1-1-9
フィガロの初診を終えて、名前は自室に戻った。薬の用意ができ次第、名前はまたフィガロの診察を受ける予定になっている。
ふらふらと五階まで階段を登りきった頃には、名前の元気は無くなってた。自室に着くなりベッドにぼふんと体重をかけて、そのままごろんと横になる。
「つかれた……」
一日のうちに目まぐるしいことが起こりすぎだった。
「わけわかんないな……」
一日を振り返る。通勤していて、光が視界を奪って、目を開けたら魔法使いのいる世界だった。魔法使いに囲まれて、あれよあれよという間にこの世界についての説明を聞かされ、それを理解する以外の選択肢はなかった。結界を強化するための媒介という、よくわからない役目を担わされて。
「……つかれた」
口からは疲れたという言葉しか漏れてこない。身体がずっしりと重くてだるい。
幸運なのは、衣食住の心配がないこと。主治医による診察があること。そして、悪い人たちではなさそうなことである。
「魔法使いって言ってたけど、ただの人じゃん……」
名前には魔法使いと人間の区別がつかなかった。ここに来たばかりの頃は、魔法使いは得体の知れない存在というイメージが強かったものの、言葉を交わしていくうちに、魔法を垣間みるたびに、そのイメージは覆されていく。魔法が使えるだけで、彼らにも心があり、思考する脳もある。人間となんら変わりのない存在というのが、名前の出した結論だった。
「ねむ……」
名前の意識は次第に沈んでいく。身体と意識を受け止めてくれるベッドは、名前の自宅のベッドよりも柔らかく、名前を包み込んだ。
深く沈み込んだ場所から、少しずつ意識が意識が浮上する。ゆっくりと瞼をあげると、元の場所の自宅ではなく、魔法の世界で宛てがわれた自室だった。
――あれ、寝ちゃったのか。
どうやらあのまま寝てしまったらしい。何も掛けずに寝てしまったため、ぶるりと体が震える。
名前は起き上がり、目尻をやさしく擦る。仮眠が取れてスッキリした感覚のある反面、まだ充分に意識が覚醒していないようで、ぼんやりとしてしまう。
名前は立ち上がってカーテンを捲った。外はもう真っ暗で、空には〈大いなる厄災〉が月とは言い難い明るさで光っている。
ずっと見ていると、不思議な気分になりそうで、名前は早々にカーテンを締め切った。自分が自分でない何者かになってしまいそうな怪しさを、〈大いなる厄災〉は秘めているようだった。
月の位置で時刻が分かればよかったものの、現代を生きてきた名前にその術はない。室内に時計はなかったが、スマホで時間を確認してみる。時間が正確にあっているのかは分からなかったが、夕飯時はとっくに過ぎていた。
「……薬飲まなきゃ」
名前の心配は、食事よりも薬が先にくる。空腹はあまり感じていなかった。しかし、服薬するには、胃に何か入れなければならない。
――ネロさん、いたりするのかな。
食事を取りに行くには、厨房に入らなければならない。それはつまり、ネロと出くわす可能性があるということ。彼のことだから食事を用意してくれているかもしれない。
「悪いことしちゃったな」
食事の時間に現れない名前に、何を感じただろうか。迷惑をかけてしまった。一人分残しておくだなんて、手間をかけさせた。
名前はスマホを机に置き、部屋を出る。廊下は明かりが灯っていたものの、夜だからか薄らと暗くて静かだった。内装も相まって、灯りがなければ幽霊が出てきそうな雰囲気である。
トン、トン、トン。名前の靴の音が階段に響く。できるだけ慎重に足を運んでいるが、靴音は楽器のように天井に反響していた。五階もある階段を、名前はこの一日だけで数回登ったり降りたりした。それだけで身体が鍛えられたと思ってしまうほど、階段は長く、名前は体力を奪われていく。
階段を一段ずつ降りていくたび、階が変わるたびに、名前は緊張を帯びていく。もう少し歩いたら、厨房に着いてしまう。
――ネロさん、いたらどうしよう。
ネロがいなかったとしても、誰もいない勝手もわからない厨房で食料を探すのは難しい。しかし、ネロがいても難しそうな気がしていた。
――ちょっと、気まずい。
昼食時を過ぎた頃、ネロの名前を呼んでしまった。料理の適量についての話をしてしまった。配慮してくれることを伝えてくれた。それらの出来事が、名前の中で一言では表せない感情を呼び起こす。
ネロの、あの淡くて儚くて優しい世界をまた、見られるのなら嬉しい。ネロと会えば、この胸にぽっかりと空いたままの穴は、再び埋まるに違いない。
――出逢ったばかりなのに。
おかしい。今日初めて会ったのに。まともに挨拶もできていないのに。それでも言葉を交わして、優しさを感じてしまった。味が分からない相手なんて面倒なはずなのに、真摯に向き合ってくれた。
――変なの。私、絶対変だ。
嬉しくて、恥ずかしくて、でも近くにいられたら幸運だと思ってしまう。こんなこと、今まで一度もなかった。友人などに会う時、嬉しい気持ちになることはあったが、同時に恥ずかしさを感じたり、近くにいられるだけで、なんて、考えたことがない。
――しっかりしなきゃ。
きっと環境が目まぐるしく変わったから、優しいネロに甘えたくなっているだけだ。ネロの迷惑になることだけはしたくない。まだお互いのことを何も知っていないのに、彼に希望を抱いて期待なんかすることは良くない。
名前はネロと会った時に、自分の気持ちが顔や態度に出ないよう、注意しようと心に決める。会ったばかりで何も知らない人間から、期待されるのはきっと、うっすらと怖い。苛立ちもするだろうし、気持ち悪いと思われるかもしれない。
名前の脳裏には、あの優しげな色を持つ眼差しのネロの瞳が、負の感情を抱いてこちらを見つめてくる姿が浮かび上がる。実際にはまだ見たことがなかったが、想像しただけで足がすくみそうになってしまう。
――気をつけよう。
名前は再度決心する。初対面の時、食堂で感じた、ネロの引いた一線を越えないように。なるべく彼に迷惑がかからないように。
考えに没頭しているうちに、名前の足は一階の床を踏んでしまった。ここまで来てしまえば、厨房は目と鼻の先である。名前の心臓はドキドキと細やかな痛みで締め付けられる。これが緊張から来るものなのか、それともまた別の気持ちから来るものなのかは、名前にはわからなかった。
「あっ……」
厨房の扉は開けられている。そこから廊下がぼうっと明るくなっている。厨房から明かりが漏れているのだ。
――誰かいるんだ。
誰かと考えつつも想像できたのはネロの姿だった。こんな夜更けにまだ厨房にいるだなんて。洗い物が残っているのだろうか。それとも翌朝の準備をしているのだろうか。どちらにせよ、名前は気を引き締めた。
ゆっくりと厨房に近づく。足音が鳴らないよう注意を払ってしまうのはなぜだろう。今から厨房に入るというのに、気づかれたくない気持ちがまだ自分の中で燻っている。
名前は厨房の入り口で足を止めた。名前の陰はすうっと廊下に伸びていく。ネロがキッチンに向かっている後ろ姿が視界に広がる。その瞬間、夜であるのに名前の目に映るものは鮮やかに映し出される。ロウソクの灯りが淡く厨房内を照らし出し、ネロの背中を大きく見せる。
名前は数回小さく深呼吸をする。そのたびに心臓はドキドキして止まなかったが、声をかける勇気は少しだけ沸いてくる。心の準備が整い、名前は意を決して声をかけた。
「あの、すみません……」
名前の声は小さかった。ネロが作業をしていて気づかない可能性があった。ネロの背中まで声は届くことなく、名前の数歩先の床に落っこちてしまったようだった。これが会話のキャッチボールなら、ボールはネロに届かず失敗である。
「――ああ、あんたか」
ネロは振り返った。手を止めて、名前の方に顔を向けてくれた。
――届いた……!
ボールは届いていた。ネロはしっかりと受け止めて、投げ返してくれた。名前の胸は高鳴っていく。まるでピアノの高い音が弾むように音色を奏でている。そんな高揚感と幸福感が名前の心に広がっていく。
「すみません 、こんな時間に。……何か食べられるものありますか?」
真っ直ぐにネロを見つめるのは恥ずかしくて、名前は顎を引いて見上げるように視線を送る。身体の前で手を組んだ。手のひらにはうっすらと汗をかいていた。
「ちょうど、少しだけ残しておいたんだ。食うだろ? いま温めるよ」
「っ! ありがとうございます……!」
「そこ、座ってて」
名前はネロから促された椅子に座る。ネロは鍋を温め始めた。会話はなかったが、名前は不思議と気まずくはなかった。ネロの背中を眺めつつ、色づいている淡い世界に身を委ねる。
――これが、ネロさんの優しさの色なのかな。
様々な淡い色が混ざり溶け合い、けれど汚い色ではなく、色同士が共存しているような、儚くて胸が詰まりそうになるけれど、それすらも心地よい。視界全部が巨大なキャンバスのようだった。
――あ……。
名前は胸に手をやる。日中感じた、胸にぽっかりと穴が空いてしまったような感覚。それが、今は感じない。名前は厨房にやってきて、満たされていた。
――なんか、埋まってる。
虚無感のような絶望にも似た感覚を、名前はいま感じなかった。パズルのピースがぴったりとハマったかのように、違和感が姿を消していた。
――やっぱり、ネロさんのおかげ?
一人首を傾げて考えてみる。名前は胸にぽっかりと空いた穴の正体は、寂しさなのだと突き止めていた。それは他でもなく、ネロが気づかせてくれたものであり、ネロでなければ気づけなかったことである。孤独を感じた時よりも、世界を渡った現実を突きつけられた時よりも、病に苦しめられている時よりも。彼の傍らにいられなくなった時の空虚感は、言葉にしがたいものがあった。
――なんでだろう。
ネロが教えてくれた。他の人ではなく、今日出逢ったばかりで、魔法が使えて、料理が得意なネロだった。
疑問を抱く反面、謎解きと真相を解明しようとしたところで、きっと答えは出ないのだと名前は気づいていた。
偶然かもしれない。しかし、必然かもしれない。寂しさを知ったことで、自分の人生には変化が訪れるのだと、名前は薄々感じていた。
――必然だったらいいな。
必然だとしたら。そう考えただけで、胸は弾んでしまう。こんなこと思ってしまうのはネロに失礼かもしれない。だが、この出逢いが何かしら意味のあるものだと捉えたくなる自分がいた。
「お待ちどうさん」
「っ、ありがとうございます」
名前に突然ネロの声が降りかかる。驚いて一瞬息を呑んだが、取り繕いつつネロにお礼を伝えた。
静かに目の前に置かれたのは、コーンスープだった。量は少なめで、茶碗よりもほんの少しだけ大きいボウルで出された。
――これなら食べきれそう。
黄金の小麦畑のようなコーンスープは、平和の象徴のようだった。幼い時に見たアニメ映画のヒロインが、青い服を着て金色の波を一歩一歩噛み締めながら歩いていく様子を思い出す。コーンの香ばしい匂いが、じんわりと名前の身体を温めていくようだった。
「いただきます」
「どうぞ」
挨拶にまでも返事をしてくれるネロに、きゅっと胸が詰まった。名前はその優しさに応えるよう、一滴も零れないように、慎重にスプーンを動かしてスープを掬う。そのまま丁寧に口元に運んだ。
流れ込んできたスープは、味はわからなかった。けれど、どこまでも優しい味のような気がした。大事に飲み込んで、名前は一息つく。
――こんなに味が恋しいだなんて。
食品の味を意識したことはなかったのに、味が理解できていた頃が羨ましくて仕方がない。
どんな味なんだろう。コーンスープだから、塩っぱいのだろうか。それとも甘めなのだろうか。大人が好むような味付けをしていたりするのかな。
失ってからありがたみを知ることはあるのだと、名前は痛感する。
名前は最初よりも少し早くスプーンを動かして、二口目を飲み込む。三口目も同じように。味はわからなくても、優しさを感じるスープを大事に、そして出された分をありったけ食べたかった。
スプーンを何度運んだだろう。名前はゆっくりと丁寧に味わうように、コーンスープを完食した。最後はボウルを両手で持ち、最後の一滴まで残さないよう注意を払いながら食べ終えた。
「ごちそうさまでした……ありがとうございました」
名前の表情は自然とほころんでいた。
胃はほどよく満たされていた。ネロは名前の適量を完璧に当ててみせたのだ。これならば、食後に胃の不快感が訪れることはないだろう。
「ああ……」
ネロの返事は何か言いたげだった。視線が合わないのはもう慣れてしまったが、彼は斜め下を向きながら、なにか思い詰めたような表情をしている。
――作法とかダメだったかな……?
世界が違うのだ。作法が違っても当然である。挨拶が違った? 食べ方が汚かった? ボウルを両手で持ってスープを飲み込むのは礼儀知らずだった?
名前の脳内は混乱と不安で入り乱れる。この世界の文化的なことはまだ何一つ知らなかった。無礼なことをしてしまったとしたら、恥ずかしいことをしてしまっていたら。
「ご、ごめんなさい……!」
「えっ」
「あの、私なにか、作法とか駄目でしたか……まだこの世界のそういうこと、知らなくて……」
「あ、いや」
「不快にさせてしまったら、すみません……!」
名前は頭を下げる。自分のせいでなにか嫌な気持ちにさせてしまったのなら、それはとても許しがたいことだ。
「いや、違うんだ。頭上げてよ」
少し焦ったようなネロの声が名前の後頭部にかかる。名前はゆっくりと頭を上げた。ネロは困ったような表情を浮かべて、首の裏を触っていた。それは昼間も見た光景だった。
「作法は別に、間違ってないさ。気にもとめないよ」
「ほ、本当ですか……?」
名前はほっと胸を撫で下ろす。恐る恐るネロを見つめてしまう。ネロは気まずそうに視線を泳がせていた。
「でも、あの、何か気に障ってしまったんじゃ……?」
「っ」
ネロの息を呑む様子から、名前は核心に触れてしまったと察した。
――だめだ、距離を詰め過ぎちゃったかも。
せっかく決心したというのに。すぐに誓いを破ってしまった。名前は猛省した。
「あっ、ごめんなさい……。言いたくないことなら、良いんです、言わなくて。でも、私が何かしてしまったのなら、次から気をつけたくて……」
膝の上でぎゅっと手を握った。
名前は自分のせいで誰かが傷ついたり不快な思いをすることを、酷く恐れていた。それは過去、病気のせいで他者に迷惑をかけてしまったこと、また、思考の問題により過度の自責の念を感じてしまうことが関係している。自分自身も病気と付き合う姿勢になるまでの間は、症状に振り回されてしまうことが多かった。それは仕方のないことだと今では理解している。しかし、その経験は今でも名前の心に釘のように刺さっており、時折ぐっと心に食い込んでくる。
それらの経験から、名前はカモフラージュすることがうまくなった。調子が悪くても、泣き出しそうになるほど感情のコントロールができなさそうになっていても、他者がいるときは必死に耐えて、取り繕った。その分、家に帰って一人になったときは、爆発してしまう。
自分は他者と関わらない方が良いとまで、一時期考えたこともあった。しかし、社会で生きていく上でそれは困難である。他者との関わりは生きる上では欠かせない行動であり、そうしなければひとりぼっちになるだけだ。
なるべく他者を傷つけたくない、不快にさせたくない。けれど、ひとりぼっちも嫌だ。それが名前の心に強く刻まれていた。
「あー……いや、大したことじゃないんだ」
名前が悶々としている様子からか、ネロは場をつなぐように話を切り出す。ハッキリと明言しないのは、きっと優しいからだろう。ネロの優しさにまた触れてしまった。
「差し支えなければ、教えてほしいんですが……」
名前は言葉の続きが気になってしまった。ネロが本当に言いたくないのであれば、名前も言葉を返さなかったかも知れない。しかし、ネロは言葉を選びつつも話を始めた。これは、聞いて良いことなのかも。名前はとっさにそう感じた。
「いや、まあ……なんだ……」
名前はじっとネロの言葉を待つ。ごくりと唾を飲み込んだ。
「その……飯、口に合わなかったか?」
「……え?」
名前はぽかんとしてしまった。もっと重大なことを言われる気持ちでいたからだ。しかし、すぐに状況を思い出す。彼は料理人で、そのプライドがある。そして名前は現在、味が分からないでいる。
「っ……」
名前はさあっと血の気が引いていくようだった。自分は一言も『美味しい』と味に関することを言わなかった。一方で、ネロの食事は頬が落ちるようで、晶は繰り返し『美味しい』と話していた。
――私のせいだ……!
名前が味について言及しなかったから、ネロは不安になって声をかけた。それが彼の困ったような表情の正体だった。
「違うんです!」
名前は声を上げた。ネロが目を丸くする。こんなに大きな声、この世界に来て初めて出した。
「違うんです、全部、私がいけないんです。ネロさんは、なにも悪くないんです……」
名前は次第に俯いてしまう。声も萎んでいった。指先が震えそうになる。
「あ、いや、口に合わなかったのなら俺のせいだか――」
「違うんです、本当に、違くて……」
名前は涙がこみ上げてきそうだった。
――どう伝えたらいい? どうすれば伝わる?
どんな言葉を選んだら、ネロに伝わるだろうか。ネロの料理は欠点など何もなく、むしろあたたかく包み込んでくれたこと。味がしないことを悔いて、味が恋しくなったこと。味がしないのに『美味しい』と嘘をつくことはできなかったこと。それでも大切に最後の一滴まで食べたこと。
名前の脳内はぐるぐると言葉が巡っていた。言いたいこと、言いたくないこと、伝えなきゃいけないことが、ぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。
「いや、無理しなくてもいいからさ」
「っ」
無理をしなくて良いのは、自分ではない。ネロの方だ。ネロが不必要に傷つくのは、嫌だ。
名前の背中を押したのは、やはりネロの存在だった。
「――味が、わからないんです」
厨房には名前の声だけが響いた。こだまするように、自分の話したことが頭の中で鳴り続けた。
「は……?」
「えっと、生まれつき、とかではなくて。なんというか、その……」
ネロの驚いている声を受け止めつつ、名前は話を続ける。ここまで話してしまったのなら、後に引けなかった。事情を正確に伝えるしかない。
「……病気の、症状といいますか」
受け入れてもらえるか、それ以前に、伝えても引かれてしまわないか。名前は少しだけ恐れていた。
「……味覚障害みたいなもん?」
「っ!」
ネロが言葉を返してきたことに、名前は勢いよく顔を上げる。ネロはもう、首の裏に触れていなかった。真っ直ぐに名前と向き合っている。
名前は目を丸くするも、ネロの質問に答える。
「えっと……似ている、と思うんですけど、私のはそれ自体が病気ではなくて、あくまで、症状といいますか……」
「……身体、どっか悪いのか?」
控えめに、内緒話をするようにネロは囁いた。聞いて良いのかどうか迷っているようにも見えた。
「……身体、と言えば、身体なんですかね……」
精神が、だなんて、とてもじゃないが言えなかった。スノウとホワイト、フィガロにだって話せたことなのに、ネロには伝えたくなかった。突然この世界に連れてこられて、味もわからず、さらには……と一連の流れで考えるだろう。これ以上、可哀想な存在として見られたくない。
「それって、良くなったりするのか?」
「体調が改善されれば、良くなります。私も初めてなったわけではないので……過去にも同じ経験があるので、もう慣れてしまったというか……」
ネロは押し黙った。何かを考え込んでいる。しばらく二人の呼吸だけが、室内の空気を揺らしていた。
「……味がわからねぇ食事なんて、つまらないだろう」
ネロのぽつりと呟いた声が、名前の心に刻まれる。それは、食べることすべてについてなのか、ネロの作った料理を食べていてのことなのか、判断がつかない発言だった。
「っ、そんなことないです!」
名前は立ち上がりそうになる衝動を堪える。足の裏をぎゅっと床に擦り付けて、いつの間にか身を乗り出していた。
「ネロさんのお料理、とっても綺麗で、優しくて、魔法みたいだったから……!」
「!」
「あっ、ごめんなさい。魔法が使える方に『魔法みたい』って言葉、ちょっと違いますよね」
「いや……」
「……味がわからなくて、食事に興味すら持てない状態なので、食事時は何も感じないんです。胃に入ればなんでもいいとすら思ってて」
ネロは静かに名前の言葉に耳を傾けていた。否定も肯定もせず聞いてくれていることが、ほんの少しだけ名前に希望を与えた。
「……でも、今日はじめて、『味がわかればいいのに』って思いました」
「……!」
「ネロさんのお料理、美味しそうに食べて、感想を伝えられる晶さんが羨ましくて。私も味わってみたくて……でも、味はわからなくて……」
「…………」
「ネロさんに、感想と感謝もまともに伝えられないのが申し訳なくて。……でもさっき、コーンスープを食べて、優しい味だなって思ったんです」
名前は胸に手を当てる。コーンスープを食べたときに感じたことを、鮮明に思い出しながら舌に言葉を乗せた。
「もちろん、味は塩っぱいとか甘いとかわからないんですけど……でも、それでも、ネロさんが丹精込めて作ってくださって、とても優しい味がするんだろうなっていうのは、わかりました」
味がわからないのに、味の感想を伝えるだなんて、変な話に決まっている。しかし、ネロに届けたかった。名前は言葉を選びながらも、素直に思いを伝えた。そのことに後悔はなかった。
「ごめんなさい、沢山話してしまって」
「いや……」
ネロの返事は、何かを考えているような声音だった。きっとこの後、ネロは何かを話すだろう。彼と話した経験はまだまだ浅いが、名前は確信を持っていた。
「……俺は長く生きてきたけど、味がわからないやつに会うのは初めてでさ」
ゆったりとネロは語り出した。低い声が名前の耳に馴染んでいく。
「正直、どうしたらいいのかまだわからないでいる。俺は何をすればいい?」
「えっ……」
「話を聞いている限り、味がわからないのと、あんたの体調と、たぶん少食なのも関係してるんだろ?」
「っ、そう、です」
「じゃあ、このまま通り、あんたの適量で料理だすって感じでもいいか? 味がわからないって言われても、適当な味付けで料理出すっつーのは、俺はできないからさ」
「めっ、ご迷惑では、ないですか……?」
名前の心臓はネロの言葉を聞くたびに強く鼓動していく。耳の奥で心拍が鳴り響いていた。胸元をぎゅっと掴もうとしたが、指先に力が入らない。
ネロは風を吹かすように笑った。穏やかな風が舞い込んだようだった。
「全然。ここじゃ一人飯食うのが増えたくらい些細なもんだよ。生クリームを大量にそのまま食ったり、消し炭が好物のやつもいるからさ」
「生クリーム……えっ、消し炭、ですか?」
ネロはしんみりと笑った。苦労が少し滲み出ていたが、無理難題もやり遂げてしまうそつ無くこなす様子が見え隠れしていた。
「少食の件なんだけど」
「はっ、はい……!」
「その様子だと、胃腸も弱ってたりする?」
「えっ、なんでわかるんですか……?」
「いや、ただの勘」
少し得意げな顔をするネロは、意地悪そうにも見えた。にやりと笑う姿に、名前は目を見張る。
「じゃ、消化のいいもんとかの方が、身体には優しいか」
「えっ、あ、その……とても、ありがたいんですけど……ご迷惑じゃ……?」
名前は一瞬ネロの話についていけてなかった。ネロの笑い顔に見惚れてしまっていた。
ネロの提案は名前にとってありがたいものだったが、それは数十人の料理を用意するネロの負担になるのではないか。
「言ったろ? 今さら一人増えたくらい、些細なもんだよ」
「……ありがとうございます」
ネロは再び穏やかな風のように笑う。本当に一人分食事が増えても問題ないのだろう。ネロの優しさに、名前はまた救われてしまった。
「媒介さんが――」
「あっ、あの!」
「ん?」
「自己紹介が遅れてしすみません、苗字名前といいます」
ネロの話した『媒介さん』という言葉に、名前は大事なことを思い出した。自分はまだ、彼に自己紹介をしていなかったのだ。名前は慌てつつ挨拶をする。今更とも考えてしまうが、挨拶は大事だ。
名前は下げていた頭をあげると、ネロは口元を手で覆って笑いを堪えていた。
「っくく……」
「え……?」
「っふ、そうだよな、そう思うよなっ……」
「えっ、あの、私なにか、また失礼なことしちゃいましたか……?」
ネロがなぜ笑い出したのがわからず、名前はまた無礼を働いたのかと考えてしまう。会話の流れからして、名前の発言でネロが笑いだしたのは間違いなかった。
「いや、いいんだ。今のは俺が悪かった……っ」
ネロは口元に拳を持っていきながら笑いを押し殺しす。どこか楽しげなネロが珍しく、名前は慌てていたのも忘れて、ネロに釘付けになってしまう。
「――東の魔法使いネロだ。東の国では料理屋をやってた。まあ、その流れでここでも料理とか作らせてもらってる」
ネロは笑いが収まると、名前に向き直って挨拶をする。簡素な自己紹介だった。
名前はネロのことを、晶たちから教わっており少しだけ知っていた。けれど、ネロが自分の言葉で自身のことを話してくれたことに、名前は胸が弾んでいた。
「よろしくお願いします」
「ああ、よろしく。名前」
「っ……!」
名前を呼んでくれた。ネロが呼ぶだけで、自分の名前が特別なものに思えてくる。名前は頬が熱くなるのを感じて、慌てて俯いた。
ネロの吐息が軽く弾むような音が聞こえる。笑われているのかも。名前は首の後ろまで熱くなる。
ネロの笑顔が見たかったけれど、今は赤くなった顔を見られるのは気が引けた。なんだかもっと笑われてしまいそうな気がして、名前は身体を小さく縮こませる。
室内は、やわらかい空気が流れていた。あたたかくて、少しだけ眩しくて、胸がぎゅっと締めつけられる。けれどそれは痛くなくて、むしろ心地よいような、ほんのりと甘いような気がした。
魔法の世界に迷い込んだ初日は、淡い色の世界の中で、特別な夜を迎えて幕を閉じた。
その夜、夢を見た。寝付けない中で見た夢は沢山あったが、その中でも一番印象的だったものがある。
暗闇の中、一人で蹲っている名前に手が伸ばされる。手に視線を沿わせて見上げると、そこにはネロが立っていた。
手を掴むよう促すネロに、名前がゆっくりと手を伸ばして触れた瞬間、名前の周りにあった真っ暗闇は一瞬で姿を消してしまう。
名前は辺りを見渡す。そこは、淡い色合いの世界が広がっていた。キラキラと妖精の粉のようなものが舞い散っていて、ネロは驚いている名前をおかしそうに笑う。
「魔法は、空も飛べるんだぜ」
腕を引っ張られ立ち上がった名前は、ネロが導く方へと歩み寄っていった。