将来呪術師として働くことを担保に、金銭的援助を受けている伏黒恵は、中学生の身分でありながら、定期的に呪術高専を訪れていた。理由は、自分をここへ招いた男に強く聡い呪術師になれと言われ、そのための準備がほぼ全ての割合を占めている。知識や経験、それに第六感に近い危機察知能力など、義務教育では得られないものを少年は学びにきていた。
 彼は今日も出来る限りの公共機関を乗り継ぎ、遠路はるばる東京の山奥まで足を運ぶ。
 敷地内へ入ったところから、一体どれくらいの距離を歩いただろうか。ようやく建物が並ぶ、石階段の頂上が見えてきた。じりじりと太陽が肌を焼くような季節ではないものの、彼の背中とリュックサックの間には、じんわりと汗が滲んでいる。
 最後の一段をのぼりきったところで少年は一度立ち止まり、透明のペットボトルから残りを一気に呷った。そして間を置かず、足先は何度か訪れた事のある学生寮を目指す。
 今週末は祝日と合わさり三連休となったため、彼を呼びつけた人物から、泊まりがけでという指示があったのだ。部屋はいくらでも余っており、今回もそこへ宿泊する運びとなっている。時間の許す限り、最大三日間滞在が続く予定だ。

 誰ともすれ違わないまま伏黒が石畳の上を進んでいると、進行方向に松葉杖をつく私服姿の女性を捉えた。少年がこの場所で見かける大人といえば、黒を基調としたいかにも仕事着というなりの人間が多いので、一瞬学生かとも思ったが、何度か学生寮を利用する伏黒も覚えのない顔であった。
 彼女は不自然に前へ出た右足を庇いながら、左足を軸に両脇に抱えた杖を歩幅替わりとして、一歩一歩前進している。様子をうかがう少年とは裏腹に、それだけで手一杯のようだ。
 木々に囲まれた高専で、人の往来のある歩道が舗装されているとはいえ、古い造りの敷地内はバリアフリーとは程遠い。門をひとつくぐるにしても段差に階段が基本であり、外と内をわける敷居や石畳の凹凸は絶対に避けられない。
 成人ひとり運べるような大きな式神か、身体や物を宙に浮かせられる便利な術式でも持っていない限り、一人の際の車イス移動は相当厳しいものがあると言えるだろう。
 おまけに主要な建物が密集しているとはいえ、それらひとつひとつがある程度の面積を誇るとなれば、広大な高専内の移動は、健康な足を持っていても些か大変である。事実、背に汗をかく少年がたった数十秒で越える一棟の距離を、彼女は一分かけて進んでいた。
 伏黒は悩む。自分が女性に手を貸す事は厭わない。だが、彼女の手荷物といえば松葉杖とともに揺れる斜め掛けの薄いトートバッグのみで、それを代わったところで歩行の手助けになるとはとても思えない。
 現在調伏済みの式神では、大人一人を運ぶ事は難しい。それこそ三日分の荷物が入ったリュックさえなければ、彼女の目的地まで自分がおぶって行くのが一番手っ取り早いとは思うものの、余程の訴えがない限り、普通そこまではしないだろう。
 結局は己から声を掛けるべきか否か、お節介と善意、罪悪感か恥じらい。眼前まで迫る見知らぬ女性に対し、伏黒少年は答えを出せずにいた。

「何やってんの」
 突然現れた低く通る声に、少年は後ろを振り返る。声の主は、まさに彼を本日ここまで呼んだ人物、五条悟本人であった。
 伏黒は最初、自分が咎められたのかと思った。彼の深層心理に、弱者救済の文字が刻み付けられている証拠である。
 だが五条はずかずかと伏黒の横を通り過ぎ、彼の奥にいる松葉杖の女性のそばへと並ぶ。
 解っていたのだろう。歩行のために前へ突き出した右足をすでに下ろしていた女は、体重を預ける杖に重心を置いた。そして頭二つ分ほど高い五条を見上げながら、言い訳をするように言葉をつむぐ。 
「補助監督の人に、仕事のことで聞きたい事があって。ちょっと向こうの棟まで」
「そんなの電話でいいじゃん」
「それがうまく説明できないから、直接聞きに」
「呼びつけたらいいよ。なまえの右足のこと、みんな知ってるんだから」
 なまえと呼ばれた女性がどれだけの理由を述べようと、五条の口調からは、追及する姿勢を変えるつもりがないと読み取れる。白い包帯の奥に潜む瞳は、きっと静かな青で燃えているのだろう。
「……それでもみんな忙しいのに、私だけそんな事出来ないよ」
 彼女はそう言うと、近距離から様子を見守る伏黒の先で、顔を下げてしまった。それ以上言葉は続かないため、木々のざわめきが三者の沈黙の間を繋ぐ。
 仕様がなくなった五条は、はあ、とあからさまな溜め息を吐いた。そして小さな子どもでも抱え上げるかのように、なまえを腕の中へとおさめてしまう。スローモーションのようで、一瞬の出来事だった。
 その拍子に、二本の松葉杖がカラン、コロンと音を立てて石畳の上で重なる。
「そんな顔しないでよ」
 すでに歩き始めた五条は言った。 
「恵、杖持ってきてくれる」
 多くの補助監督が業務を行う建物は、少年が数分前に通り過ぎたばかりである。しゃがんで彼女が落としていった松葉杖を拾いあげる伏黒は、あと一口分だけでも水分を残しておけば良かったと後悔した。学生寮までの道のりは、まだまだ遠い。



 苗字なまえは三ヶ月前、呪霊討伐の任務中に右膝を失った。共同で任務にあたり、倒れていた彼女を救った術師によると、膝を中心に大きく喰い千切られたような痕があったという。
 医師である家入の診断によれば、普通の病院へ運ばれていたら生命維持を優先するためにも、太ももの半分から下までを切断しなければならない傷口だったそうだ。
 なまえが再び目を覚ました時にはもう治療が済んでおり、彼女の右足は表面上、元の形を取り戻していた。しかし失った中身までは、反転術式の使い手である家入硝子にも再生出来なかった。
 人体の構造をよく知る家入によって、なまえの右足の中の神経や血管、それに骨と筋肉も、身体から切り離さないで済むよう上手く繋ぎ合わせてある。
 しかし失った部分の機能は大きく、自力で膝が曲がらない、右に重心が乗ると支えがきかないといったように、彼女の右足はすでに健常者のものではなかった。
 その日からなまえは、人や道具の支えなしに歩けなくなってしまったのである。


「はいはーい、着きましたよ」
 わざわざ補助監督達のいる執務室の中までなまえを抱いていった五条は、パソコンデスクが並ぶ椅子のひとつを引いて、丁寧に時間をかけて彼女をそこへ下ろす。まるで自ら腕の中で寝かしつけた子どもを、ベッドへ寝かせるかのような優しい手つきだった。
「帰りは絶対誰かに部屋まで車イスで送ってもらってね」
 さらに五条はなまえが顔をそむけてしまわぬよう、彼女の頬に手を添えたまま、そんなことを言う。
「うん、悟も忙しいのにごめんね」
 しゅんとするという表現が正しいだろう。反省しているのか、あるいは己の無力さに落ち込んでいるのか、ただでさえ五条と並び小柄に見える女性がさらに小さくなっていた。
 それを見越したように、五条は自身の身を屈め、彼女に顔を寄せる。
「これから出なきゃなんないけど、僕も夜には高専へ戻る予定だから、今夜は一緒に夕飯も食べようよ。……残念ながら、こぶ付きだけど」
 周囲の補助監督の視線は、映画のスクリーンを見るかのように、今までやり取りをしていた二人に全て注がれていたが、それが五条の台詞により彼の背後にいる少年へと一斉にうつる。男が言うこぶとは、指示に従い松葉杖二本をここまで運んできた伏黒のことなのだろうと皆が皆、察したからだ。
「ありがとう、よろしくね。あと手間も掛けさせて本当にごめんね」
 五条の大きな身体の隙間からなまえが伏黒に微笑みかけると、俯き気味の少年も、運んできた杖を近くの机に立て掛けながら軽く会釈を返した。
「じゃあまた時間は連絡するから」
「うん、お疲れさま」
 最後の最後まで五条はなまえしか見ておらず、部屋を出るギリギリのときまで、彼女の頬から自身の手を離さなかった。



「さっきの人誰なんですか」
 補助監督の執務室をあとにした伏黒は、前を歩く五条に尋ねる。
 元々男女問わず人との距離が近い五条だが、少年が見てきたなかでもあの女性には、彼の好意のようなものが、隠すことなく透けて見えた。だから特別な人間だと勘ぐったのである。おしゃべりなようで五条は案外自分自身の事は語らない。
「苗字なまえ、僕の同期の術師だよ。数ヶ月前までは全国津々浦々飛び回ってたんだけど、任務中呪霊に膝を持っていかれてさ。もう外へは出られなくなった。今は高専内で主に硝子や補助監督の手伝いみたいなことしてる」
「気の毒ですね」
「うん」
 そう答えた五条であったが、聞いている伏黒からすれば、ちっとも理不尽に感じているとは思えないような気のない返答だった。
 彼は言葉を続ける。
「怪我で呪術師続けられなくなるなんて珍しい事じゃないけど、彼女は命があっただけ、本当に良かったよ。それだけは感謝してる」
「でも、そんな大きな怪我をしてまで、ここは残るような場所なんですかね」
 身長差のある伏黒は、五条の斜め下から聞いた。純粋な子どもの疑問としてではない。自身の価値基準をしっかりと持つ伏黒だからこそ、現代術師最強としての考えを知りたかったのだ。
 彼は助けるべき人間を選ぶと決めている。善人と思える彼女が足を失ってまで、救うべきものがそこにはあったのか。現実を聞いておきたかった。
「さあ。考え方は人それぞれだからね。でもなまえは残らざるを得ないんだよ。自分でない誰かのために、それが意図せぬ形であっても——。 あ、伊地知から電話だ。実はもう待ち合わせ時間から十五分くらい押してるんだよね」
「えっ」
 伏黒が五条から連絡を受けた時には、昼までに来いと言われただけで、はっきりと時間指定がなかったはずだ。時間にルーズなところは、相変わらずである。
 電話を受けながら、それでもマイペースに進み続ける男の背を、少年は追いかけた。
 補助監督が回してきた車に乗り込む頃には、五条が語った本音と嘘について、伏黒の頭からはすっぽりと抜け落ちていた。

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