午後七時過ぎ。本日分の仕事を終えた五条と、見学の役割しか果たせなかった伏黒は、高専内のとある立派な門の前にいた。といっても、寺社仏閣が密集する呪術高専ではありふれたもので、暗闇の中ではそれも周りの景観にすっかり溶け込んでしまっている。
 屋根をくぐり、濃い色をした格子の門扉を勢いよく引いた五条の三歩後ろで、敷居を跨いだばかりの伏黒はそれをそっと閉める。几帳面な彼に、扉を開けっぱなしにするという選択肢はなかったが、尻拭いが板についてきたようで、少年は不快に思った。
 初めましての彼が、足を踏み入れて真っ先に目に入ったのは、細い月灯りに照らされた、一軒家へと続く一本の道で。その奥でひっそりと身を隠すように建った家屋は、外門と比べると案外質素な、あるいは一般的な民家のような外観をしていた。


「ご馳走様でした。全部美味かったです」
「いえいえ。食べ盛りの子が来てくれたっていうのに、簡単なものしか出てこなくてごめんね」
 平屋の長い廊下の奥、漏れ出す光の先で二人を待っていたのは、五条が数時間前に夕食の約束を取りつけた女性、なまえだった。
 帰宅の知らせが聞こえたのか、右足を引きずりながら台所へ向かおうとする彼女を無理矢理座らせて、五条と伏黒がそちらへと回る。
 するとカウンターキッチンの裏側では、豚の生姜焼きを主菜に、みそ汁と白米、それと野菜に少しだけ手を加えた副菜が二つ、すでに女の手によって用意されていた。
 そのとき、キャスター付きのカウンターチェアが一脚、奥のコンロ前に佇んでいるのを二人は見逃さなかった。帰りの連絡を入れる直前まで、五条が出来合いのものを買ってここへ帰るつもりだったことを、伏黒は知っている。
 料理は皿への盛り付けと、温め直すだけだったので、すぐに三人での夕食が始まった。物静かな少年を差し置くように、食事中もそのあとも終始五条が喋り続けていて、隣にいるなまえは常に合槌を打っていた。
 後片づけも、備え付けの食洗機に全て立て掛けるだけだったので、瞬く間に伏黒は手持ち無沙汰になってしまう。なまえから食後に甘いものも勧められたが、彼自身が断ったため長居する理由もなくなり、結局一時間後には玄関先で二人から見送られる羽目となった。

「暗いけど大丈夫?悟にお願いする?」
「高専にも何回か来てるからわかるでしょ。右に出て、ある程度のところでもう一回右に曲がったら寮が見えてくるよ」
 心配そうに伏黒を見つめるなまえの隣で、五条の指先は口調と同じく、邪魔者を追い払うかのような仕草をしている。もう片方の腕は隣の足の悪い女を支えるという名目で、ちゃっかりと彼女の身体に回されていた。
「五条先生は帰らないんですか」
 口をへの字にして、少年も反撃に出る。今日一日散々からかわれたので、仕返しの意味も込められていた。
 しかし彼の予想に反して、男はへらへらと笑みを返すだけであった。
「帰るも何も、ここは僕の所有物件だよ。入口にちゃんと表札も立ってたでしょ」
「それは見てないです」
「じゃあ帰りに見てって。実家よりも、いい感じだから」
「そもそも高専内に土地って持てるんですか」
「しかるべき金額を払えばね。恵も僕に追いつくぐらい強くなって、頑張って稼ぐんだよ」
 満足気に頷く男とは裏腹に、伏黒のこめかみには一本筋が浮かぶ。この調子で本日何度となく煽られた。少年は思い出したくもない。
 まあまあ、と口をつぐませるべく察したなまえは五条を見上げる。だがそれを知ってか知らずか「なあに?」と、男はニコニコとしたまま首をかしげるだけだ。どんどんご機嫌になっていく五条と比例して、伏黒少年の鬱憤は溜まる一方である。
 見かねたなまえが、不自然に明るい声で話題を切り出した。
「そういえば私、ふるさと納税の返礼品に海鮮もお肉も頼んであるの。そろそろ届く頃だから、伏黒くんさえ良かったらまた一緒に食事しましょ。高専へ来るのも、これっきりって訳じゃないよね。今度はもっと食べ応えのあるもの作るから、ね」
「……ありがとうございます。楽しみにしてます」
 少し毒気が抜かれたのか、伏黒は頭を下げ、おやすみなさいと続ける。
「じゃあねー」
「気をつけてね、またね」
 ひらひらと揺れる大きな手の奥で、少年は夜へと消えていった。


 玄関戸の隙間がなくなったと同時に、五条はなまえの膝裏に手を入れ、ひょいと身体を持ち上げた。
 元術師だろうと鈍さは関係ない。ぱちぱちと瞬きを繰り返す腕の中の彼女は、頭が追いついていないようであった。
 しかし五条に待ってやる義理はないので、さっさと踵を返し、長い足で直線の廊下を進んでいく。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 ようやく状況を理解したなまえは、揺られながら男を見上げ、口を開いた。
「今日二回目だね」
「別に何回だっていいよ」
 二人分の会話と一人分の足音が、静かな空間で響く。しっかり筋肉のついた身体は、多少の距離を女一人くらい平気で運んでしまうようだ。
 それぞれの自室を通り過ぎて、彼は一番明るい光を目指す。まだ眠る支度をするには、早い時間である。それこそ伏黒が断った食後の甘いものでも、楽しむのかもしれない。
 けれどなまえの一言で、五条の機嫌は一転する。
「せっかく家でゆっくり出来る夜なのに、私が居ると悟に気を遣わせちゃう。ごめんね」
 ほんの一瞬だけ表情を強張らせた五条は、返事をしないまま居間へと戻ると、なまえをソファーへと降ろして、覆いかぶさるように自分も乗り上げる。
「ねえ、本当の事を言って。今日あれから、ここまで送ってくれたの、誰」
 帰宅した時から、彼は見えすぎている目でずっと彼女の姿を捉えている。僅かに残る呪力の気配だって、絶対に見逃さない。それが最後に会った時と全く変わらないのだ。
「……」
 揺れた瞳は、一人で帰ってきたと白状したも同然だった。しかし口を閉ざしたままの女に、男は再び尋ねる。
「じゃあ聞き方を変える。なんて言って部屋を出たの」
 すでに逃げ場などないというのに、ついた肘の位置をずらして、昼間のようになまえの頬に手を当てて五条は問うた。
 ドクン、ドクンと速度を上げた彼女の心音まで、彼の耳には届いている。
「……資料室へ、行くって——、んっ」
 今にも消え入りそうな、か細い声を聞いていられなくて、五条はそれを己の口で塞いでしまった。なまえが顔を逸らせば、慈しむように角度を変えて、また追いかける。
 逃げて、追って、逃げて、追って——。それが何度繰り返されたのだろう。

「居てもいいって、どうしたらわかってくれるの」
 いつの間にか五条は身体全てを使って、なまえを押さえつけていた。下半身に馬乗りになり、胸板で上半身をソファーに沈め、おまけに彼の両手は彼女の両手首を掴んでいる。なまえが自由に動かせるのは、首から上しかなくなっていた。
「多分、ずっと、わかんない。……足が元通りにならない限り」
「ごめん、泣かせたい訳じゃなかった。ごめん、本当ごめん」
 溢れ出すものを拭う己の指すら、女は自由に動かせずそれが頬を伝って耳まで流れ落ちる。
 なまえの涙が止まるまで、五条は何度も何度もその目尻に唇を寄せた。
Counter