呪術高専内——解剖室の近くの薄暗い部屋で、なまえは死亡診断書を書いていた。
 間違いのないように患者の氏名と生年月日欄を埋めて、死亡日時がカルテと相違がないかを再度確認する。
 最初の頃は鉛筆で下書きもしていたが、死亡時の診断書というものは元々の時間制限に加えて、次の手続きがあるのでとにかく急かされる。そのため細心の注意を払いながら、かつ迅速に仕上げるより他ない。受け取り手である遺族を思う間もなく、彼女は再びボールペンを用紙へと走らせた。
 死亡診断書もとい死体検案書を記載するには、必ず医師の資格が必要である。しかしなまえは術師であっても、医者ではない。
 彼女が足を悪くしてからのはなしだ。級友であり医師免許を保有する家入硝子たっての希望で、祓除に出られなくなったなまえを医務室勤務として高専内に配置する、異例の人事が出た。
 しかし医務室勤務といっても、右膝が機能していない彼女は、動作が必要な処置や解剖には立ち会えない。おまけに、高専内すら自由な移動もままならない人間である。上から反発の声があがらない訳がない。
 結局補助監督が、現在彼女の暮らす五条の家に直接仕事を持ってくるか、端末を使用しデータでやり取りするか。主にどちらかの方法で、多忙な家入に代わり、事務作業部分の補佐として業務をこなすことで、この一件は落ち着いた。
 だから、なまえがここに姿を見せるのは稀でも、このような業務に携わるのは珍しいことではない。死人に関する手続きも、もう手慣れたものである。カルテの見方も傷病名も医療用語も、これを機にとたくさん覚えた。
 とはいえ、ここでは家入の診断と診断書の内容は必ずしも等しくはない。大前提として、呪霊の存在を知らない人間の目に触れる書類も扱わなければならない。今回の死亡診断書についても同様である。
 つまるところ、わざわざここへ運ばれてくるような死体の状態を、真実そのまま書く事はほぼないのだ。基礎疾患や性別年齢などで、何パターンか死因のマニュアルのようなものがあり、書き間違いさえなければ、知識がなくとも誰にでも可能である。補佐としてなまえが任されているのは、そういう仕事だった。

「お疲れさま」
 ぽん、と一生懸命ペンを走らす女の肩に乗った青白い手は、家入硝子のものである。今さっきまで鋭いメスを握っていたとは思えないほど、穏やかな手つきだ。
 知らず知らずのうちに、眉間に寄っていたシワを解すことを意識して、書類と向き合っていた女も机から顔を上げる。
「硝子もお疲れさま。これで今日は終わり?」
「急患さえなければね。なまえは?」
「頼まれてたカルテ整理も済んだから、私もこれで終わり。それにしても、かなり残酷な亡くなりかたしたんだね」
「身体中穴だらけだったよ。ひとつひとつが致命傷じゃない分、相当辛かっただろうね」
 まさになまえが仕上げ途中の診断書こそ、家入が解剖後に回したカルテを見ながら記載しているものであった。出血や傷の具合から、だいたいの損傷箇所の順番もわかるらしい。腕の傷の多さから、身を守るためかなり抵抗したであろう事が見てとれると書いてあった。
 だが、こんなにも無惨な姿の遺体であっても、全く関係のない傷病名がついてしまう。文字列を連ねながら、なまえは溜め息を吐きたくなった。
「書けた。見てから判子ちょうだい」
「ん」
 家入は白衣の胸ポケットからボールペン付きのシャチハタ印を取り出すと、ろくに中身を確認もせず、他人によって書かれた自身の名前の横にそれを押した。彼女は同期のこの女を信用し切っている。形式的なものなので、なまえも今さら何も言わない。
 家入はそのまま用紙を指で挟み、入り口へと向かった。
「これ置いてくるから、そのあとは私の部屋で食事にしよう」
 カツカツと鳴るヒールの音が止まったと思えば、振り向きざまに彼女は言った。
 五条や夏油と違い、何の企みもないはずなのに、硝子のニヒルな微笑み方は学生時代から変わらない。なまえはそう思った。



「このまま肩に手置いて。今なら右足に重心かけても大丈夫だから」
「ん、ありがとう」
 部屋の前で車イスを降り、背丈のほとんど変わらない家入に掴まりながら、なまえは彼女の部屋に文字通り足を踏み入れた。
 体格のがっしりしている五条に支えられている時よりも安定感があるのは、きっと主治医である家入が人体の仕組みをよく理解しているからなのだろう。
 腰を下ろしたところで、なまえが彼女にそれを伝えると「あんたの身体のことを、私以上に知ってる人間はいないよ」と照れもせず、ただの事実として言い切るだけだった。
 過保護なまでに、足を悪くした女に何もかもさせたがらない五条と違い、家入は線引きがはっきりしていた。もちろん移動の際は必ず肩を貸し、距離が長ければ車イスを勧める。
 だが膝関節の機能がないなまえの右足は、その場にただ立っているだけなら、主軸となる左の補助程度の支えくらいは可能となる事を主治医は知っている。
 だから人を招いておいて調理もさせるし、後片付けも手伝わせる。おまけに食後のコーヒーまで、客人にねだる始末である。
 しかし風呂だけは片足ですべると危ないからと、日も暮れきらぬ時間に女二人、狭い浴槽に向かい合って入った。溢れた湯船に、意味もなく笑みが溢れた。

「私、硝子の部屋にこんなにも自分の物があるとは思わなかった」
 顔を覆っていた白いパックを剥がしながらなまえは言う。
 身体を拭いたバスタオルも、身につけている下着も寝巻きも全て、一ヶ月以上前から家入の部屋に置きっぱなしになっていた彼女の私物であった。
「退院してからの一週間、居ただけだったのにな。まさか五条に、住んでたマンション勝手に引き払われてるとは」
「ほんとにね」
 スキンケアのボトルを家入から受け取り、口を動かしながらそれを塗り広げていく。顔から首、デコルテまで鏡を見ずとも隙間なく、その細い指先をすべらせる。
 同様に手入れされた、うなじに近い部分にある鬱血痕に、家入は気付いていたが、本人は全く気付いていないようであった。
「一階の部屋もいくつか空いてるみたいだから、こっちへ来ればいいのに。ここなら一応毎日私も帰ってくるし、今のところより医務室にずっと近いだろ」
「うん、考えとくね。荷造りもままならないまま悟の家に来ちゃったから、今二部屋も借りててさ。このまま越してきても収まりきらないし、もっと物を減らしてからになると思うけど」
「補助監督もこっちの方が来やすいだろうからさ」
 苦笑気味に家入は言葉をつむぐ。
 とにかく足のケガに対する負目が大きく、なまえは人の助けを借りることに、今とても臆病になっている。
 それを利用した五条に、まさか囲われているとは、きっと想像もしていない。家入が医務室勤務を命じたのだって、同期の最大限の気遣いだと思っているのだろう。
 苗字なまえという女は、いつだって自分の価値に気がついていない。だから、私達につけいられる。家入は、風呂上がりの手入れを続ける健気な女を見ながらそう思った。
 しかしこの話を続けるつもりはないようで、なまえが言葉を発するよりも先に、彼女は新たに口を開く。
「呼び出されないうちに、晩酌でもしようか。どうせ飲んでても飲んでなくても、呼ばれることに変わりはないからね」
「いいね。さっき冷蔵庫のなかに高そうなチーズがあるの、見たんだけど」
「ワインとセットで貰ったんだよ。せっかくだから開けようか」
「嬉しい」
 乳液までしっかり塗り終えたなまえは口角をあげ、ボトルの蓋をキュッと閉めた。幼さが残る仕草だというのに、求めているのは大人の嗜好品である。ワインまで美味しく頂けるようになったのは、家入もなまえも年を重ねた証拠だ。
「じゃあドライヤー持ってくるから、あんたから先に髪乾かして——」
 家入が洗面所へと足を向けたそのとき、和やかな空気が流れる部屋に、それを台無しにするような着信音が鳴り響いた。
 肩を飛び上がらせた二人は、お互い同じようにキョロキョロと目線を動かし、自身のスマートフォンを探す。どちらも自分のものだと思っているようだが、デフォルトから変更されていない二人の着信音は全く同じであるため、正解がわからない。
 先に手に取ったのは、ダイニングテーブルの上にあった家入のものだった。けれど、画面は真っ暗なままで彼女は首を横に振る。つまり鳴っていたのは、カバンの中に入れっぱなしになっていたなまえの電話だ。
 椅子から立ち上がったのは良いものの、そこまで辿り着けない彼女に代わって、家入がカバンをあさってそれを取り出す。画面に表示された名前を横目で見つつ、そのまま持ち主に手渡した。
 実際に呼び出し音が続いていたのは、十数秒だっただろう。けれど相手はよほどせっかちなのか、諦めが早いのか、ちょうどそのタイミングで切れてしまった。
「誰だろね」
 のんきに言う女に対し、家入は知っていたが答えない。
 ロックを解除し、着信履歴を見た彼女は一瞬表情を固くした。それでも画面を操作し、すぐさま掛け直そうとしたそのとき、またしても同じ音が鳴り出す。
 が、今度は先ほど着信を受けたなまえではなく、家入のスマホであった。
「はい」
 ワンコールで電話取った家入は、表情を変えず「いる」「うち」「何」「ここ」と相手に対して短い単語を返している。
 慣れた会話から、きっと自分に掛けてきたのと同一人物だろうとなまえは思った。
「代わってくれって」
 数秒も経たないうちに、同一機種の電話を差し出される。

「……もしもし」
『帰ったらいないからビックリした』
 なまえが電話を耳に当てるや否や、たったこれだけの時間を待ちくたびれたとでと言うように、通話口の男から不機嫌さを隠すつもりがない第一声を浴びせられる。しまった、と彼女は反省の色を示したが、もう遅い。さらに非難めいた声色で、彼は続ける。
『一人で硝子のところ行ったの、それとも誰か迎えにきてくれたの。仕事?遊び?別にいいんだけど、居ると思ってたのに急に居ないから焦るよね。 帰ってくるの?迎えに行こうか?車イスもそこに置いてあるの?』
 捲し立てるような五条の問いに息を飲む。しかしなまえは言葉を選びながら、ひとつひとつ丁寧に答えていく。
「仕事で行って、そのまま硝子の部屋にお邪魔してる。迎えは大丈夫。ちゃんと戻れるから。 悟も出張でしばらく帰らないって聞いてたから、何も連絡いれなかったの。驚かせてごめんなさい」
『何がどうなったのかは知らないけど、新幹線のホームまで来たとこで、いきなりもういいって言われてさ。出張は急遽取りやめになったんだよ。ホント人使い荒すぎ。 で、僕は帰ってきたんだけど、オマエは帰ってくるの?』
「えっと、」
 言い淀む彼女は、家入に目線をやった。
「帰らないよ。すでにもう一杯やってるから、なまえはこのままここに泊まらす。じゃあね」
 奪い取ったスマホの通話を強制的に切った家入は、テーブルの上にそれを伏せた。そして何事もなかったかのように、首に掛かったままのタオルで濡れた髪を拭いている。かと思えば戸棚からワインを取り出し、嘘を事実に塗り替えるため、本格的に晩酌の準備を始める。
 そのあと、なまえも努めて何もなかったかのように振る舞った。心配をかけた五条に対する罪悪感は心にあるものの、グラスに三杯目のワインを注がれた頃には、彼の事などすっかり忘れていた。アルコールが程よくまわり、同性の友人同士、久方ぶりの楽しい夜を過ごした。



 深夜四時過ぎ。目を覚まし、ベッドから身体を起こした家入は、すやすやと隣で寝息をたてるなまえの首もとに反転術式をかける。
 家入が呪力を流すとみるみるうちに、彼女につけられた紫色をしたキスマークが消えていく。あっという間に元の肌色に戻り、痕跡は綺麗さっぱりなくなった。
 こんなものは、わざわざ家入の貴重な能力を使ってまで、治す道理もなかった。だが、ただただ彼女は不快であったからそれを行った。お前だけのものではないという、メッセージである。痕を残したであろう相手の顔を思い出し、溜め息を吐く。
「ごめん、なまえ。私も五条も、どこへでも自由に行ってしまうあんたの足をおいておく訳にはいかなかったんだ」
 薄暗い部屋の中、鬱血痕があったであろうそこに、彼女はそっと指を這わせる。
 懺悔のように呟かれた家入の言葉が、夢の中のなまえの耳に届くことはなかった。

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