1-1-6
晶とミスラがサヴァランやオムライスを食べ終えた後、二人との別れはすぐに訪れた。
「賢者様! ここにいらっしゃったんですね……!」
「クックロビン」
晶の元にやって来たのは、クックロビンと呼ばれた男だった。栗色のくせっ毛がぴょんぴょん跳ねているが、清潔感を感じさせており、ブラウンのスーツがよく似合っていた。気の弱そうな印象もあったが、晶と話す姿はおどおどしたりせず、柔らかい空気感をまとっていた。
「クックロビン、こちら、名前さんです」
「初めまして。苗字名前です」
「はっ、初めまして。書記官を担当しております、クックロビンです」
晶から紹介され、名前は挨拶を交わす。クックロビンはこの魔法舎で書記官を担当しているといい、王宮から派遣されているとも話していた。名前は話を聞きながら、カナリアの言葉を思い出す。カナリアの旦那は確か、書記官として働いていると話していた。
――この人がカナリアの旦那さん?
書記官が彼一人だけならば、目の前にいるのがカナリアの旦那ということになる。名前は頭の中でクックロビンとカナリアを隣り合わせに並んでみせる。なるほど、二人の組み合わせはなんだかしっくりくる。しっかり者のカナリアがクックロビンを引っ張っていく感じだろうか。
――職場恋愛ってすごいな。
カナリアもクックロビンも元はお城で働いていたというから、その頃から関わりがあったのだろう。
「すみません賢者様、依頼がいくつか入っていて。至急確認して頂きたいのですが……」
「わかりました」
晶は立ち上がった。名前を振り返り肩を落とした。
「すみません名前さん、ここで失礼します」
「いえ、ありがとうございます。色々と」
「ミスラも。またあとで」
晶は足早にクックロビンと去って行く。晶がいなくなってしまい、名前はどうしようかと考えた。この場で頼れるのは、彼女だけだった。
残された名前は、隣に座るミスラをちらりと盗み見る。ミスラは大きな口を開けて欠伸をしていた。白い肌に不釣り合いな隈が濃くなったように見える。眠れていないのだろうか。ミスラほど濃い隈を、名前はこれまで見たことがなかった。
「なんです?」
「えっ、あっ……ごめんなさい」
のっそりと碧色の瞳が動き、名前を見つめた。名前はとっさに視線を逸らす。気まずい空気を自分で作ってしまい後悔した。
どうしよう。なにを話そう。話さない方がいいのかな。名前の頭の中はぐるぐると迷いが駆け巡る。当の本人は再び大きな欠伸をしている。
――そうだ、まだお礼言ってなかった。
名前は大事なことを思い出す。ドキリと大きな音を立てて気づいた事実に、指先が震えた。逸る心臓を感じながら、そうっとミスラに顔を向ける。
「あの……さっきは、ありがとうございます」
「なんのことですか?」
「オムライス、食べてくれて。……あと、結界とかのことも、教えてくれて」
「…………」
後半は声が小さくなってしまったが、ミスラに届いただろうか。ミスラはほんの少しだけ目を見開いた気がした。
沈黙が痛かった。名前は耐えきれず視線を落とす。言いたいことは言えたから、目標達成であることには違いなかった。
「いつでも食ってほしい時は言ってください」
「え……」
「まあ、言われなくても食べますけど」
「えっ……?」
名前は弾かれたように再度ミスラを見上げた。ミスラはぼんやりと空を見つめていて、目が合わなかった。
名前にとって、ミスラの言葉は頼もしい以外の何ものでもなかった。少し自由奔放なところはあるけれど、いざと言う時に頼りになる人なのかもしれない。
名前は謎めいていた魔法使いという存在の片鱗に触れられた気がして、少し体が軽くなったようだった。
「ムラっとしますね」
「え? むら……?」
ミスラは突然立ち上がる。脚が長いことは察していたが、彼が立つと名前の視界の半分は脚になる。
「アルシム」
ミスラはなにか言葉を呟く。すると、突然何も無いところに扉が現れた。
「扉……?」
どこでも繋がっている扉なのか、ドアが開いた先は全く別の場所の光景が映し出されている。ミスラは長い脚を動かして扉をくぐっていく。名前があっと小さく声を上げた瞬間に、彼は扉ごと姿を消してしまった。
「……なんだったの」
名前は唖然としてしまう。突飛な言動や行動も、見届けるだけで精一杯で、ついていくことが難しかった。
食堂を見渡すと、すでに名前だけになっていた。食事を摂っていた魔法使いたちは、いつの間にか姿を消していた。ぽつんと取り残されてしまった名前は、しばらくガランとした食堂を眺めることしかできなかった。
唯一残されたのは、テーブルに置かれた食器だけ。それは、晶とミスラ、そして半分名前が使っていたものである。
――お皿、片付けた方がいいよね。
食堂の使い方をまだ理解していなかったが、このまま去るには気が引けた。幼い頃から、自分で使った食器はシンクまで運ぶ、洗えるなら洗うと教わってきた。その習慣が根付いている名前に、食器を放り出してどこかに行く選択はできない。
名前は皿を重ね、一番上の皿にフォークやスプーンを置き、ゆっくりと立ち上がる。厨房は、食堂の近くだと晶が話していた。歩いていれば見つかるかもしれない。
ここへやって来て、名前は初めて一人だけで魔法舎の中を歩く。足取りは少し重かった。少しカチャカチャと食器を鳴らしてしまいながら、名前は食堂を抜けた。
厨房はすぐに見つかった。廊下に出て近い扉を一つ一つ覗いていくと、厨房だけ扉が開かれていたからだ。
厨房は大きな部屋だった。出入口から見て奥側に、壁に沿うようキッチンが設置されていた。コンロのようなところがあったり、棚には様々な調味料が所狭しと並んでいる。右手奥の壁には数多くの調理器具が並んでおり、種類も豊富だった。中央に設置された木製のテーブルの上には、籠に果物が入っていた。
まるで外国のキッチンに迷い込んでしまったかのよう。名前は口を開けたまま室内を見渡した。この場所で、綺麗な料理が生まれているのだ。
名前は未だ目移りしそうになりながらも、本来の目的を果たそうと向き直る。先ほど食堂で少しだけ会話をした彼は、ちょうど洗い物をしているようだった。
「あの……」
名前は声を掛ける。声が震えてしまった。名前はネロだと知っていたが、名前を呼ぶのには少し気が引けた。
「……ああ、悪い。そこに置いといてもらえるか」
ネロはワンテンポ遅れて振り返る。やはり目は合わなかった。ネロは視線でテーブルに食器を置くように伝える。洗い物をしているのだから、そのままシンクに持っていく方が合理的だと名前は考えたが、これが彼の距離のとり方なのかもしれない。
「わかりました」
名前は食器を落とさないよう気をつけながらテーブルまで運んでいく。ネロは体の向きを直して洗い物を再開していた。ガチャンと音がならないよう、細心の注意を払って食器を置く。それが何となく、ここでの敬意の払い方のように感じた。
食器を置いてしまうと、手持ち無沙汰になってしまう。
――どうしよう。
このまま出て行ってもいいのか、それともこの場に留まるべきなのか。料理を食べさせてくれた手前、洗い物まで率先してやった方がいいのではないか。しかし、テーブルの上に置いてほしいということは、名前が洗い物をするという選択肢は残されていないのだろう。このまま去るには気が引けるものの、何をしたらいいかわからなかった。
名前はその場から一歩下がり、身体の前で両手をそっと触れ合わせる。
「……あの」
意味もなく声を発してしまい、名前は失敗したと悟る。これではまるで、言いつけを守ったことを見てほしいみたいじゃないか。
名前が視線を窓わせながら慌てて続く言葉を探していると、キュッと蛇口を捻った音がする。鳴り響いていた水の音が止まる。ネロが振り返った。
「悪いな、運んでくれて」
ネロはテーブルまで歩み寄り、食器を回収しようとする。ネロとの距離が、近づく。
名前はそっと視線を上げた。低い位置にある窓と、高い位置にあるロウソクの光で、水色の髪のてっぺんは淡い天使の輪ができていた。
大きな手が丁寧に食器を持ち上げる。食器がぶつかり合う音は一つもしなかった。ネロの静かな手つきから、名前の敬意の払い方は間違っていなかったことが証明される。
「あの、ありがとうございます。お食事、用意してくださって」
名前の口は勝手に動いていた。言い終えた後にハッとする。慌てて視線を下げた。
――どうしよう、話しちゃった。
ネロが目の前にいなければ、とっさに口に手を当てているだろう。しかし、お礼を言った手前、それをするのは違う気がした。まるでお礼を言わなかった方が良かったと伝わってしまうような気がした。
ネロは食堂でも、あまり話したそうにしていなかった。今もおそらくそうだろう。目が合わないし、必要最低限のような言葉しか話していない。名前が彼の領域に無理やり入り込んで、話を広げてはならない。
――やっちゃった。
名前は後悔した。ここはネロのテリトリーであり、彼に主導権があるのだ。それを気にせず、名前は話しかけてしまった。
――悪いことしちゃったかな。
名前の脳裏には、晶とネロのやりとりが浮かんでいた。美味しかったと伝えられない自分が、恥ずかしくて仕方がない。晶のように『美味しい』と伝えられたら、どれほどいいだろう。きっとネロもその方が、嬉しくて気が楽なはずだ。
名前は顔を上げられなかった。そのため、ネロが驚いた表情をしていることに、気づけなかった。
「あー……あのさ」
カチャンと小さく音が鳴る。ネロには、言いにくそうな、たどたどしさがあった。言葉がいったん切れる。
――気まずいな。
自分から話しかけてしまったのに、こんな気持ちになるのも失礼だろう。けれど、名前は緊張と不安で背中に嫌な汗をかきそうである。名前はそろりと視線を上げてネロを見つめる。
ネロは視線を惑わせながら、片手を首の後ろにやる。数回小さく唇を動かしてから、ようやく口を開いた。
「……飯、腹がいっぱいになったって」
ぽつりと呟いた言葉に、名前は瞬きを返す。最初、何の話をされているのか分からなかった。しかしすぐに、自分の話だと気づく。食堂での、オムライスのことだ。
――覚えていてくれた。
大多数の中で一人の自分を見てくれたような高揚感が、名前をじんわりと支配していく。身体の前で触れ合っていた手を組んだ。嬉しさと恥ずかしさ、そして食べきれなかったことの申し訳なさを、手の中に閉じ込めた。
「あ、はい。……すみません、食べられなくて」
「いや、謝ってほしいわけじゃないんだ」
ネロの声が少し大きくなる。低い声は、名前の耳に自然と馴染んだ。優しく包み込むようなテノールは、一音一音がハキハキとした響きを持っている。名前の胸をそわそわとさせるには充分だった。
「人それぞれ、食える量は違うだろう」
本当に責めたつもりはないのだろう。誰も悪くないのだと伝えてくれているような言葉に、名前は救われた気持ちになる。
満足に食べられず、味も分からず、食事にすら興味を失っている自分は、きっと料理人のネロにとっては一番遠い存在だ。ここが料理店なら、関わることさえなかったはず。それなのに、ネロの言葉は彼の世界のように淡い色で、どこまでも名前の心を塗り替えていった。
「その……どのくらい食えた?」
「え? ……オムライスを、ですか?」
「ああ。あんたの適量ってやつを知ってた方が、今後なにかといいと思って」
料理人は、こんなところまで意識してくれるのか。名前は小さく感動しそうになる。食べ切れなかったのは名前で、料理を作り盛り付けたネロは、まったく非がないというのに。ここまで細やかな気遣いを自然とできてしまうのは、普段から生活の一部としてやっていないと、できないことだ。
「ありがとうございます……えっと、半分、くらいです」
「半分!?」
ネロの片手に乗っている食器がガチャンと音を立てた。名前がビクリと肩を震わせると、ネロは「悪い」と口にする。首の裏に触れていた手を顎に持っていくと、念仏のように唱え始めた。
「半分ってマジか……。いや、ここにいるのが男だから、少なく感じるだけか? あいつらは大食らいだけど、こっちは女の子だし……。いやでも賢者さんは、あいつらと同じくらい食うし……いや、賢者さんも結構食う方だもんな……」
名推理という言葉が似合うはずの姿勢から漏れ出す言葉は、さながら迷推理のようだった。確かに、晶は沢山食べていた。オムライスの後に、デザートまでぺろりと平らげてしまっている。ここにいる人は沢山食べられる人が多いのだろう。そうすると適量の幅が広がってくるに違いない。
「えっと、なんかすみません……」
名前は謝ることしか出来なかった。ネロを混乱させてしまっている。そして、もしかしたらこれからも、何かと食事に関して迷惑をかけるかもしれない。これからの生活を具体的に想像することは難しかったが、食事については体調の状態もあり、何かと困難が付きまとっているのは事実だった。
「あっ、いや。あんたが悪いんじゃないよ」
「!」
ネロはどこまでも優しく、名前の心を包み込む。名前は、自分が一番ダメだと思い込みがちな思考の問題を抱えている。それはゆっくりと侵食することもあれば、突然名前の脳が暴れて襲いかかってくることもある。そんな中、『あなたは悪くない』と言ってくれる人だなんて、それを専門としている主治医以外誰もいなかった。
「っ……」
名前は下唇を噛み締める。俯いて必死に手をぎゅっと組んで握った。ネロの世界があまりにも嬉しくて、苦しくて、涙が込み上げそうだった。
――ずっと、言われたかったことば。
体調を崩してからずっと、自分は健康にはなれないのだと思い込んでいた。カモフラージュが上手くいくだけで、実際は何一つ体調の問題は解決せずひっそりと息をして生きてきた。周囲の人々に、病気になったことを心の中で繰り返し謝罪しながら生きてきた。
あなたは悪くない、これまで通り生きていて大丈夫なのだと、誰かにずっと言われたかった。出来ないことが増えても、そういうこともあると受け入れてもらいたかった。
胸がぎゅっと痛いほど締めつけられて、弾けてしまいそうだった。ネロからすれば、たった一言、それも些細なことでの発言だろう。しかしその一言で、名前はこれまでの人生で一番、存在を肯定されたように感じた。
「……ありがとう、ございます」
小さな声は、ネロに届いただろうか。震えていなかっただろうか。
本当はネロの顔を見ながらお礼を言うべきだった。これまで亡霊のように名前を呪い続けてきたものを、ネロはその淡い光で払い去ってくれたのだ。しかし、名前はネロを見上げることが出来なかった。涙を流さないよう、堪えるので精一杯だった。
「…………」
ネロの吐息がかすかに聞こえたような気がした。名前はぎゅっと目を瞑り涙を耐える。涙の波が去ってくれれば、もう一度顔を上げられる。はやく、はやくいなくなれ。名前は強く願い続けた。しかし、頭の中ではネロの言葉がずっと再生されているようで、思い出す度に涙があふれそうになってしまう。鼻がツンとしてきて、名前は大きく息を吸った。
「――じゃあ、これからは食いきれそうな量で飯出すよ」
「っ……!」
名前は弾かれたように、だが慎重に顔を上げた。顎から手を下ろしたネロと、目が合った。柔らかいお日さまような、蜂蜜色のピカピカとした瞳が名前を見下ろす。名前は目を見開いた。
風が吹いたような気がした。窓は開いていないのに。柔らかくて、あたたかくて、身体の中をピアノの音のように弾んでいく。
もっとこの人と話がしたい。この人の話を聞いてみたい。この人のことをもっと知りたい。新しいこと、知らなかったことを一つ一つ照らし合わせて、知っていきたい。
トクンと胸は大きな音を刻んでいく。身体の中で響くそれは、名前の身体を熱くさせた。
時間が止まったかのようだった。呼吸も忘れてしまいそうになる。瞬きすらしているのがもったいないと思えるほど、ネロの双眸は綺麗だった。名前の瞳には今、ネロしか映っていなかった。
「――す……あ、ありがとう、ございます」
すみませんと謝りそうになり、お礼に言い換える。名前はできうる限り心を込めて、感謝を紡ぐ。少しでも、自分の心があなたに救われたのだと、気持ちが伝わればと思った。
頬が熱い。沈黙が気まずい。名前は視線を落とす。ロウソクの炎が揺れる音が聞こえてきそうだった。こんなに静かだと、もしかして心臓の音まで伝わってしまうのではないか。指がそわそわと動いてしまう。
「……食えないものとか、ある?」
「えっ……私、ですか?」
「ああ」
ネロの言葉に顔を上げる。突然話を振られてに戸惑ったものの、心の中ではどこか喜びを感じてしまった。まだネロと話が出来ることが嬉しかった。
ネロの声音は淡々としている中に、優しさが込められているようだった。そうだといいという希望も少しだけある。他者に期待することはよくないとわかっていても、この人が優しさの中心にいないのは、勿体ないような気がしてならなかった。
「えっと……お酒と、グレープフルーツがだめです。……グレープフルーツって、この世界にもありますか?」
「同じ名前のものは俺が知ってる限りは無いけど……それ、果物か?」
「はい。柑橘系なんですけど……こう、このくらいの大きさで、皮が黄色くて、中の実がオレンジ色だったり、白色だったりして、酸っぱいです」
「……レモンとか、オレンジに似てるか?」
「えっ、あ、そうです……! 似てます! たぶん、実がそんな感じです。オレンジとかの親戚みたいな……?」
名前は手振りを付け加えながら、知っていることを説明した。説明が下手になってしまい、もっと上手に話せればよかったのにと後悔する。たどたどしい説明に、話しているうちに恥ずかしくなってしまった。しかしネロは、グレープフルーツを想像しながら聞いてくれているようだった。さらには、自分の知っている果物で、似ているような物まで挙げられている。
――料理人てすごい……!
改めて様々な食材を知っているんだと、料理人の実力と可能性に感動してしまう。
ネロとの会話はゆるやかなテンポ出進んでいく。
「オレンジとかレモンは、食っても平気なのか?」
「はい、そこらへんは、大丈夫です」
「そっか。他は? 料理酒とかもダメそう?」
「そうですね……なるべく摂取したくはないです」
料理酒がどの程度の分量で料理に含まれるかはわからないが、摂取しない方がいいのは事実だった。
ネロは再び顎に手を当てて考え込んでしまう。ぶつぶつと話すことは無かったが、料理のことを考えているのだろうというのは察しがついた。
名前がグレープフルーツと酒を摂取できないのは、服薬の問題である。薬と相性が悪いのが、それら二つの食品だった。
しかし、この世界に来てしまった今、ずっと薬を飲み続けることが出来ない。通勤リュックに入れてある常備薬は、せいぜい五日分だった。五日分飲みきってしまった後のことは、あまり想像したくない。主治医もいなければ、薬剤師もいないのだ。服薬の予定はなくなる。今の自分の体調で、薬を飲まなくなるとどうなってしまうのか、名前には容易に想像がついた。しかし、相談できる相手が誰一人いない今、悩みを打ち明けることができずにいた。
――話してみる……?
話の流れで、ネロに相談してみようか。ふと思い立ってみたものの、自ら体調の話をするのは後ろめたかった。話してしまえば、少食の理由も伝えられる。都合は良かったが、気持ちが追いつかない。
せっかく『悪くない』と伝えてくれたのに、それが無かったことにされてしまうような不安感が、名前を蝕んでいく。
「……了解。やれるだけ、やってみるよ」
ネロは顎から手を離すと、ゆるく微笑んだ。夕焼けが海を照らしているようだった。金色の漣が穏やかに波打っている。きっと海の中まで、彼の瞳の色で染まっている。波はきっとあたたかくて、どこまでも浸かっていられそうだ。
ネロはそれだけ伝えて、シンクに向かって歩き出す。残りの洗い物を再開した。それが会話の終了だった。洗い物の水音が、会話を流していくようだった。
――終わっちゃった。
会話の終了に、名前は少しだけ肩を落とす。寂しいと感じてしまった。今まで生きてきて、人と会話が終わることが寂しいだなんて思ったことないのに。ネロに出逢って、初めて『寂しい』という感情を、名前は味わっている。
胸にぽっかり穴が空いたような、身体に力が入らないような、何をしたらいいのかわからない感じ。
――これが、『寂しい』?
胸に空いた穴はどうしたら埋まるんだろう。考えてすぐに、名前は答えを導き出せた。この穴は、ネロならなくせるのかもしれない。彼のおかげで、寂しさは埋まっていくのだろう。
――じゃあ、今まで寂しくなかったんだ。
ネロに出逢うまでは、寂しくなかった。名前の胸は高鳴っていく。体調が悪かった時も、自分を責めていた時も、一人でいた時も寂しくなかった。仕方がないと自分を受け入れていた。しかし、ネロと出逢って、言葉を交わして、優しさを受け取って、名前は寂しさを知ってしまった。
――なんか、変。
胸の鼓動は収まらない。胸に手を当てて抑えようとするが、結局収まることは無かった。それどころか、ネロのことばかり考えてしまう。
――部屋に戻ろう。
名前は厨房を離れることに決めた。ここにいても、ネロと話すことはもうないだろう。ずっと居座ってしまえば、ネロに迷惑をかけてしまう。
無言で居なくなるよりも、挨拶をした方がいいだろう。まるで会社にいるような感覚だったが、声を掛けてから退室することにした。
「失礼しま――」
「名前ちゃん、みーつけた!」
「みーつけた!」
ネロへの挨拶は、突然現れたスノウとホワイトによってかき消されてしまう。トコトコと駆けてきたスノウとホワイトは、にこにこと上機嫌だった。名前の涙袋はピクリと動いた。
「スノウさん、ホワイトさん」
「名前よ、探しておったのじゃ」
「劇的ビフォーアフターじゃ!」
「えっ?」
聞いたことのあるフレーズに、名前は固まってしまう。それは昔放送していたテレビ番組の名前だった。
「なんでそれを知ってるんですか?」
「ほう、名前も知っておるか」
「前の賢者から教わったのじゃ」
「部屋を大改造するやつでしょ?」
「何と言うことでしょう、でしょ?」
スノウとホワイトがくるくると名前の周囲を回りながら、知識を披露する。名前はすばしっこい二人よりも、『前の賢者』という言葉が気になって仕方がなかった。
――賢者は、入れ替わるもの?
賢者という存在をしっかりと教わってはいない。晶の様子から、魔法使いから慕われていること、何やら仕事があるということだけ予想していた。
スノウとホワイトの言う『前の賢者』は、十中八九、日本に住んでいた人だろう。賢者という役目が、さらに謎めいてしまった。名前は頭を抱える。
「あら、頭痛い?」
「具合悪い?」
「……大丈夫です」
この世界に来てからまだ一日経っていないのが不思議すぎる。すでに名前の脳はキャパオーバーを起こしていた。これ以上何か刺激になることが起きてほしくないと、強く願うばかりだった。
「早速部屋にレッツラゴーじゃ!」
「レッツラゴー!」
「待っ……!」
名前はスノウとホワイトに腕を引かれ歩き出す。人形のような細い腕に見合わない強さで引かれ、名前はつんのめってしまった。転ばないよう気をつけながらたたらを踏むと、そうだと思い出して厨房を振り向く。
「ね、ネロさん! ありがとうございます……!」
スノウとホワイトに引きずられながら、名前は厨房を後にした。
ネロとの関係が気になるのか、二人はキャッキャッと笑いながら名前を茶化す。しかし、名前はそれどころではなかった。
――名前、呼んじゃった。
大丈夫だっただろうか。赤の他人に名前を呼ばれてしまって。逆に失礼には当たらなかっただろうか。ドキドキと鳴り響く心拍が、名前の頬を熱くさせる。
背中にかけられたお礼に、ネロが振り返って目を見開いたことを、名前は知る由もなかった。