。ネロは明日の献立を考えながら、食材を揃えてしまおうとキッチンに向かった。夜も更けている魔法舎は誰の気配もしなかった。主に北の魔法使いのおかげで、昼夜どんちゃん騒ぎの魔法舎が静かなのは少し変な感じもする。しかし、悪くない夜だった。
ネロはアルコールのせいで少しふわふわとした足取りでキッチンに到着する。
「明かり……えっ」
キッチンからは明かりが漏れている。こんな時間に誰だ。つまみ食いをする輩だろうか。ネロが顔を覗かせると、そこにいたのは――。
「――名前?」
「あっ、ネロさん……?」
コンロの前に立っていたのは、名前だった。普段とは違う寝間着に身を包んでいて、まるでどこかの良家のお嬢さんのようだった。名前の顔を見た瞬間、ネロの脳内で花が咲いたような、花の香りに襲われたかのような錯覚を受ける。
「どうした? 眠れないか?」
「えっと、はい。それで、白湯を頂こうかと思ったんですけど、コンロの使い方がわからなくて……」
「ああ、そっか……。俺がやるよ。座ってて」
ネロは気持ち足早に名前の元までたどり着くと、コンロを弄りいとも簡単に火をつけた。名前はネロの言葉を聞かず、ネロの横でコンロの使い方を眺めていた。
「そうやってつけるんですね……」
「このコンロ、少し古いからちょっと癖があってさ。……それより、白湯でいいのか? ホットミルクとか用意する?」
「あ、白湯で、大丈夫です。ありがとうございます」
名前はやんわりと断った。ネロは失言だったかと一瞬身体の動きを止める。しかに、気にしたところで困るのは名前だと気づき、ネロは気付かないふりをした。
ネロは身体の向きを変えて名前に向き合う。
「それ、どうしたんだ?」
「え?」
「似合ってるよ。クロエが作ってくれた?」
ネロは手を伸ばし、指の背で名前の髪に触れた。見たとおりのさらりとした質感に、女の子だなと感嘆する。
「あっ、えっ、あの、はい……クロエさんが、何着か作ってくださって……」
「へえ。完成したんだな」
「えっ、ご、ご存じだったんですか……!?」
「ああ。クロエが数日前に皆に言いふらしてたから。張り切ってたぜ」
「ひぇ」
ネロの指先は、名前の髪から離れなかった。自分でもなぜだかわからず吸い寄せられていく。指の背で髪をさらうように動かしては、同じようにもう一度。それをただ繰り返しているだけなのに、ネロの心は満たされていく。
「っと。できたな」
ネロは名前から離れるとマグカップを取り出して、ヤカンから白湯を注いだ。
「ほら。熱いから気をつけな」
「ありがとうございます……いただきます」
持ち手を名前に向けて差し出すと、名前はやけどに注意しながら持ち手に触れて、もう片方の手をマグカップの底に添えて口元に運んだ。小さな口で息を吹きかけて冷ます姿になぜだかぐっときて、ネロはじっと見つめてしまう。
「あ、あの……」
「ん?」
「私、なにかついてますか……?」
「え?」
「えっと、先ほどから、ずっと見られていたようなので……」
名前は頬を染めてちらりと上目で見上げてくる。ネロは胸を鷲掴みしたい気持ちを抑えながら、必死に言い訳を考えた。
「ああ、いや、その寝間着、本当に似合ってるなと思ってさ」
「あ、え、ありがとう、ございます……」
名前は目を伏せて、冷ました白湯に口をつけていく。
――なんだろ、ずっと見てられるな……。
ネロは腕を組んでキッチンに腰を預ける。名前が熱さで頬を火照らせながらゆっくりと呑んでいる間、ネロはそうして静かに眺めていた。
「……ふぅ」
「飲み干した?」
「はい。ありがとうございました。身体がぽかぽかです」
マグカップを洗おうと動き出そうとする名前から、ネロはさりげなくマグカップをかっさらった。
「あ、あの、洗います……!」
「いいよ。温まったのなら、そのまま寝ちまいな」
「で、でも……!」
「充分夜更かししただろ? 身体も温まったし、よく眠れるだろうよ」
「う、あ……」
ネロは片手で名前の頭をぽんぽんと軽く撫でた。ミチルやリケにやるような手つきだけれど、なぜだか離れがたい感覚が、ネロの手の平に残る。覗き込んだ名前の顔は一瞬で真っ赤に染まっていく。名前がもだもだしているうちに、マグカップを引き取り、そのままシンクで洗い流した。
「はい、終了。ほら、早く寝ないと、明日寝坊しちまうぞ?」
手を拭いてからネロは名前に向き合う。すると、名前は胸の前で指先をそわそわ動かしていた。
――なにか悩んでるな。
ネロはすっかり名前の癖を熟知している。指先をそわそわさせている時は、何かを話したいけど言葉を探しているときだ。
「あの……」
ネロはじっと名前の言葉を待った。名前のペースで言葉を紡いでほしかったからだ。
「えっと、私……」
「うん?」
ネロはキッチンに寄りかかりつつ、名前の言葉の続きを探った。
「わ、私、ネロさんのために、何か出来ることないですか……!?」
「は!?」
名前の言葉は想像していなかったもので、ネロは大きな声を上げてしまう。それでも名前は真剣な表情だった。
「私、自分の出来ることで、皆さんに恩返ししていきたいって最近ずっと考えてて……。それで、一番、たくさん、助けてくれたのがネロさんだから……ネロさんに、私ができることだったら、なんでもしたいんです……!」
「え、待って、待て待て……!」
名前の必死の訴えに、ネロはついていけていなかった。大事な話をされているとは理解していたが、名前の言葉が頭に引っかかってそれどころでは無い。
――私ができることだったらなんでもって、なんでも……!?
いやそんな事があるはずない。目の前を見ろ。名前は純真なんだぞ。ネロはそう自分に言い聞かせ名前を見つめ返すが、一身に見上げてくる名前の視線が、まるでネロの身体を痺れさせるようだった。
――落ち着け、そんなはずがないだろ!
アルコールに支配されていた脳が覚醒している気がする。しかし、半分はまだアルコールによって思考が普段とは違っていて、名前の言葉を言葉のまま受け入れて不埒なことまで考えそうになってしまう。
――そういうこと言っちゃいけないだろ……!
名前の気持ちは嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい。きっとどうやって伝えたらいいのか考えて模索して、考え抜いた先にあった言葉が、ネロに伝えてきた言葉なのだに伝えてきた言葉なのだ。しかし……。
――これを他のやつにも言うのか!?
例えば治療で世話になったフィガロとか? 言ったらどうする。相手はあのフィガロだぞ!?
ネロの脳は既に浴びるほどの酒を飲んでおり、正常な思考回路ができていなかった。
「あ、あのさ!」
「ひっ、はい……!」
ネロは両腕を伸ばし、がしっと名前の肩を掴む。想像していたよりも細くて薄い肩に、腹の底がゾクゾクとした。
「それ、あの、そういうこと誰にでも、言わない方が……いいと思います……」
最後の方の声はもはや萎んで聞こえてるかも分からない。名前のために伝えた言葉であるのに、年上として責任をもって伝えないでどうする。ネロは自分を叱責しつつ、背中に変な汗をだらだらとかいていた。
「えっ、ネロさんにしか言わないです!」
「ひっ」
ネロは小さく悲鳴をあげてしまった。名前の発言で酔いも綺麗さっぱり覚めてしまう。
――今の若い子、恐ぇ……!
これが若気の至りってやつなのか? 自分も昔こんなことがあったのか? いいや思い返してみても分からない。どうしたらいい? どうしたら伝わる?
ネロは必死に頭を捻り回した。酔いでポンコツになっている思考では、解決策が導き出せない。しかし一つだけわかっていることがある。
――名前、絶対ぇ同じこと今後も言う……!
それだけは確信していた。そしてその度に胃がキリキリして、腹の底が痺れることも予測できた。これは名前のために注意しなければならない。まだ被害者が自分だけならいい。これで、この発言のせいで名前がなにかよからぬ事をされてしまえば、目も当てられない。
――どうする、どうする……っ!
そこでネロは思いついた。というか、思い出した。遠い昔、吹雪にまみれながら生活をしていた頃。まだ相棒という存在がいて、未来は明るいものしかないと信じていた若かりし頃。
「名前」
「え……っ!」
ネロは名前の名を呼び、肩に置いてあった左手を名前の腰まで滑り落とし、ぐっと引き寄せた。距離が近くなったことで、花のような香りがネロの腕の中で広がっていく。大きく目を丸くして声も出せないでいる名前の頬を、右手でそっと撫でた。ネロは唇を名前の耳元に近づける。
「あんまり可愛いこと言うと……悪い魔法使いに食われちまうぞ」
「ひゃっ……!」
耳まで赤くなった名前が涙目になっているのを、ネロは心がくすぐられたように感じながらも誇らしげに眺めてしまう。
このくらい忠告しておけば、軽はずみにああいった発言をすることは無いはずだ。自分はちゃんと若い子に忠告できたのだと、今ならファウストのテストも百点満点を取れそうな気がするほど自信満々だった。
「――かっ……」
「ん?」
名前の唇がもにょもにょと動いている。ネロは上手く聞き取れず首を傾げた。
「可愛くなかったら、言ってもいいんですか……?」
「っ……!」
名前は涙目で見上げてきた。食い下がってきたことに驚きつつ、名前のそれはそれでもネロに対して伝えたい気持ちの強さを表していた。
「あっ! いえ、ごめんなさい! 本当に、失礼しました!」
「あっ!」
しかし、名前はすぐに我に返ったかのように飛び上がって、ネロの腕から逃げてしまう。
「ああああの、私、変なこと言っちゃって、ごめんなさい……!」
「あ、いや、大丈夫。俺も注意しすぎたといいますか……」
頭を下げてまで謝る名前を悪者になどできない。悪者はここにいる自分なのだとネロは考えていた。
「でも、そのっ、ネロさんに恩返ししたい気持ちは、本当なんです」
「っ!」
「なので……えっと、私、頑張ります……! おやすみなさい!」
「あ、おい!」
名前は嵐のように去っていった。ネロは名前の残り香を掴むことも出来ず、その場に立ちつくす。手のひらには、まだ名前の温かい体温が残っていた。
「はぁー……」
ネロはその場にしゃがみ込んだ。どっと疲れが出たような、緊張がほぐれたような。力が抜けてしばらく立つことができなさそうだった。
「ったく……どこまで可愛いんだか……」
ネロの呟きを聞いた者は、一人もいなかった。
(つづく)