目を覚ました瞬間に、今が夜なんだと認識出来たのは、レースカーテンのみが引かれた窓際で私が寝かされていたからで。月明かりなのか街灯なのか、外からの光で照らされた天井は、高専から割り当てられた自室のものではない。ご親切に掛けられている羽布団も、触れているシーツも、枕の硬さも私の知らない感触だった。
 私、何してたんだっけ。
 覚醒しきらない頭のまま、上体を起こそうと力をこめたそのとき、音もなく大きな影が私を覗きこむ。
「おはよ、やっと起きた?オマエよく寝るね」
「……おはようございます、五条先輩」
 身体が反射的な強張りをみせたことによって、勢いあまってという事態は免れたが、起き上がることが叶わなくなってしまった。相変わらず人を選ばす、距離感の近い人物である。警報器のように鳴り響く、心臓の鼓動まで聞かれてしまいそうだ。
 よく通る低い声に対して、無意識のうちに丸まった自身の指先を、目の前の彼に気付かれないよう、私はベッドの中でひっそりと解いていくことにした。

 五条先輩は私の一学年上の生徒で、歯に衣を着せない物言いや、体格に正比例する横柄な態度から、入学早々苦手な上級生としてカテゴライズした人物である。
 私は七海くんや灰原くんと違って、訓練で必要以上に痛めつけられる事もないし、彼から理不尽なちょっかいを掛けられる事も皆無である。
 けれど、まだ桜が散り終えない時期。共同の初任務で、いきなり次元の違う強さを見せつけられ、そのすぐ後に「オマエには期待出来ない」と面と向かって言われて、トラウマにならない訳がない。
 そこから半年ほどの時が流れ、傍若無人と思われた五条先輩にも、年相応の人懐っこさや、わかりにくいが行動理念に彼なりの善意があることも知った。
 祓除の結果としてある、人助けのことだけではなく。負の感情の吹き溜まりごと、全部なかった事にしてしまうほどの完全なる破壊や、子どものような屁理屈をこねた末に、規定を覆してまで守った人命。それに先輩主催のお誕生日会や、後輩へと気まぐれに買ってきてくれるお土産など、日々のなかにも数え切れないほど彼なりの思い遣りいうものが読み取れるようになってきた。
 畏れ多いはずの五条先輩に、憧れに近い感情を抱く日もあったくらいだ。
 それでも私達は、実力がモノを言う世界に身を置いているという現実からは逃れられない。同級生の二人とは違い、私の出来る事はいつだって限られている。半年過ぎたって、いくら体力がついたって、呪術師である五条悟にとっての私は居ても居なくても同じ——、あ。

「ここは高専の医務室だけど、その直前のこと覚えてる?」
「はい。グラウンドの石階段で、私が座っていたところに七海くんと灰原くんが飛んできて」
「うん、そう」
 本日、午後から同級生三人で向かうはずだった任務の等級が見直され、私達の予定は急遽校内で自習という形で変更された。七海くんも私も早々に自室へ引っこむつもりだったのだが、灰原くんの強引な提案によってグラウンドへ駆り出され、雲ひとつない青空のもと三人で汗を流していた。そこまでは良かった。
 一時間ほど経った頃だろうか。ジャージ姿の五条先輩が「俺も混ぜて」とやって来て「本気のやつ。術式使わないから二対一で来い」と言った。必然的に二に含まれないのは私である。

 石段の真ん中あたりに腰掛け、ぬいぐるみのように軽々と転がされる七海くんと灰原くんの姿を私は見ていた。五条先輩はやはり圧倒的だった。
 至極当たり前のことを言うが、五条先輩の腕が二本に対し、七海くん灰原くんは二人合わせて四本。足も同様である。それなのに先輩は二人の攻撃を必ず受け止めて、そのうえで反撃する。
 彼らのコンビネーションも決して悪くない。けれどコンマ数秒のズレを見切る特別な目と、それを可能にする鍛え上げられた肉体に、完璧以外のものは通用しなかった。
 そりゃ、私なんてお呼びでないよね。心の中でそう呟いたとき、苗字さんと背後から名前を呼んだのは補助監督の林さんだった。
 彼は私達一年生を担当する事が多い男性で、同郷が近いことが判明してからは、さらに親近感がわいた。ひとまわり近くある年の差が半分に思えるくらい、今は信頼を置いている。
 どうしたんですか、と問う前に彼は言った。私にお願いされた書類を、学生棟へ運ぶ最中に通りかかったと。
「苗字さんは、休憩中?」
「五条先輩が二対一って言うから、空気を読んで」
 苦笑するように目尻を下げた林さんは、私の隣に腰をおろした。
 仲間はずれにされた私を励まそうとしてくれたのか、そもそも全く急ぎもしない用事のために校舎までやって来るあたり彼の息抜きも兼ねていたのか。とにかく楽しい話題が多かった。時間を忘れ、私はついつい彼との雑談に花を咲かせてしまっていた。
 ぶつかった瞬間の事は覚えていないが、砂埃の舞うグラウンドから同級生どちらかの大きな背中が迫ってきたすぐあと、真っ白になったところまでは記憶にある。

「隣にいた林さん、補助監督の方にお怪我はなかったですか」
「大丈夫だよ。あと七海も灰原もきちんと受け身取ってたから。気失ったのはおしゃべりに夢中だったオマエだけ。——それよりも」
 私を垂直に見下ろすことによって、少しだけズレたサングラスの隙間から、普段は滅多と合わない青い瞳と視線がぶつかる。
「なんで補助監督にこんなの頼んだの」
 彼は私の目の前に、分厚い書類の束を持ってきた。その瞬間、全身の温度がぐっと下がった気がした。血の気が引くってこういう事を言うのだろう。
 決して存在を忘れていたつもりはなかった。どうせこのままお開きになるだろうと、あの場で受け取ったのは私だが、気を利かせた林さんが持ち帰ってくれているものだと信じて疑わなかった。
 ダブルクリップに挟まれた紙の束を適当につまんだ五条先輩は、捲ったページを抑揚をつけず読みあげる。
 六月十九日、東京都港区南青山——青山霊園にて。人間の足のようなものが三本転がっていると警察へ通報。調査の結果、呪霊による残穢を確認、のちに右足二本と左足一本は三名の非術師ものだと判明した。残穢は墓地中心部へと続いており、竜巻と思われるものが発生しているのを補助監督と術師一名が確認。一級以上の呪霊と認定し、高専より術師さらに一名を派遣——。
「こんな暗がりでよく読めますね」
「御生憎様、目はいいもんで」
 カシャンと音を立て、私から離れた五条先輩は、備え付けのスツールに脚を組んで座った。窓から差し込む光は先輩の足元までしか届いていない。
「コレ、ここ半年の俺の報告書だよね。ファンなの?」
「違います」
「違うのかよ」
 口調は緩くとも、先輩にふざけているつもりはないらしい。青白く染まった頭部は一直線に私を捉えており、下手な言い訳は通用しない雰囲気だ。
 真っ黒なサングラス越しの見えない視線に耐えきれず、私は掛け布団を目元まで引き上げる。夜の光ですら通してしまう薄いそれは心許ないが、私は仕方なしに言葉を続けた。
「五条先輩、私には期待できないって言ったから」
「いつ」
「入学して一週間後です」
「どんだけ前の話してんだよ」
 ベッドの中で私が小さくなる一方で、奥からはスツールが軋んだ金属音と、バサっと紙の束が落ちたような音が響く。
「どんな術師なら先輩と一緒に任務に出れるのか、知りたかっただけです。同期の二人は何度か割り当てられているのに、私は見学でしか五条先輩と外へ出たことないから。気味の悪いことしてごめんなさい」
「……直接聞けばいいじゃん。今日はどんな任務に行ってきたんですかって。この間も談話室で映画見てるとき、オマエ後ろで菓子食ってただけだったろ」
「だって先輩怖いんだもん」
「…………」
「…………」
 あっそう、と少しの沈黙のあとに続いた声色はなぜか穏やかだった。
 恐る恐る布団の隙間から彼をのぞくと、ブツブツと独り言を呟きながら、何束かあった書類を茶封筒に仕舞っていた。傑——、嫌われる——、意味ねえ——、しときゃ——、断片的な言葉が聞こえてくる。何のことだか分からないが、大きく機嫌を損ねた訳ではなさそうだ。
 先輩は産まれた時から特別すぎて、スクープを狙われ続けるスターのように、物事に対する考え方のスケールが違うのかもしれない。
 ここに留まる理由がなくなったのか、五条先輩は席を立った。
「私が起きるまで、ずっと付いてて下さったんですか」
「硝子がさ、目覚ますまで責任持って看てろって言うから」
 再び私を真上から見下ろした先輩は、指を伸ばし目にかかった前髪を払いのけてくれる。くすぐったくて目をつむった。
「起きれる?」
「はい」
 今度こそ私は、うすい羽毛布団を押しのけるようにして上半身を起こす。日頃の睡眠不足を解消したかのように、身体はずいぶんと軽くなっていた。
「今何時ですか」
「八時半過ぎ。おかげで夕飯食い損ねちまった」
 五条先輩はそう言いながら、重量のある茶封筒をまだ布団が被ったままになっている私の足もとに投げて寄越した。
 しかし、それどころではない。
「すみません!部屋の冷蔵庫に何種類か冷凍のパスタがあるので、良かったら食べて下さい!すぐ用意します!」
 軽くなったはずの肩に、多忙な彼の貴重な時間を無駄にしてしまったという事実が重くのしかかる。少なくとも私は五時間近く眠っていたのではないだろうか。
「パスタな気分じゃねーんだよ。硝子が治療してんだ、もう身体なんとも無いだろ。一緒にコンビニ行くぞ」
 すでに私に背を向けた五条先輩は、ガラッと大きな音を立てて扉を引いた。そして振り向きもせず医務室をあとにしていった。



「——先輩、五条先輩!」
 暗闇のなかを何の躊躇いもなく進んでいく彼の背中を、私はようやく捉える。
 履いていたはずの靴がどこにあるのか分からなくて、彼より少しだけ出だしが遅れてしまったうえに、追いつくのにはさらに倍の時間が掛かってしまった。
 呼吸の隙間で、出来る限り周囲に響かぬよう、それでも先輩に伝わるよう叫ぶ。
「待ってください!私、ジャージのまま医務室に運んでもらったので、財布持ってないです!このままコンビニへ行っても何も買えません!」
「後輩にぐらい、奢ってやるよー」
 彼の言葉が、風に乗って私の耳に届く。
 一度歩みを止めてくれた五条先輩だったが、チラリと一瞬だけこちらの様子をうかがうと、ポケットに両手を突っ込み、また同じペースで前進していってしまった。
 だけれども、私も私で引き下がれない。息も絶え絶えに、縋りつくように言葉を続ける。
「あと私、先輩みたいに見えないから、早く歩けないです!」
 山奥にあるだだっ広い高専には、基本人通りのあるところに最低限の街灯しかない。だから夜目のきかない普通の人間にとっては、整備されている石畳であってもかなり危険である。
 今だって足の長い先輩に私は小走りでやっと並ぼうとしていたところなのに、このあとに控える長い石階段も同じペースで降られてしまっては、堪ったもんじゃない。
 私が一言話す間にも、五条先輩の背中は再び闇に紛れてしまいそうになっていた。ようやく手が届くところまで来ていたのに、もう距離はこんなにも開いてしまっている。一生追いつけないというのは、こんな場面でも表れてしまうのだろうか。

 私は足を止めた。昼間とは違う、冷たい秋の風が私たちの間を抜ける。
 結局手荷物になってしまった茶封筒を、胸の前で抱きしめ、踵を返そうとしたそのとき。
「なまえ」
 まぶたを伏せた、一秒にも満たない時間の出来事である。雷のような速さで、目の前に五条先輩は現れた。
 その人間離れした行動は、彼の術式によるものなのだろうが、原理までは分からない。
 だが背の高い彼が、わざわざ少し身を屈ませるようにして差し出してくれた左手が、何か分からないほど私も野暮ではない。
「ん」
 顔を上げてみるが、夜であることを含めても、やはりサングラス越しの表情はうかがえない。
 彼に憧れる気持ちに嘘はなかった。惹かれるがまま手のひらを重ねると、五条先輩の大きな手にそのまま全ての指を絡め取られた。



 その後、私はジェットコースターに乗せられたように、すごい速さで麓のコンビニまでおりてきた。
 駐車場で手を離され、彼に続くよう店内へ入ると、パスタは気分じゃないと言っていたのに、先輩は結局二つもパスタを買っていた。
 レジ袋を左手だけに引っ提げた先輩は口を開く。昨日は四年の二級術師と浜松まで行っててさ、と。
 そう始まった五条先輩との会話に、帰りはもう少しゆっくりと歩いてくれるだろうかと期待せずにはいられない。
夜を歩く