「五条いるー?」
「……」
「えっと、」
「あーごめん、女子の方。急なんだけど今から俺と任務だってさ。三十分後に出れる?」
「はい、大丈夫です」
 自習という名義で待機するように命じられた教室に、ひょっこりと顔を出したのは三年生の吉田先輩だった。話すのはこれで二度目だが、生徒数が少ないのですぐに顔と名前を覚えることが出来た。
 見学だった任務が二回目には引率ありきの実戦に変わり、ベテラン術師との共同任務を数回経験すると、一週間後には当たり前のように学生同士の割り振りとなった。
 入学したての頃は脅しかと思っていたが、呪術師が人手不足というのはあながち嘘でないらしい。硝子ちゃんは連日負傷者の治療にあたり、医務室にこもりっきりである。
 そのため昨日は五条くんと夏油くんと私の三人で、記念すべき初任務となったのだが……。おおかた予想通り、私は二人との圧倒的な実力差を見せつけられる羽目になった。一体も祓えず、文字通りずっと五条くんの小脇に抱えられていたのは、きっと苦い思い出として生涯記憶に残り続けるだろう。思い返したら、また溜め息が出た。
「気をつけてね」
「!ありがとう」
 開いていた教科書を片付け席を立った私に対し、文庫本から顔を上げた夏油くんは優しい笑みを浮かべ、ひらひらと手を振る。
「ん、」
 一方、昨日の件からさらに無愛想になった五条くんはというと、私がお詫びにと持ってきたチョコレート菓子をむしゃむしゃと頬張りながらぶっきらぼうに片手を上げた。追い払うようにされないだけ良かったと思いきや、すでに嫌悪を通り越し呆れられているのかもしれない。
 いってきます、と彼らに告げ私は教室を出た。



「すみません、先輩」
「いやいや上出来だったよ」
 何も出来なかった昨日のことを思えば、一体祓えただけでも及第点をつけてもらえるのかもしれない。だが前線で活躍する同期の三人と比べてしまうと、それが甘い考えであると思わずにはいられなかった。また自己嫌悪が続く。
 けれどそばまで駆け寄ると、吉田先輩は満面の笑みで私の頭をくしゃくしゃと撫でた。彼はとても気さくな先輩である。動物に戯れるようにされて、すでに乱れた髪でさらに鳥の巣を作られた。
「同期があんな面子で気弱になるのも分かるけど、五条みたいな——、あっちの方ね。家柄も才能もっていうのは、やっぱ一握りなんだよ。だから術師になって一週間ちょいでここまで動ける五……なまえは、自分にもっと自信持ってもいいと思うよ」
「ありがとうございます」
 ここ最近謝罪ばかりで頭を下げている気がしていたが、きちんと思い返せばこんな風に褒めてもらったときに、感謝の気持ちを示すための振る舞いもあったはずだ。
 ただ苗字が『五条』というだけで期待からの落胆を抱かせ、さらに身内だと勘違いされた五条くんに嫌悪されるということが続いていたため、つい後ろ向きな考え方になっていた。
 それにしても、ここまで深く頭を下げなくて良かったのかもしれない。私が顔を上げると、先輩は少し困ったように笑っていた。
「……なあ、このあと何かあんの?」
「?いえ、もともと夜までかかるかもって聞いていたので」
 じゃあさ、と彼の言葉が続く。私が期待以上の働きをみせたのは事実だったのか、時間を大幅に短縮出来たので、このまま二人で何か食べに行こうと誘われた。
 歩きながら帳に手を触れると、周囲を覆っていた黒のカーテンが開けて、暗い廃ビル前に赤い夕陽が一気に差し込む。ひと仕事終えて気分的なものもあるのか、朝焼けだと言われたならば信じてしまいそうだ。
「お疲れ様でした。二人ともお怪我はないですか」
 現れた人影は逆光となってはっきりと顔は見えないが、私達を担当した補助監督の女性である。それで気が抜けたのか、急に肩が重くなりどっと疲れが押し寄せてきた。
 目の前がくらくらと揺れるなか、先輩が取り急ぎ呪霊の報告をあげる。事前調査と照らし合わせ見逃しがあるといけないので、後でという訳にはいかないからだと聞いた。
 その間にもめまいはどんどんと酷くなり、私はビル壁に手をついた。毎晩わりと早く布団には入るのだが、色々と考えてしまい連日寝不足が続いているのは事実である。
 それに予定より早かったとはいえ、結局この時間から高専に戻ってもその頃には夜になっているので、吉田先輩のお誘いは丁重にお断りしようと思った。こんな体調では、任務以上に迷惑をかけてしまう。
「——ありがとうございます。では五条さんのみ別件で予定が入りましたので、このまま私と一緒に移動をお願いします。吉田くんは最寄駅までお送りしますので、申し訳ないですが電車で——」
 鈍器で殴られたような衝撃だ。私は今この場に立っているものやっとの状態である。同等の任務など絶対にこなせない。もちろん呪霊による一般人の被害は最低限に抑えなければならないが、満身創痍の私が向かったところで死にに行けと言われたも同然だ。
 けれど、ここで弱音を上げてしまったらと思うと、とても怖くなった。ただでさえ私は出遅れている。そのうえ、私のせいで人がさらに死ぬかもしれない。
 冷や汗がこめかみを伝う。すると夕陽を遮る形で、大きな背中が影を作った。
「いやいやいや、入学したての一年にそれはさすがにキツくないですか。それに俺も今日はこれで終わりなんで同行しますよ」
 私を庇うように立った吉田先輩が、抗議の声を上げてくれたのだ。涙が出そうになり、ぐっと唇を噛む。けれど非情にも、彼女の言葉は続いた。
「……大変申し上げにくいのですが通常任務ではなく、上層部からの命で五条さんを五条家との会食の場にお連れするよう仰せつかっております」
 えっ、と出かけた音を私は飲み込み、目が合った吉田先輩に向けて全力で首を横に振る。何度も説明している通り、五条家と私とは全くの無関係だ。
 それこそ五条くんに連絡すれば——、と一瞬クラスメイトの顔が頭に浮かぶ。しかし何をどう話して良いのかもわからず、また不機嫌になる彼のことを思うと、私はポケットのなかから携帯電話を取り出すことが出来なかった。
 押し黙ってしまった先輩と険しい顔をした補助監督を見れば、それは避けて通れないことなのだと察してしまったのも大きい。無知が罪であると最初に定義したのは、一体どこの誰だったのだろうか。
春雷 2話