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名前は、自分自身ができていない人間だと考えている。
元々の能力は高く、何事もそつなくこなすことができていた。物事の摂理のようなものを理解すること、他者の感情の起伏や考えていることを推察することに長けており、コミュニケーションも良好に取ることができた。容量の良さから与えられた仕事以上の成果を出すことが出来たし、誰も気づかない些細な事柄に気づいたりもした。
しかし、それは病に侵されるまでの話である。体調が悪化してからというものの、名前はできていたことが、丸っきりできなくなってしまった。
体調が酷い時は、文字を目で追うことも出来なくなり、映像や動画も見続けられなくなってしまった。すべてのことに興味が薄れ、身体が鉛のように動かなくて、ベッドから出ることすらままならない。布団の中で闇が続いているのを息を潜めて眺めていた。
思考は波のように揺れ動き、その時々の気分によっては、自己嫌悪と自己否定の嵐が起きていた。上手くいかないことはすべて自分がいけないものだと判断し、責めて、責め続けて、最終的には自死しかないのだと結論づける。行動に移すことは無かったが、何か一つでもできないことがあると、『死ぬしかない』といった思考が働いていた。
主治医の診察も苦痛でたまらなかった。できないことを認めること、それを他者に伝えることは、ただただ名前を苦しめた。しかし、それを行わないと薬は貰えない。薬を貰わなければ、苦しい状態が続く。自分の身体に合う薬と出会えるまでは、自分との闘いがただひたすら続いていた。
名前が自分を持ち直すことが出来たのは、向き合うべき相手を正しく理解しようと決めたからだった。病気のこと、特徴や対応策など、名前はあらゆる媒体を使って理解に務めた。受験勉強のようなそれは、いつしか名前に傾向と対策を熟知させていく。すると、苦しい境遇にいる時、一瞬だけふと我に帰ることが出来る。その一瞬で、勉強したことを思い出すことが出来た。
――これは私の人格の問題ではなく、脳に問題が発生しているからである。
そう考えられただけで、名前は再び冷静さを手に入れられた。脳が病に支配され、否定的な思考に侵食されていくのを、止めることが出来た。すぐに止まらなくても、時間をかけて落ち着きを取り戻し、客観的に物事を見られた。薬の効果もあり、気分が酷く落ち込むことは次第に無くなっていき、重たい疲労感も軽減していった。
生活リズムが少しずつ整い始め、起床と就寝、そして食事の時間が固定化されていくと、生活を送りやすくなっていく。就寝時間や疲労度など体調の記録をつけ始めるようになると、自分を振り返ることが出来てくる。対策を考えやすく、工夫もしやすい。名前はそうやって、自分の体調と付き合う術を覚えていった。
名前はゆっくりと線をなぞるように、スノウとホワイトに、自身の体調について語った。以前から心身ともに体調を崩しており、病院に通って薬物治療をしていること。それでもストレスなどから病態が悪化することがあること。いま持参している薬は五日分ほどしかなく、服薬を止めると病状悪化が懸念されること。
スノウとホワイトは一言も挟まず、耳を傾けてくたれた。過度な反応がない分、名前は事実を打ち明けやすかった。これで慰めのような言葉がかけられてしまったら、たぶん耐えられなくなるだろう。
「よく話してくれたな、名前よ」
「うむ、頑張ったのう」
スノウとホワイトの小さな手のひらが、名前の頭に触れる。優しく頭を撫でられて、名前は再び泣き出しそうになってしまった。頭を撫でられるのだなんて、何年ぶりだろう。スノウとホワイトのその手つきは、まるで親のようにあたたかく名前を労った。
「すみません、私が、体調が悪いから……結界が……」
名前は俯いた。こんなに優しくしてくれる人々に対して、充分に役に立てていない自分が情けなかった。運命のいたずらのような出来事だったが、自分にしかできないことならば果たしたいと考えてしまう。衣食住の恩もあったし、見ず知らずの自分に優しくしてくれた人々もいる。彼らのためになれるのならという考えが、名前の心の根底にはあり続けていた。
頭から小さな手が離れていく。名前は自然とその手を視線で追った。スノウとホワイトは朗らかな表情を浮かべていた。
「解決策はある」
「えっ……?」
「そうじゃ、解決策はまだ残っておる」
「でも、私……」
現状を打開する方法が、本当にあるというのか。いくら魔法使いで、様々なことを知っているスノウとホワイトでも、不安感は拭えなかった。
体調不良は変わりようのない事実で、病は寛解することはあっても再発の可能性は充分にある。病態は、一歩進んでも二歩下がるようなことが多い。着実に寛解に向かっていても、ストレスや環境の変化などにすぐ影響されてしまうのだ。
「身も心も弱っているのなら、強くなればいいのじゃ!」
「治していけばよいのじゃ!」
まるで名案とでもいうように、スノウとホワイトは腰に手を当てて宣言した。エッヘンと自信満々な顔はふくふくとしていた。
「治していくといっても……主治医はいないですし」
この世界の医療がどこまで発達しているのかはわからないが、科学技術を見ている限り、元の場所の医療の方が最先端だと想像される。医療先進国という名を今更になって誇らしく思ってしまう。また、この世界でどの程度、精神疾患についての理解や治療が進んでいるのかもわからない。
精神の不調は、人体と切っては切れぬ関係にあるため、この世界にも自分のような体調不良が起きている人がいてもおかしくはない。けれど、そういった人々は差別や区別の対象になりやすいのだ。名前の元いた場所でも、法改正や正しい医療知識の拡散、当事者たちの声により、社会での知名度などが上がり、一般人の間にも病名などは知られるようになってきた。だが、未だに一部の人からの差別的な言葉や考え方による横暴な振る舞いは、後を絶たない。
ーー主治医よりも劣悪な医者だったら嫌だな。
医療に携わるものはきちんと教育を受けており、患者への対応の仕方も熟知しているはず。しかし、もしも期待が裏切られ、傷つくようなことがあったら。名前は耐えられる自信がない。
「心配せんでもよい。ここの医者は信頼してもらっても大丈夫じゃ」
「ここにも……お医者さんがいるんですか?」
スノウとホワイトはにっこりと笑う。
「我らには優しーい南のお医者さんフィガロちゃんがいるもんね!」
「フィガロちゃんは名医だもんね!」
「……フィガロ、さん?」
名前は記憶を遡る。確か、談話室にいた気がする。冬の海のような髪色に、何色か色が混ざったような不思議な瞳。声が低くて、白衣のようなものを肩にかけていて、雲のような雰囲気の人。ネロとは違った、一歩引いたような姿勢が印象に残っている。
「談話室にもいた方……ですよね?」
「そうじゃ。フィガロは医者で、南の国の先生をしておる」
「南の国では診療所を構えており、住人から引っ張りだこだったそうじゃのう」
南の国がまだどのようなところなのかはわからないが、その国の先生ということは、魔法使いとして強いか偉いということになるのだろうか。おまけに医者ときている。
――こんなにポンポンうまいこと進んでいいの……?
運が良すぎるの一言では解決できないほど、名前の境遇は恵まれている。なにか裏があるのでは。とっさに考えてしまったが、それは名前が、この魔法舎に張ってある結界に必要不可欠な存在であるがゆえである。つまり、システムへと正常に組み込むために必要な過程である。そこに情けなどはないのかもしれない。
――それでも、嬉しい。
スノウとホワイトが、晶とカナリアが、そしてネロが、心を傾けて自分のことを考えてくれたこと。優しさを分けてくれたこと。その時間も、瞬間も、一人孤独にこの世界を生きる可能性のあった名前にとっては、感謝してもし尽くせないものである。
「ありがとうございます……色々と、話を聞いたり、対応してくださって」
スノウとホワイトはキョトンとした顔をする。話の流れ的にも今がお礼のタイミングではなかった。しかし、名前はいま伝えたかった。
「なんで私が媒介なんだろうって、考えたんです。それでも答えは出なかったですが……。でも、魔法舎にいる皆さんが優しくしてくださったから……自分ができることは、したいなって思えました」
たとえできないことが多くても、魔法が使えなくても、何か彼らのためにできることがあるのなら、自分は尽力したい。それが、名前が導き出した答えだった。
「良い子じゃのう」
「良い子じゃのう」
「わっ」
スノウとホワイトは再び名前の頭をなでる。しかし先ほどと違うのは、どちらかというと撫で繰り回すような手つきだということ。「おお、よしよし」と撫で回す双子に、名前は動物になった気分になる。
「そうと決まれば、早速フィガロちゃんじゃな」
「うむ。ここに呼び出してもよいが、あやつの部屋に行く方が後々のためであろう」
スノウとホワイトは目配せをしてすぐに予定を決めてしまった。魔法でパッとティーセットを消してしまうと、名前の両手を掴み立ち上がらせる。
「そうと決まればレッツらゴーじゃ!」
「レッツらゴーじゃ!」
「あ……はい」
まだ飲み途中だった紅茶が瞬く間に消えてしまったことが、少しだけ空しかった。
スノウとホワイトに連れて行かれたのは、魔法舎の一階だった。少し歩けば厨房がある。名前はそれだけでソワソワとしてしまう。もう一度、姿を見かけられたら。あの淡い世界が視界の端っこに現れたらどうしよう。名前は数瞬間だけそのことについて考えを巡らせてしまった。
――いけない、しっかりしなきゃ。
名前は軽く頭を振って現実に思考を戻す。今は、フィガロに会うことが重要なのだ。
廊下を進んでいき、スノウとホワイトがとある扉をノックをする。
「フィガロちゃーん!」
「フィガロちゃーん!」
スノウとホワイトは楽しげに繰り返しノックをしている。二人分のノックは、リズムを刻んでいるように軽快だった。双子はわざとやっているようで、徐々にノック音は強くなっていく。
――雪だるま作ろう、だ。
名前の脳内にとあるアニメーション映画の映像が流れ始める。ミュージカル映画でもあるそれは、扉をノックしながら一緒に遊びたい気持ちを歌にして届けていた。
「フィガロちゃーん、いるのはわかっておるぞー!」
「フィガロちゃーん、いい加減出てくるのじゃ!」
――居留守つかってるの……?
部屋に誰もいない可能性は充分にある。しかし、スノウとホワイトは、フィガロが部屋にいることを確信している様子だ。双子はわざとやっている。そして、フィガロはどうやら居留守を使っている。
――忙しいのかな、それとも仲が悪い……?
名前は様々な想像を巡らせてしまう。フィガロは医者で先生と話していたし、役目が多い分、なにかと忙しそうだ。けれど、もしも双子と仲が悪いのなら、この魔法舎で共同生活をするのは大変なのではないだろうか。
名前が考え込んでいるうちにも、スノウとホワイトの圧は強くなっていく。なにやら歌い始めているし、ノックはさらにリズムを刻んでいる。
「あの、その辺にした方が……」
名前が制止をかけようと声を上げたのと、扉が開いたのはほぼ同じタイミングだった。
「――いい加減にしてください」
フィガロは困ったような、嫌そうな表情で顔を出した。
「なんじゃ、起きておったか」
「残念、起こしてあげようと思っていたのに」
「起きていることくらい知っていたでしょう。この間の任務の報告書に追われていたんですよ」
ケロッとしているスノウとホワイトに、フィガロは重たいため息をつく。ため息が切れそうになる頃に、フィガロの視線が名前に突き刺さった。ドキリと名前は背筋を伸ばす。スノウとホワイトは背が低いため、隠れるところなどなく、名前は一身にフィガロの視線を受け止めた。
「すみません、お忙しいときに」
日を改めてもよかったのかもしれない。スノウとホワイトの行動力には目を見張るものがあるが、相手の都合との折り合いもある。名前は申し訳なさからフィガロに頭を下げた。
「いいや。何か用かな? その様子だと、スノウ様とホワイト様に連れてこられたんだろう」
「あっ……はい」
フィガロにはお見通しらしい。名前は驚きのあまり頷いてしまう。すると、スノウとホワイトは抗議の声を上げた。
「フィガロちゃんひどーい!」
「一緒に来たんだもんねー!」
「大方、お二人が無理矢理連れてこられたんでしょう。わかりますよ、そのくらい」
双子が頬を膨らましているのは、容姿の整いからも絵になる光景だったが、フィガロは肩をすくめて半笑いだった。
――スノウさんとホワイトさんは、やっぱり偉い人なのかな?
フィガロの言葉遣いが引っかかる。『様』と敬称をつけたり、『お二方』と敬意を払ったり。名前からすれば、医者で先生をしているフィガロも偉い位置にいそうだ。しかし、それよりもさらにスノウとホワイトの方が権威があり、敬意を払う存在なのだろうか。
――そういえば、みんな何歳なんだろう。
見た目の年齢は、スノウとホワイトは少年よりも少し下、フィガロは名前よりも数歳年上に見える。ネロやミスラも二十代に見えた。魔法を使える彼らの正確な年齢を、名前はまだ教わっていなかった。けれど、スノウとホワイトの口調や物腰の穏やかさ、神々しさに似た様子は、見た目の年齢に不相応である。
――見た目の年齢と、生活年齢は相対していない?
それならば、彼らの容姿と言動のちぐはぐさがしっくりくるような気がした。人に年齢を聞くだなんて、相手は男性だから幾分かは聞きやすさがあるものの、やはり容易には質問できない雰囲気がある。
――仲良くなったら教えてくれるかな。
仲良くなれるかは名前の努力次第な部分もあるが、少なくとも、親しくなれば年齢の話も出しやすいかも知れない。晶ならば知っているだろうが、こういったことは他者から聞くよりも、直接本人に聞いた方がよい気がしていた。
「それで、本題はなんですか?」
「よくぞ聞いてくれたのう!」
「その言葉を待っておったぞ!」
キャッキャッと可愛らしい声をだした双子は、陽が落ちた静けさをまとって真っ直ぐにフィガロを見上げた。
「フィガロよ、そなたに重要な任務を伝えようぞ」
「そなたにしか頼めぬことじゃ」
スノウとホワイトの雰囲気ががらりと変わる。従わなければならない。ただそれだけの強制力のようなものを、双子は持っていた。ぞわりと肌を駆け上がるものがあり、名前は静かに片腕で身体を抱く。
「……わかりました。ここでは何ですから、入ってください」
フィガロは双子よりも静かに囁いた。そうすることが当然であるかのように、部屋に招き入れる。スキップしそうな軽い足取りの双子に続いて、名前も入室する。
フィガロは魔法でパッと椅子を出すと、そこへ客人を通した。名前は最後に腰を下ろす。
「それで? 重要な任務というのは?」
「薄々気づいておるじゃろう」
「おぬしは昔から察しが良いからのう」
「彼女を連れてきたんです。概ね、結界関係のことでしょう。結界の綻びはなくなりましたが、強化はそれほどされていない。その原因は、彼女にある」
「っ……」
フィガロからハッキリと原因だと伝えられ、名前は息を呑んだ。ミスラに事実を伝えられたときよりも、鋭利な刃物のような鋭さがある。
「これ、言葉を選ばぬか」
「名前ちゃんごめんね、この子昔からこういうところあって」
「あ、いえ……事実なので……」
「……へえ」
スノウとホワイトに返事をすると、フィガロは目を丸くしていた。名前が首を傾げると、にこやかな笑顔を浮かべる。
「いや、自分の立場をわきまえているんだなって思ってね」
それは自分に言っているのだろうか。主語がないため名前は自分に言われているのだと気づくまでに時間を要したが、フィガロの眼差しは自分に向いている。
「スノウさんとホワイトさん、あと、ミスラさんに教えてもらったので……」
「へえ、ミスラも。珍しいこともあるもんだね。まあでも、あいつなら言うだろうね」
フィガロは空を眺めるように視線を動かす。その視線の先が名前は気になったが、特に何もないことは最初からわかっていた。
「それで、俺は何をすれば良いんです」
フィガロはスノウとホワイトに顔を向ける。疑問文ではなく言い切った彼の言葉から、協力させられることは目に見えているようだった。名前は申し訳ない気持ちで胸がつまりかける。
「フィガロよ、そなたには名前の治療を頼みたい」
「名前の心身が回復し、安定すれば、結界も強化されるじゃろう」
「なるほど……」
スノウとホワイトの言葉に、フィガロは一言だけ返す。この人は、一つ言われれば十のことを理解することができるのだろう。賢さからか、経験から来るものなのか。スノウとホワイトの言葉から、どうやら昔馴染みなのかもしれない。それならば、両方なのだろう。
――仕事ができそうなタイプだな。
名前は思わず考えてしまう。フィガロのようなタイプは、要領よく仕事も進めて器用に他者とコミュニケーションを取っていそうだ。
「拒否権はないんでしょう」
「当然じゃ」
「当然じゃ」
「……よろしくお願いします」
にっこりと笑うスノウとホワイトの隣で、名前は頭を下げた。
「わかりました」
やっかいごとを押しつけられたとでも言いたげな表情で、フィガロは返事をする。「さすがフィガロちゃん!」と双子が褒めている中、名前は素直に喜べないでいた。
スノウとホワイトは、フィガロに頼むだけ頼むとあっさりと退室していった。この後も一緒にいてくれた方が、名前は不安にならずに済んだ。
「じゃあ、早速始めようか」
「よろしくお願いします」
フィガロと二人きりで話をするのは初めてだった。まともに会話をするのもこれが初めてだろう。談話室にいたときは、名前とフィガロというよりも、媒介と魔法使いといった構図だった。
フィガロはどこからかカルテのようなものを取り出して、記入を始める。
「いろいろ質問していくから、答えてね。まあ、前にいた世界で医者にかかっていたのなら、慣れてると思うけど」
「っ、はい」
にこやかな笑顔でフィガロはツンとしたことを告げる。これが彼の話の作法なのだろうか。一言多いような言い方が鼻につくことはなく、まるで確認作業をされている感覚だった。
フィガロの質問は、氏名、生年月日、年齢、血液型から始まり、名前は淡々と答えていく。問診票に記入する内容を口頭で行うのは、少し新鮮だった。既往歴の内容にさしかかり、名前は少しだけ長く話すことになる。幼少時に罹った疾患について、この世界と病名が違うこともあるため、症状をできるだけ正確に伝える必要があった。
「妊娠、出産の経験は?」
「ありません」
「月経の周期は?」
「平均で二七日程度ですけど……その月によって若干の変動があります」
「そう。月経痛は? どの程度?」
「……酷いときは起き上がることも出来ない時が多くて。市販薬は効かないので、病院で鎮痛剤をいくつかもらって、月経の度に飲んでいました」
「なるほどね。月経時にも鎮痛薬が必要か」
フィガロはさらさらとカルテに記入していく。書いている字は、名前の席からは見えなかったが、日本語よりも流れるような筆跡で記入していた。もしかしたら、使っている文字も違うのかもしれない。
「それじゃ、本題に入ろうか」
「は、はい」
「緊張する必要はないよ。今のように質問に答えれば良いだけだから」
「……はい」
フィガロの言葉に甘えたい気持ちもあったが、名前はまだ踏ん切りがつけないでいた。スノウとホワイトに体調について打ち明けられた時は、必要に迫られたことと、感情の波に流されてしまったことが重なり合っていた。今と状況は違っている。名前は冷静で感情に流されずに話せているし、スノウとホワイトと話したときのように切迫感はない。
「俺は医者だから、別に君の病態について悪く言うことも、後ろ指をさすようなこともしないよ」
「え……」
「医者として質問しているだけであって、結界が強化されていないことについて、とやかく言っているわけではないってこと。結界を強化するだなんて、スノウ様とホワイト様が勝手に言い始めて付き合わされたという方が正しい。まあ、利点があるから賛同したんだけど」
フィガロは、文字を書いているようにさらさらと話を続けた。理屈っぽい話の進め方だったが、名前は自分の見えなかった世界の情報を整理することが出来た。
名前の不安は、結界の強化がなされていないことについて、魔法使いの彼らが何か反感を持っていたりすることにあった。ミスラやスノウとホワイトはその様子は見られなかったものの、他の魔法使いは違う可能性だってある。『お前のせいで結界が強化されない』と言われることを、名前はずっと恐れていた。
しかし、フィガロの話を信じるならば、どうやらそうではないかもしれないと希望が沸いてくる。
「えっと、上手く話せるかわからないんですけど……」
「大丈夫。詳しく聞きたい時は質問するから。それでいいかな?」
「はい。実は――」
名前はゆっくりと、言葉を選びながら語り始める。フィガロは医者であるから、何も隠す必要がなく、むしろ隠す方がよくないのは、名前も理解していた。そのため、初めて発症し、診断名が下りた時のこと、その後の病態について、どう回復していったかを話した。スノウとホワイトに話した時よりも詳細に、専門的な話題も踏まえて、名前はフィガロに伝えていく。
フィガロは話を聴きながら、カルテに書き込んでいく。部屋の中は、名前の声と、フィガロの筆跡音の二つが響いていた。
話は現在の症状に移っていく。疲れやすさ、思考の問題、味覚障害について。何度も経験しているから、ある程度の対策は講じやすいものの、やはり症状に支配されそうになることもある。そして、処方されている薬の話題に変わっていく。現在持ち合わせているのはせいぜい五日分ということ。一つ一つの薬の効用についてと、一日に何回、何錠服用しているか。
話し終えた頃には、名前は息切れを起こしそうになっていた。
「……なるほどね」
「すみません、長々と……」
「いいや、状態像がよく見えたよ」
たくさん話してしまった。名前はくらりと目眩を起こしそうになる。話したことが役立つのなら嬉しいことこの上ないが、これほど自分のことを話したのは、前にいた場所でもそうそうなかった。もちろん、元主治医の初診の時ですらない。
「いま聞いただけでも数種類の薬が必要だね。いま飲んでいるのになるべく近いものを出せるようにしよう」
「えっ、できる、んですか……?」
「俺を誰だと思ってる?」
「南の国の先生でお医者さんのフィガロさん?」
「よくわかってるじゃないか」
フィガロは羽根ペンをカルテの上に置き、名前に顔を向ける。乾いた風の吹く草原のような茶色が混ざった薄い緑色と、曇り空の混ざった瞳に見つめられて、名前はドキリとした。心の内まで見透かしてきそうな双眸に、名前は目を逸らしたくなったものの、それは叶わなかった。
「今すぐに薬は用意できないけど、君の持っている常備薬が無くなるまでには、何とか用意しよう」
「あ、ありがとうございます」
「ま、副作用とかもあるから、一概に『なるべく近いもの』とは言えないだろうけどね」
「それでも、助かります……ありがとうございます」
「…………」
名前は胸を撫で下ろす。良かった、薬の問題は解決できそうだ。これで衣食住に加えて体調の問題は解決の見込みがたち、さらにそれは巡り巡って魔法舎の結界強化に役立っていく。良い循環が巡り始めてた気がした。
「これは提案なんだけど」
「? はい……?」
フィガロは一旦言葉を切る。名前はフィガロを見上げて首を傾げた。フィガロの笑みが深くなる。
「俺なら、君の精神に作用する魔法をかけて、気分が落ち込まないようにしたり、こっちがコントロールする魔法をかけてあげられるけど」
「えっ……?」
名前は一瞬、何を言われているのかわからなかった。突然切り出された話題についていくことができない。
――魔法で? コントロール? 精神に作用する魔法?
フィガロの言葉は、衝撃的だった。そんなこと、不可能に決まってる。元いた場所ならそう言い切っていた。しかし、ここは魔法が実在する世界。他者をマインドコントロールするような魔法は、あるのかもしれない。
「どう? 君にも悪い話じゃないんじゃない? ずっとそのままじゃ、苦しいでしょ?」
フィガロは首を傾げる。浮かべている表情は清々しいほど爽やかな微笑みだった。
――この人は、残酷なことも笑顔で言えるんだ。
名前の心がすうっと冷たくなっていく気がした。今はまだ、この世界の誰かを信用と信頼する段階にはないのかもしれないけれど、今回フィガロと話したことが、その足掛かりになるのではないかと感じていた。しかし、フィガロの言葉は、初対面にも似た現在行うやりとりとしては重く名前に伸し掛る。
悪意のないフィガロの表情が、名前を混乱に来たしていた。あくまでもフィガロは提案しているだけであり、それもこちらを慮っているだけなのだ。その言葉に強制力も支配力もない。ただの善意とも言える。
――難しい人だな。
きっと、優しくて頼れる人だ。色んなことを知っていそうだし、道標にもなってくれそう。しかし、フィガロの期待に添えない自分と、いつか対峙してしまいそうな怖さがひっそりと忍び寄ってくるようだった。
「……お話は、ありがたいんですけど」
名前は言葉を選びながら話を切り出す。感じたことと、脳内で考えた言葉の端っこが少し違っていて、舌に乗せる時に動きが鈍りそうになる。
「……私の心は、私のものでしかないので。誰かに影響を受けることはあっても、あくまで主導権を握って操作するのは、私の脳です」
きっと、根気強く治療を続けるよりも、フィガロの提案に乗った方が、ずっと良い。それは魔法について全くわからない名前でも理解出来た。
「病気になって、これまでの人生とは、生き方が少し変わりました。気をつけないことも増えたし、自分のことを常に客観的に見ていかないと、体調の変化に気づけないこともあります。それでも……」
病気になって後悔したことは星の数ほどある。健康が羨ましくて仕方がなかった。なぜ自分がと繰り返し自身を呪った。
――それでも私は……。
名前は深く息を吸って吐き出す。身体に充満していく空気が、背中を押してくれた気がした。
「それでも、病気になっても、私は……私です」
「…………」
フィガロはぽかんとした表情を浮かべていた。目を丸くして、美しい瞳がつやつやと光っている。
名前が出した答えは、きっとフィガロの期待には添えない。きっと、誰も期待していないものだ。けれど、名前は自分が長い間苦しんで出した答えが、自分の最善であり、真理なのだと感じていた。
「だから、その提案には頷けません……ごめんなさい」
名前はゆっくりと頭を下げる。
フィガロが眩しそうに目を細めて、つまらなそうな顔をしていることに、名前は気づかなかった。もしかしたら、気づかなくて正解だったのかもしれない。