過去篇-プロローグ-


時雨は、陸奥国白河藩藩士江戸下屋敷詰めの藩医・藤宮百庵の娘として、江戸の白河藩屋敷で生まれた。
一人娘でありながら、父・百庵の意向で武士でこそないが藩士の娘として幼少より武芸を叩き込まれ、活発にも真っ直ぐに育てられた。

惣次郎の両親は、早くに亡くなった。
沖田家には長女ミツ、次女キンが居たが 沖田家と親しい斎賀 時雨の両親は、幼い沖田家嫡男末っ子(長男)惣次郎を、わが子のように気にかけたと聞く。
そのため同い年の時雨と惣次郎の二人は、物心つく頃よりお互いがそばに居たのだった。

「おばさん、こんにちは!時雨ちゃんを迎えにきました!」
「あら、惣次郎さんいらっしゃい」
「惣ちゃん!」

いつものように、惣次郎が斎賀邸に時雨を遊びの誘いに来た。
時雨の父親は蘭学医で、白河藩邸近所の医者であった。武家ではないが、時雨の母親のおユウは1人娘である時雨に、唄、三味線、舞踊等、“おけいこ事”に通わせ、帰ってくる頃に惣次郎が自宅まで迎えに来るのが日常だった。

「母上、行ってまいります」
「あまり遠くへは行かず、気を付けて遊ぶのですよ」
「承知しました、母上」
「行きましょう!」
「はい!」

惣次郎の差し出す手を繋ぐと、二人は駆けて門を抜けた。
初夏の新緑が太陽をすかしてなびく風を
感じ、向かうは小さなせせらぎの音が心地いい近所の土手だ。
砂原に着くと、二人は早速水辺へ行きしゃがみ込んだ。投げ石をするためほどよい石を探すのだ。
二人にとってこの時間を過ごす毎日は、それはそれはとても楽しかった。
道端に咲く綺麗な花を摘んだり、ある
時は近所の神社の境内で他の子達と鬼ごっこなどをしたりした。夏が本格的になれば縁日にも二人で行き、大晦日は両親と惣次郎の姉のミツ、キンと出かけたこんな日々がずっと続くと思っていた。
幾年が過ぎ、9歳になったある日。

「……惣ちゃん。なんだか元気がありませんね」

まだ水温の低い河原の水際。ほどよい岩に腰掛け、どうも今日は惣次郎の様子がおかしいと、ザリガニを獲っている惣次郎の背中に時雨は問いかけた。

「、……」

惣次郎は見抜かれたことに驚いたのか一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかく微笑を浮かべて時雨を振り返ったけれど、また川の水に視線を落とした。その微笑みは少し悲しげに時雨には見えた。
惣次郎は、先刻のことを思い出していた。斎賀宅へ向かう際、自身の一番上の姉であるミツから言われたことを思い出していた。

「惣次郎さん。今日も時雨ちゃんのお宅へ伺うの?」
「はい!姉上」
「惣次郎さん……少しご遠慮なさいな。そう毎日伺っては迷惑をかけてしまいますよ」
「姉上、では私の家に連れて来ます」
「良い、惣次郎さん。私もそうだったけど武家の娘はね、七歳もすぎれば、よろず物柔らかに、たおたおしく、つねの遊びも、女のすべき業をのみ持て扱い、日に照らされず、雨にぬれず、武家の娘としてのなんたるかを身につけなければならないの。私が林太郎さんと結婚し沖田の家を継いだとは言え、惣次郎さんも武家の男子として、間もなく本格的にお勤めを始めるのよ。いくら斎賀さんが良くしてくれるとは言え……いいえ、尚更弁えないと」

年が離れているため母親同然の実姉ミツの言葉に、惣次郎の心は沈む思いだったが、笑顔を張り付ける。

「遠慮を心がければ遊んでも良いということですよね!では!今のうちに遊んできます!」
「惣次郎!」
「夕餉までには時雨ちゃんを送り届け戻りますから!」

惣次郎は姉の声が追いかけてくるのを振り払い、斎賀宅へ走った。まるで、変わり行く日々を振り切るように…

「そんなことありませんよ」

惣次郎は、時雨を見てニッコリと微笑んで見せた。しかし、取って付けたような笑顔に、見逃す時雨ではない。
二人はまだ幼いながらも、物心ついた時から常に一緒であった幼馴染だ。時雨は、惣次郎に何かあったんだと悟る。

「……今日は、帰りますか?」
「っ帰、りたくないです。……まだ」
「……惣ちゃん」
「元気ないように見えましたか。そんなことないので、今日もいつもの時刻まで遊びましょう!」

時雨には惣次郎が敢えて明るく振る舞っているのがわかった。しかしだからと言って、しつこく聞くつもりもない。そうあ次郎が話したくないなら、嫌がることなら、したくなかった。

「……はい!」

それからの惣次郎は本当に明るく、二人の幼少期は変わらず過ぎて行った。そして、数ヶ月後のある日。

「ご無沙汰してます」
「おお、よく来てくれた斎賀さん。おや時雨ちゃん。大きくなったね」
「周助先生、こんにちは」
「はい、こんにちは」

今日は、父が以前より親交の深かった江戸市谷甲良屋敷にある試衛館道場、三代目近藤周助さんに会いに来ていた。数年前、周助先生のところに宮川勝五郎という10歳ほど年上のお兄さんが門弟になったときに来て以来の、時雨の来訪であった。

「いや、呼び立てて申し訳ない。実は、弟子を取りたくてね。勝太も居るんだが、門弟も増やしたいのだよ」
「沖田さんの嫡男のことですね」
「ああ。こちらの知り合いの武家の男子がいるところには声をかけてみたのだがね。斎賀さんと親交の深い武家と聞いているよ。ぜひ声をかけてもらえないかね」
「分かりました」

父が周助先生と話している隣でおとなしく正座して座っていながら、私はあの二人に会えることを期待していた。宮川勝五郎お兄さんと、土方歳三お兄さんのことだ。二人は年子で、何しろ義兄弟の契りを交わしている――今でいう親友のことで、二人はいつも一緒だった。

「本日は暑いので、涼めるものを持って来たんです。地元で美味と人気の菓子です」
「おやおやかたじけない。おーいふで、居るか」
「父上、母上は外出しております」

その声に私はぱあっと顔をほころばせた。

「おお、そうか。ではお前に、お茶を頼めるかね」
「かしこまりました、父上」

そう言って下がろうとするお兄さんに、父が私に声をかけた。

「時雨、手伝いをしておくれ」
「はい、父上!」

私はぱっと立ち上がると、お兄さんの後を追いかけた。

「お兄さん!」
「やあ時雨!大きくなったね」

頭をなでなでしてくれる、大きな手。

「私もお手伝いします!」
「助かるよ」

一緒にお台所へと向かう。

「本当に何年ぶりだろうね。時雨しばらく来ないんだから」
「会いたかったです、勝五郎兄さん!以前のように遊びたいです!」
「あはは、稽古が終わるまで居られるのならね」

また頭をなでなでと撫でられる。幼馴染の沖田家はお姉さんが二人いるが、私には兄弟がいないから、彼が一番近い存在のお兄さんなのだ。

「今日は土方さんはいないんですか?」
「トシは今日は家でおとなしくしてるんじゃないかな」
「ふふふ。いつもこっそり抜け出してることを、お家の人にきつく怒られてしまったんですかね」

土方さんのことは、土方さんと呼んでいる。土方さんからそう呼ばされるのだ。子供同士なのに、と思ったけれど、10近く離れているから自然と受け入れたのだった。
帰り道。

「父上」
「どうした時雨。疲れたかい」
「いいえ、大丈夫です。一つ聞きたいことが」
「なんだい」
「周助先生が話していた沖田家嫡男ということは、宗ちゃんのことですよね。宗ちゃんを入門させるんですか?」

父上に、頭をなでられる。不安げな顔をしていたのだろうか。

「まずは、おミツちゃんに話してみないことにはね。でも沖田家は武家だ。おそらくおミツさんは喜んで宗次郎を入門させるだろう」
「……」
「時雨と宗次郎はいつも一緒だから、さみしいかい」
「……はい。でも武家の嫡男はお勤めがあります。私も武家の娘です。宗ちゃんを応援します」
「良い子だ」

後日、父が沖田家当主にお話しして、宗ちゃんは周助先生の天然理心流に入門するはこびとなった。
時雨は宗次郎が離れてしまうと心配していたが、そんなことは全くなかった。最初こそ、二人は一日のお勤めが終わるとこれまで通り遊んだ。そのうち宗次郎に頭角が出てくると、剣術に夢中な宗次郎が見たくて、時雨は一日の勤めを果たすと、試衛館道場に通い詰めだった。
今や試衛館は、あのバラガキだった土方さんも正式に入門し、山南敬助、永倉新八、原田左之助、斎藤一、藤堂平助、と順調に(?)食客が増え、私とおミツさんはみんなのお世話にてんてこ舞いな、それでも楽しいニギヤカな日常を送っていた。
ずっとこんな生活が続けば良い―――しかし現実は残酷で、黒船来航で私の日常は時代の波に飲み込まれていったのだ。
あれから、約十年の月日が経過した。私は年頃になった。妙齢になると仕方がないが、ことあるごとに両親が縁談を持ってきて正直辟易していた。ひらひらと逃げ回るのもそう長くは続けられないことは百も承知だった。そんな折、いつものように試衛館に入り浸っていると。

「先日、将軍上洛の警護に浪士の募集が幕府よりあった。我らも試衛館一同、参加を表明する」

宮川勝五郎改め、近藤勝太改め、四代目を襲名していた近藤勇兄さんが毅然と言ったのだった。この話を聞けて幸運だと思った。私は直ぐに着いて行こうと思った。両親から迫られる結婚から逃れるため、直ぐに頭が回った。

「お忙しいのに呼び立ててすみません、総司さん」
「いえいえ。それより懐かしいですね、この河原」

二人の呼び方は、変わっていた。
元服を迎えていた。幼馴染とはいえ、武家の男と女。社会の仕来りには添うのだ。でも。

「……私も一緒に行きます」

私の言葉は、総司さんも予想していたのか、そんな表情に見えた。反対されてしまう。私は慌てて付け加える。

「私も試衛館の仲間ですよね?私はおなごだからダメだとか、そんなの嫌です……」
「時雨さん」
「…!?」

総司の腕に抱きしめられていた。剣術で鍛えられてるとかじゃない。総司の体はすっかり私と同じではなくなっていた。硬い胸、広い、大きい。

「時雨さんの気持ちはわかりますよ……!私も、……同じことを言われましたから」

なぜ、総司さんまで……?私が総司さんの顔を見上げると、悲し気に総司さんが微笑んだ。

「ダメと言われました。試衛館はどうするのだ、師範代がいなくなると困る、と」
「…………」

いつしかできていた身長差。頭一つ分高い総司さんの顔を、見つめる。一番腕が立つのに。そんな総司さんの気持ちを思うと、私も心が締め付けられるようで。
総司の腕によって、剣術で鍛えられた総司の胸に私は顔を埋めながら、時雨はどうしても、総司と共に、側に居たい気持ちを強固なものになってしまって。

「でも、近藤さんと土方さんが、私が行くのを反対した気持ちが。今初めてわかりました……」

総司の意味深な言葉に、時雨は総司の腕の中で総司の顔を見上げる。

「……大切だからです」

私を真っすぐ見つめてそう言った総司の言葉に、時雨は胸が締め付けられる感覚に陥った。

「……今、京が危険な場所であることは私も知っています。なのにそんなところに皆が行こうとしています。藤堂さんも斎藤さんも、私より年下ですが行きます。なのに師範代である私だけが、危険だと、行けない道理はないはずですと言いました」
「……だったら。総司さんと同い年の私も、」
「時雨さんは違います」
「、」

心がザワ付く。


「私……が…おなご…だからですか?」
「……ごめんなさい、時雨さん。私は、時雨さんを危険な目に会わせたくない。武州にいれば、時雨さんは安全です」

時雨を抱きしめていた総司の腕が離れた。

「総司さん……」

背中を向けてしまった総司の顔は、時雨からは見えない。

「安全より……」

時雨はこぼれるように口にした言葉に、総司がゆっくりと振り向く。

「安全より、大切なことがあります。いま世間が動乱の世になりつつあることを私は知っています、黒船のことを知っています、攘夷浪士と呼ばれる方たちが過激化して帝の居る京が一番危険なことを知っています、偉い方が上洛される道中を護衛する尽忠報国の志を持つ者なら資格がある……だから皆さんが浪士組に入ることも、知っています!」

時雨を見つめる総司の表情だけで、気持ちが手に取るように分かるようだった。それでも、私は。

「おミツ姉さんは行きたがったのでしょう……?でも旦那さんが居るから一緒に行くことが叶いませんでした。でも私なら。剣は使えないけど……私に、総司さんの……試衛館の皆さんの。身の回りのお世話をさせてください」

時雨は真っ直ぐに総司の目を見つめた。

「……時雨さん……浪士組には、」
「婦女子の組はないのですよね、おミツ姉さんが言っていました。だから、私……」
「まさか……時雨さん、」
「男装します」
「いけません!!」

総司の口調はこれまで一緒に過ごして一番強かった。

「厳しいことを言うようですが、時雨さん。よく聞いてください。もし時雨さんが過激派攘夷浪士に襲われたりなどしたら、さらに男でないことがバレたりしたら……!」

こんな総司は初めてだった。

「……良いですか?私は男装は絶対に反対です」
「……わかりました」
「時雨さん……!」
「男装はしません。だから浪士組のうしろを感付かれないように、おなごのまま着いて行きます」
「時雨さん……!?」

ほっとした表情から一変して慌てる総司に、時雨は心の中で総司に謝った。しかし、ここで引けば総司とは一生離れ離れになってしまう予感がした。そんなの絶対に嫌だった。絶対離れたくない。何が何でも一緒に行く。私が縁談から逃げて来た理由。総司と……生涯を共にしたい。

「私は。武家の娘として家を守るために身につけた、薙刀が使えます。狭い家屋での戦闘では長くて不向きなら、短いものを使います。自分の身は自分で守れます。だから。私だけ一人置いて行かないで……!」
「時雨さん……」

にじむ涙を必死に堪える時雨の表情に、総司は暫く目を離せないでいた。が、やがて。ふぅ、と溜息をついた。総司の表情はすっかり眉尻が下がり、微笑んでいる。

「皆さんにも納得してもらわないといけませんね」
「総司さん!」

うれしくて総司に抱きつく時雨を、総司も笑顔で優しく抱きしめた。新選組として歴史に名を残す、数年前のお話。