これは確か、西陽の差す体育館でのことだ。悪印象を植えつけられた初対面は済んでいたものの、今よりもいくらか態度の柔らかい五条くんと私は並んで壁に凭れかかり、他愛のない会話をしていた。その延長だった。
「オマエどんな術式持ってんの」
「えっと術式……は、自分の呪力に炎の性質を持たせる、かな。今の貧弱な身体のままじゃ遠隔操作が出来るようにならないと、術師として使い物にならないってキッパリ言われちゃったけど」
「ふーん」
 硝子ちゃんの外したバスケットボールが、緩いバウンドを繰り返しコロコロとこちらへと転がってくる。私がしゃがんでボールを拾おうとすると、それよりも先に長い腕が伸びてきて、五条くんが大きなバスケットボールを片手で拾い上げた。
 そして少しのモーションで、軽々と天井に近い位置まで放り投げる。その軌道を追いかけていると、橙色のボールは私の目線の先で吸い込まれるように夏油くんの腕の中へとおさまった。ナイスキャッチ、と心の中で呟く。
「……つーかさ、むやみやたらに他人に術式のこと話すなよ」
「えっ、そうなの。ごめんなさい」
 このときの私は、先に聞いてきたのは五条くんなのに理不尽だなあと思った。けれど言葉足らずなだけで、彼はいつも先回りして私を危険から遠ざけようとしてくれていた。
 それに気付いたときには、全てが彼によって——。



「五条なまえで間違いないな」
「……はい、そうです」
 案内というよりは連れられるがまま、私はお座敷へ顔を覗かせる。すると威圧感のある白髪の老人と、同じく規律に厳しそうな短髪の中年男性が、彩り豊かな食事を前に向かい合って座っていた。
「こちらへ来なさい」
 語気はそれほどではないものの、老人の言葉には他人に有無を言わせないような力強さがあった。
「……わっ、」
 それでも一歩を躊躇っていると、後ろから補助監督の女性に背を押され、私は境界となっていた畳の縁を踏んでしまう。
 恨めしく後ろを振り返ると、薄情にも彼女は頭を低くし「私はこれで」とだけ言い残して去って行った。道中も「私の口からは何も言えません」の一点張りで、用件以外ひとつの情報も与えてくれなかったので、私に今後があるのならば彼女のことは一切信用しないことにする。
「そう怯えるな。何も取って食おうという訳ではない」
「……」
 正面に向き直ったものの立ち尽くしたままの私に対し、静かにお茶を啜って老人は続ける。
「それにお前にとっても悪い話ではないはずだ。食事をしながら、まずはこの男の話を聞いてやりなさい」
 促され、目線を少しだけずらした先の中年男性もまた、老人と同じように湯呑みに口をつけていた。横顔じゃ分かりにくいが、年齢は私の父より少し若いくらいだろうか。
「!」
 すると顔を上げた男性と目が合う。着物を身に纏い、凛とした姿のまま私を見上げる彼の容姿だけを表現するならば『日本人に寄った老けた五条悟』がピッタリだと思った。

 彼——五条平八郎さんの話を要約をすると、こういうものであった。
 まず彼には娘さんが一人いるのだが、ここにいる二人の言葉をそのまま使用すると『御三家である五条家に生まれながら、かろうじて呪霊を視認出来るほどの才能しかない』のだという。『女である以前に、相伝の術式を持っていないのならば家に残れないのは当然』で。私と近い年齢である彼女が十歳になる頃には、すでに分家へお嫁に出すことが決まっていたそうだ。
 話は変わって、今年二人の五条が高専に入学したことは、私が想像する以上に呪術界で大きな話題となっていた。六眼と無下限呪術をあわせ持った五条くんが注目を浴びるのは当たり前である。けれど一般家庭出身で五条家とは血縁関係がないはずの私の術式が、さらに事をややこしくしていた。
 驚くべきことに、彼らによると五条家相伝の術式のひとつに、炎を使役するものがあるのだという。私が術式を上手く行使出来ていないせいで断定しづらいのだが『五条』で『炎』となると、五条家のもので間違いないと二人は口にした。どれだけ否定しても脚色がつき続ける噂の原因を、私はようやく知れた気がする。
「私も報告書には目を通したが、血縁の証明は出来ていないが、結局のところ辿れなくなっただけで無い証明も出来ていないんだよ」
「え、そうなんですか……」
 五条くんから日頃あれほど五条家との無関係を言いつけられているため、無いものが当然であると私は思い込んでいた。しかしこれが真実ならば、私自身が彼に余程嫌われているから、無関係を主張していたという事になる。
「それに君が高専に入学を決めた理由も、呪霊によって家族を亡くしたからだと言うじゃないか。そのうえ呪霊と交戦した際に、君の術式で住んでいた家も全て焼けてしまったんだってね」
 バクっと大きく自分の心臓が跳ねたのがわかった。忘れた訳ではないのに、急に現実を突きつけられたような衝撃が私の胸に走る。
「家の者には遠い血縁と言いくるめる。五条家、いや呪術界での立場も約束しよう。私の娘として堂々と振る舞えばいい」
 全てのことを踏まえて五条平八郎さんは、私を養子に迎えたいと言った。それが今回の本題であった。

「……私の家族は、あの人達だけです」
 彼に伝えるべき一番の言葉は、きっとこれではなかった。しかし私の口からは、それ以上の言葉が出なかった。
 決して泣きたい訳でないのに、私の目からはポロポロと涙が零れ落ちる。まだ数ヶ月しか経っていない。心の整理すら済んでいない。私は亡くした両親を思い出になんて出来ていないのだ。
「……すみません、お手洗いに立ってもいいですか。……グスッ、顔を洗ってきます」



 こんな状態の私が席を外すことすら渋る彼らの態度を見るに、今夜イエス以外の返事は受け取ってもらえないのだと思った。逃げ出したときに受ける仕打ちも、五条家や上層部がどれほど偉いものなのかも、未だに私は想像の域を出ていない。
 それでも無駄に長い料亭の廊下をフラフラと進み、私はようやくお手洗いまで辿り着いた。無駄に装飾された鏡に目をやると、真っ赤に泣き腫らした醜い自分の顔が映っていた。
 しかしそこを通り抜け、私は個室の便器に腰を下ろす。感情が決壊したせいか極度の緊張状態が解けて、少し前から再びめまいが酷くなってきたのだ。
「ひくっ、……ぐすっ」
 未だに止めどなく溢れる涙が、覆った手のひらに広がっていく。今夜無事に高専へ帰してもらえるかも分からないのに、失った家族を想う事をやめられない。
 目を閉じていてもグラグラと回り続ける頭に、ついにはちゃんと座れているのか、自分がどんな体勢になっているのかも分からなくなってきた。このままこの場所から、永遠に立ち上がることが出来ない気さえしている。
 いっそのこと、それで全てが終わるのならば、それはそれで良いと思えてきた。私の愛した家族はもうこの世界には居ないのだ。










『——、——、——、』

 なんの音だろう。そう認識すると同時に、自分のポケットが振動していることに私は気がついた。
 顔を上げ、その場所に手をやる。頭が回らないため目視で確認すると、それは鞄に戻さずポケットへ入れっぱなしにしていた私の携帯電話だった。
 めまいで揺れ続けるなか、なんとか画面に表示された名前を確認する。クラスメイトの『五条悟』くん。私がここへ連れて来られる前、真っ先に思い浮かべた名前だ。
 それと同時に残る二人の級友の顔が浮かび、担任の夜蛾先生、今日の任務でお世話になった吉田先輩——と次々この数週間で関わった人の顔を私は思い出す。
 大勢が通る安全なルートから外れる事を、私は何より恐れていた。それでも高専に来た理由は、ずっと見て見ぬフリをして過ごした挙句、自分の無知と無力のせいで呪霊に両親を殺されたからだ。けれどそれが全てではない。
 私はあのとき、本当は誰かに助けてもらいたかった。だから私が行動を起こす事によって、声を上げられない誰かの何かが変われば良いなと願った。そのために呪術を学ぼうと思った。
 私は五条平八郎さんの養子にもならないし、このまま終わりたくもない。
 こんなときでも、五条くんに怒られる事を想像するとやっぱり怖い。けれど縋る気持ちで、私は通話ボタンを押した。
#04