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 味がしない、というのは厳密には語弊があるのだろう。しかし、その表現が的確なのだと名前は感じている。事実に即して忠実に言うのならば、脳内にある味覚中枢がダメージを受けているため、味覚を感じられなくなっている状態である。
 この世界に来て始まったことではない。元いた場所では、すでに一ヶ月ほどこの状態に陥っていた。食事への興味や意欲はあまり湧かず、味覚を感じられなくなっている。さらには胃腸の動きが弱まっており、すぐに満腹だと感じてしまう。食後は消化器官が弱まっているのか、胃がムカムカとするような、吐き気のようなものを感じる。
 つまりは、脳のバグが起きていた。脳機能に異常が発生しており、神経伝達物質のセロトニンやノルアドレナリンの量が減っているのだと言われている。神経伝達物質の量が変化すると、身体のあちこちで異変が現れる。正確になぜ異変が現れるのかは解明されていないが、神経伝達物質のバランスが崩れることで症状が生じる説は有力だった。それは、一言でいうならば、脳の病気であり、病名はよく耳にするようなもの。
 この病気は生涯百人中六人が発症すると言われており、珍しいものでもなかった。見た目ではわからない症状のため、症状が軽度であればカモフラージュがしやすい。だが、重度になると起き上がることさえもできなくなり、希死念慮や自殺企図もでてくる。継続的な治療、経過観察が必要であった。
 具体的には、気分が落ち込み憂鬱になる、何をしても楽しめない、やる気が出ないという精神症状がある。また、眠れない、疲れやすい、体がだるいという身体的な症状が現れる病気で、気分障害の一つだ。明らかな原因というものは特定できず、原因と考えられる問題が解決しても、症状の改善が見られることは少ない。日常生活に大きな影響を与えるため、治療が必須である。
 名前が調子を崩し始めたのは、二週間ほど前である。それは自覚した時期であり、実際にはもっと前から調子は崩れていたのだと考えられる。なぜなら味覚を感じなくなったのは、一か月前であったからだ。最初は気のせいかと感じていたが、次第に味の濃すぎるものしかわからなくなり、名前の生活から静かに味は消えていった。
――別に初めてのことでもないし。
 名前はオムライスをつつきながら思考に耽る。オムライスは、卵が高級な絨毯のようにふわふわとしていた。ケチャップと絡めて食べると、きっと美味しいのだろう。
 名前が味覚を感じられなくなったのは、今回が初めてではなかった。発症時期は不定期なものの、花粉症のように「ああまたやってきたな」と思う程度のことである。その後、辿る病態を考慮すると、その認識は良くないのだろう。しかし、始まってしまったら、仕方のないと思うことしか出来なかった。
 もちろん、名前なりに現状を維持しようと努力はしていた。生活リズムの改善やストレスの軽減など、自分でできることには取り組んでいた。継続的に通院もしていたし、薬物治療も行っている。
 しかし、環境が様変わりしてしまった。これからは、この世界で生活しなければならず、いつ帰れるのかも分からない。環境の変化に弱い状態であるのに、世界が違えば、抱えるものも変わってくる。きっと自分は、いま自覚している以上にストレスを感じている。
 名前はゆっくりと、だが淡々とスプーンを口に運び、オムライスの山を崩していく。それは大きな山に見えて仕方がなかった。
 半分も崩せば、大分お腹に溜まった感覚を得る。スプーンを置き、小さく息を吐いた。グラスに手を伸ばして水を飲むと、胃の中が押し込まれたように感じる。
「あの……名前さん、お口に合わなかったですか?」
「えっ……いえ、そんなことは」
 晶の心配そうな声に、ハッとする。はっきりと否定することはしなかったが、酷く曖昧な返事をしてしまった。
 晶は伺うように視線を寄越してくる。しんと静まり返った食堂で、自分の声が大きく響いてる気がして、名前は縮こまった。
 みんな、耳を傾けているのだろうか。こんなに美味しいものを、なぜ美味しいと言って食べないのかと、訝しげな眼差しで見ているのか。
 名前はグラスを持つ指に力を込める。唇を引きしめて、自分の思考を否定しようとした。勝手にこの脳は、否定的や悲観的な考えをしてしまう。事実では無いことを、自分勝手な思い込みで、納得させようとしてくる。名前は抗おうと必死だった。
「いや、あの、そうではなくて……」
 口から出てくるのは言い訳のような言葉の羅列だった。何を話したらいいのか分からない。考えがまとまらない。
――あ、やばい。
 後に引けない状況だった。晶は名前の言葉を待っている。おそらく食堂にいる魔法使いも耳を傾けている。名前の一言で、ここにいる人々になんらかの影響を与えてしまう。
――ッ……。
 頭の奥から胸の中心まで、どろりとした重たい液体が流れ込んでくる。黒々としたそれはどっぷりと身体の中心を目指し、さらには身体全身へと巡っていこうとする。背中が重くて背中を丸める。指先が震え出しそうで力を込めようとする。頭の中は、音のない警告が鳴り響く。
「あの、名前さん――」
 警告音のその先で、晶の声が聞こえた。遠くの方から呼びかけられているようだった。
――なにか言わなくちゃ。
 名前の身体の中は、流れ込んできた黒い何かが駆け巡っていた。鉛のように重たくて、思考すら正常にできなくなってきて、苦しくて仕方がなかった。
「……っ、すみません。……お腹、いっぱいで」
 名前はテーブルの下で片手を握り締めながら、ようやく言葉を発することが出来た。口から黒いどろりとしたものを、吐き出してしまいそうだった。必死に日常をつなぎとめた声は、細くて少し震えてしまう。
――いなくなりたい。
 悲しくて、恥ずかしくて、自分に腹が立って、悔しかった。たった一言を言うだけに時間をかけて、出てきた言葉は言い訳がましくて、稚拙で親切心の欠片もない。自分勝手な都合に晶を巻き込んでしまった。そしてきっと、聞いていた魔法使いの時間も奪ってしまった。
 名前は続く言葉が見当たらず、体内のどろりとしたものの処理もしきれずに俯いてしまう。晶から気遣われるように何か話しかけられたが、名前の耳には一切言葉として届かなかった。
 まるで水の中に潜った時のように、音がくぐもって聞こえる。ぶくぶく、ぼこぼこといった音が耳の傍で聞こえてくる。辛うじて息は吐けているものの、これ以上は呼吸が苦しくなってしまいそう。
 申し訳なくて、晶に返す言葉も見当たらず、名前は俯いた。自分の手を見ながら、必死に呼吸をし続けた。
「それ、食べないんなら俺が食います」
「ミスラっ!?」
 突然降ってきた声に顔を上げると、ロビーで早々に消えてしまった男が立っていた。
 どうやらミスラというらしい。赤毛で隈が濃いミスラは、長身ということもあり、モデルのように容姿が整っていた。縫い跡のようなものが身体を巡っていて、痛くは無いのかとふと気になってしまう。
「腹が減りました。食べてもいいですか?」
 了承をしていないのに、すでに伸ばされたミスラの手は、オムライスの皿をひったくっていた。名前はぽかんとしてしまう。
「食べかけで、いいなら……?」
「構いません」
 名前が戸惑いながら伝えた言葉を、ミスラはどこ吹く風といったような様子で返答する。名前の隣の席にどかりと座り込んだミスラは、大きな口を開けてオムライスを掻き込んでいく。
 あっという間にオムライスは消えてしまった。名前がオムライスを半分食べた時間と、比べ物にならないほどの速さでミスラは平らげる。
「ふぅ……足りませんね」
 カランとスプーンを皿に落としたミスラは、ぽつりと呟いた。食堂に大きく響いたその音は、名前の心を苦しめるものでは無かった。
「ミスラ、自分の分をもらって来てください。ネロが用意してくれてますよ」
「ええ、めんどくさいなぁ。ネロが持ってくればいい話じゃないですか」
 晶と会話しながら、ミスラはだらりと背もたれに身体を預ける。足も同じように伸ばしているようで、晶が「痛っ」とテーブルの下を確認しながら漏らしていた。
 オムライスが皿の上から消えたことに、名前はほっと胸を撫で下ろしてしまった。頭の奥から湧いてきた黒いどろどろとしたものも、いつの間にか姿を消している。それもそのはず、完食した皿がこの場での正解であって、名前の食べ残しは不正解なのだ。
 名前は、カンニングがバレなかったような安堵感と後ろめたさを抱えていた。食べ残しがあればきっと、作り手のネロは悲しむ。それだけは避けたかった。
――ごちそうさま、言い忘れたな。
 食事の終わりが唐突に訪れてしまい、言うタイミングを見失ってしまった。名前は場違いかと考えたが、他者がいる手前、挨拶がないのは失礼かと思い口を開こうとする。
「ご――」
「そういえばあなた、媒介なんですよね?」
「……えっ?」
 名前の挨拶はミスラにかき消された。まさか話しかけられるとは思ってもみなかった。自分に向けられた言葉だと気づくのに、時間を要してしまう。
「あ、はい……そうみたいです」
「ふーん」
 ミスラは自分から話を振っておいて、興味が無さそうに呟く。反応に困って晶を仰ぎ見るが、晶は困ったように笑うだけだった。普段からこのような感じなのだろうか。
 再びミスラに顔を向けると、彫刻のように綺麗な横顔が目に映る。天井を見上げながら、何かを考えているように見えた。案外ぼうっとしているだけかもしれない。
 赤色の髪の毛も、碧色の瞳も、どこか浮世離れしていた。それでもパズルのピースがかちりと嵌っているように、彼は似合っているし美しさすら感じる。クリスマスの夜に光るツリーのように、彼の存在は特別感がある。
「媒介にしては、あまり結界が強化されていませんね」
「……え?」
 一瞬、何を言われているのかわからなかった。
 ミスラの目がずるっと動いて、名前を射抜く。名前はミスラから目が離せなかった。金縛りのように身体が動かない。目を離したら、何か恐ろしいことが起きてしまいそうな予感さえしていた。
――あまり結界が強化されていない?
 ミスラの言葉を、名前は頭の中で復唱する。
 どういうことなのだろう。結界を強化するために、名前は世界を越えて呼ばれた。名前がやって来たことで、結界の綻びはなくなったと言っていた。けれど彼は、結界が強化されていないと話している。
――どういうこと?
 何かが起きているのだろうか。けれど、名前自身、普段と体調などは変わらず、知る手立てがない。魔法使いならば、それがわかるのだろうか。魔法使いでなければ、わからないことなのだろうか。
「あなた、本当に媒介として機能してます?」
 ミスラの視線と言葉が、ナイフのように名前に突き刺さる。
「――っ」
 息を飲んだ瞬間、再び頭の奥からどろりとしたなにかが零れ出した。
――本当に媒介として機能しているか。
 名前は呼吸が止まったかのようだった。結界のこと、ましてや魔法のことなんて何も分からない。けれど、魔法使いの彼が言うのならば、きっとその通りなのだろう。名前は、ミスラが嘘をついているようには見えなかった。
「ミスラ、結界があまり強化されていないって、どういうことですか?」
 晶が質問する。まるで名前の代わりに訊いてくれているようだった。名前は晶を一瞥したあと、恐る恐るミスラに視線を戻す。
「どうもこうも、言った通りですよ。綻びはなくなりましたけど、それ以上結界が強化されているように見えません」
 結界が強化されていないから、媒介としての役目が果たせていない。ミスラはこう言いたいのだろう。だから本当に機能しているのかと言い切った。
 結界が強化されなければ、どうなるのか。この魔法舎で暮らす人々の生活に危機が及ぶ可能性が高くなる。彼らを守るために、結界は存在している。
――私がいる理由って?
 結界が強化されなければ、それは名前の存在理由にも関わってくるのではないか。結界を強化しない媒介など、必要が無い。役目を果たせてないのならば、要らない存在になってしまう。
「媒介なんて当てにならないんじゃないですか?」
 まるで、自分が欠陥品かと言われているようだった。ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた名前は、まともに返せる言葉が見当たらず、ミスラから視線を逸らす。彼が空にした皿を見つめるしかできない。
「ミスラっ!」
「なんです? 俺、なにか間違ったこと言いました?」
「決めつけるのは良くないです。スノウやホワイト、オズにも確認しましょう」
「はあ? 賢者様は俺がオズより劣っているって言いたいんですか?」
「そっ、そうではなくて……!」
「俺の意見よりもオズの意見を信じるってことですよね?」
「知見は多い方が、なにかと役に立つと思って!」
「俺の話は役に立たないってことですか?」
「違います! ミスラが言ってくれなければ、気づけなかったことなので! ミスラの意見を大事にしたいんです!」
 晶の慌てようがミスラの苛立ちを際立たせていた。晶の言葉に、ミスラはイライラした雰囲気を次第に抑えていく。
「……ふうん、オズよりも俺の意見を大事にするってことですよね?」
「そっ、そうです!」
「ならいいです」
 のっそりと話す低い声と、焦ったような高い声のやりとりが続いていた。
 なにか、なにか言葉を発せなければ。これは自分自身に関わること、つまり自分の問題である。
――でも、何を?
 何も言葉が見当たらない。ぽっかりと胸に穴が空いてしまったようだった。空いてしまったそこに、頭の奥から漏れだした黒いどろりとしたものが流れ込んでくる。身体が冷たくなっていく気がした。
 頭の中心が凍っていくような感覚を覚える。それは、氷のようで、けれど風が吹けば溶けてしまうような。結露が寂しく滴るような。
――ああ、私……悲しいんだ。
 そう気づいた途端、黒いどろりとしたものの動きが、名前の中でゆっくりとなったように感じる。結露した氷だったものがぴちゃりと頭の中に浸透していく。冷たいそれは、悲しい気持ちの色をしていた。
 名前はミスラの言葉よりも、欠陥品だと言われたように捉えてしまった自分自身に、衝撃を受けていたのだ。自分で自分の首を絞めてしまった。それは脳のバグではよく起きることだけど、一番ダメージが大きいことである。
 名前は自分を客観的に理解出来たことで、視界が少しだけ開けたようだった。苦しさも悲しさもあまり変わらなかったが、ミスラの皿から視線を上げて、二人の表情を伺うことができる。ミスラは大きな口を開けて欠伸をしていて、晶は心配そうな表情を向けてきていた。
「あの、私は……」
 まだ考えが整理出来ていない状態だった。けれど、なにか話さないと。それだけが名前の頭の中を支配し始める。
 けれど、名前が意思表示出来るようになるには、まだ時間が足りなかった。数時間前に突然連れてこられたような状況で、まだ信頼関係も築けていない相手に対して、自分の気持ちや考えを伝えるには勇気がいる。名前はまだ、その勇気を出すことが出来ない。
「――ミスラ、あんた飯まだ食ってないだろ? いったい誰の食ったんだ?」
「っ……」
 それは、水面に雫が落ちたようだった。聞いたことのある声に名前は息を飲む。後ろから飛び込んできた声に、名前は静かに振り向いた。
「この人が食べないんで貰いました。ネロ、俺の分持ってきてください」
 視界に淡い色の世界が広がっていた。そこに立っていたのは、ネロだった。ネロは何かの皿を二つ片手に乗せている。ミスラの言葉に、ネロは目を丸くした。
「えっ……口に合わなかったか?」
 ネロは『この人』という言葉に沿って視線を向けてくる。やはり目は合わなかったものの、初めて言葉を交わした時よりも、視線が合いそうな予感がしてしまった。
 ネロの思い詰めた一言に、名前はハッとする。
「あっ、いや、違うんです! お腹いっぱいになっちゃって……!」
 とっさに胸の前で手を振ってしまう。背中には冷や汗がたらりと流れた。心臓がバクバクとしていて、口から飛び出してきそうだった。
 ネロの唇が動くまでの間が、とてつもなく長く感じた。
「そっか……。悪いな、どのくらい食べるか確認してなくて」
「いえ、私こそ先に言わなくて……すみません」
 ネロが悪く思うところは何一つない。事前に食べられる量を伝えていれば良かっただけの話のこと。ミスラが食べてくれたから事なきを得たが、彼が来ていなければ未だに食べ残されていたのだ。
 ミスラがこのテーブルに着いたのは、不幸中の幸いと言えるだろう。振る舞い方は少々乱暴だけれど、口調は丁寧で、けれどどこか自由奔放な感じ。気遣いをあまりしないような彼だからこそ、事実を淡々と告げてくるその言葉を受け入れられたのかもしれない。
――まだわからないことは多いけど。
 どうにかして、誰か魔法使いに訊いて、事実を確認しなければならない。しかし、魔法使いとの接点の結び方を、名前は知らなかった。
 胃がキリキリとしていた。食後だからというわけではないだろう。名前はそっと胃の上を手で抑える。少しでも痛みが治まればと思ったが、手が触れると痛みが増したように感じた。
「……じゃ、これは賢者さんとミスラに」
 ネロはプレートを二人の前に置いた。そこには、カップケーキにクリームを乗せたようなデザートが乗っていた。
 おそらく、自分と晶に持ってきてくれたのだろう。名前が満腹だと知ったから、代わりにミスラへと渡したのだ。
――悪いことしちゃったな。
 けれど、配膳されて食べられないよりかは、マシなのかもしれない。ミスラはまだ空腹のようだから、丁度いいだろう。
「サヴァラン……! ありがとうございます!」
「これと同じのも持ってきてください」
「オムライスな。はいはい、分かりましたよ」
 ミスラはネロにオムライスを頼みながらも、早速手掴みで食べてしまう。大きな口でぺろりと平らげてしまい、クリームにまみれた指を舐める様子は、猫のようだった。
「サヴァラン、久しぶりに食べます」
 晶が目を輝かせているデザートは、サヴァランというらしい。見たことの無いデザートに、名前は目が釘付けになった。ハートの形に似たフルーツが添えられていて、SNS映えしそうなデザートだ。思わず身を乗り出して覗いてしまう。
「名前さん、一口食べますか? 甘くて美味しいですよ!」
 名前が興味深そうに見ていたことに、いち早く気づいたのは晶だった。フォークで一口分掬い差し出してくれるが、名前は首を横に振った。
「いえ、お腹いっぱいなので……。それに晶さんのなので、食べてください」
 名前は自分のできる範囲でやんわりと返答する。しかし晶はシュンとしてしまった。
「残念です……また今度、食べてくださいね」
 晶は細やかな気遣いができる人なのだと感じた。会話を小さな希望で終わらせることが出来るだなんて、全員が出来ることではない。晶が肩を落としてしまったことは申し訳なかったが、名前が食べられないことに対して後ろめたさを引きずることは、もう無くなっていた。
 晶は差し出したフォークを引き寄せ、口に運ぶ。すると、たちまち頬を緩ませた。
「んー! 美味しいです、ネロ!」
「ははっ、そりゃよかった」
 ネロの弾んだ笑い声に、名前は後ろを振り返る。
「……!」
 美味しいと言われたネロの表情が、名前の目を奪った。気だるげな雰囲気をまとったネロが、感想を伝えられ照れくさそうに、嬉しそうに微笑んでいた。
――この人は、綺麗に笑うんだな。
 控えめだけれど、蕾が少しだけ開花したような、数多くある花びらの中で、外側にある薄い一枚が外に向けて開いたような、そんな笑顔。
 ネロを包み込む淡い世界が、朝露のようにキラキラと輝いている。綺麗で、眩しくて、けれどずっと見ていたくなる。胸がぎゅっと詰まって、名前は胃を抑えていた手を、そっと胸に移動させた。
 いつの間にか、名前の胸にぽっかり空いた穴が埋まっている。流れ込んできた黒いどろどろしたものも見当たらない。悲しい気持ちの色をした氷が結露したようなものも、頭の中から消えている。ネロがまとう淡い色の世界が、名前の心の中を綺麗に塗り替えていく。優しくて、触れるとあたたかくて、それらはキラキラと輝きだす。
 名前は小さく息を吐いた。気づかぬうちに息を詰めていたようだ。新しい空気が身体の中に入ってくると、淡い色の世界に穏やかな風が吹き込んでくる。
「やっぱりネロの料理は美味しいですね!」
「ありがとうな。ゆっくり食えよ、賢者さん」
 晶の美味しそうに食べる様子に、ネロは頬を緩ませる。控えめな笑みだったが、美味しいと言われて嬉しそうなことは、初めて会った春でも充分に感じ取れた。
――なんか、いいな。
 ずっとこうやって、彼に笑っていてほしい。なぜだか名前の頭の中に、希望がふわりと浮かび上がる。ネロには悲しい顔は似合わない。穏やかな陽射しの元で、やわらかく笑っている様子がよく似合う。彼の淡い色の世界がずっと続きますようにと、願わずにはいられなくなる。
――どうしてだろう。
 初めて見た彼の笑顔を、きっとこの先も忘れることがないだろう。それほどに、名前はネロの美しさに心を奪われた。高価なものではない、美術品のようでもない。素朴で、日常に寄り添うような、溶けてしまうような彼の笑顔に惹かれていた。
 同時に、名前は引け目を感じてしまう。ぎゅっと胸元を握りしめる。きゅっと胸が詰まるような、頭が締め付けられるような痛みを感じる。名前は誰にも気づかれないように、背中を丸め少しだけ縮こまる。
 ただ一言、『美味しい』という言葉が、名前の心に影を落としていく。
 ネロが心を軽やかに揺らし微笑む言葉は、自分が絶対に伝えられない言葉だったから。