五条くんとの通話が切れたあと、私は再びその場で顔を伏せた。
 あの二人から少しでも離れて、彼に見つけてもらいやすい場所へ。頭では思うものの、視界はぐらぐらと揺れ続けており身体が思うように動かない。
 そうして崩れて座っている間に、どのくらいの時間が経過したのだろうか。遠くの方からの怒鳴り声と、何かを叩くような重低音が頭に響いた。しかし私には、水中に潜っている時のように音がぼやけてハッキリと聞こえない。
 何度か繰り返されたのち、それが間近くから私を呼びつける声であり、強引に扉をこじ開けるための音だった。そう気付いた時には髪を引っ張られ、私は廊下に引き摺り出されていた。
「痛いっ、離して!」
「素直に頷いてくれたら良いものを」
「あっ!」
 再び二人の男性が待つ部屋へ投げ入れられたのだと理解したと同時に、また私を連れ回したのが同じ補助監督の女性であると認識する。彼女は命じられたただの送迎役ではなく、始めから完全にグルだったのだ。
「逃げ出す気力もなく、トイレで蹲っていました。今度は術が効きすぎたようです」
「マーキングの効果は」
「二週間程度は持続可能かと」
「それなら屋敷へ連れて帰る。やり方はいくらでもある。退学手続きは——」
「こちらで手を回そう。上手く言っておく」
「では謝礼はいつもの口座へ」
 背中を派手に打ちつけ、痛みで私はろくに声も上げられないまま、彼らによって身勝手に話が進められていく。その間にも私の身体は女の手によって、お札——ではなく呪符と習ったものが貼り付けられた布の上に転がされ、手際よく手足を順に縛られていた。
「生憎だが私は洗脳よりも拷問が得意でね。気が変わったらいつでも言いなさい」
 容姿だけを見た感想とは大きく変わって、私にそう告げたときの彼は、五条くんとはとても似つかない冷たい目をしていた。
 最後に布を噛まされると完全に力が入らなくなり、私はなす術もなくそのまま布で包まれていく。恐怖よりも諦めが勝っていたのだと思う。
「コイツさあ、俺のなんだけど」
 彼の声を聞くまでは。



「いつから目回ってたんだ」
「任務が終わって、帳を出てからわりとすぐ……」
 かなり悲惨な現場となった場所から私を抱き上げた五条くんは、返り血ひとつ浴びず身綺麗な姿のままで長い廊下を歩いていく。そして店の前につけられた車の前に立つと「大丈夫」とこちらへ言い聞かせて、彼は私を腕に抱いたまま後部座席へ乗り込んだ。
 車が発進してもなお身体が言う事を聞かず五条くんに上半身を預けていると、私を抱えてくれている方とは別の手で顔にかかった髪を耳に掛けられた。それから耳の縁をなぞったあと上部を掴まれ、くいっくいっと何度か引っ張られる。
「ったく、オマエもアイツ……吉田の目もそろって節穴すぎんだろ」
「ひゃっ、」
 そう言い終わると突然すぽっと耳の穴に指を入れられた。けれどそこから彼の呪力が流れてくるにつれて、私はめまいが落ち着いてくるのを実感する。彼らの言っていたマーキングとは、そういう事だったのだろう。
「いつかは拉致られると思ってたけど、身内が初犯とか俺マジで恥ずいんだけど。……つーかオマエさ、こんな目に遭うんだったら高専辞めれば?」
「……五条くん、あのね。私、身寄りがないの。だから——」
 夜に溶け込むような真っ黒なサングラスの奥で、彼と目が合ったのがわかった。あの人達が知れる程度のことならば、きっと五条くんも全て知っている。
「呪術界にいる以上今日みたいな事は避けて通れねーし、いくら五条と血縁がないつっても噂は付きまとうしオマエ弱いし、——呪術師やってるからには自分の目の前で人も大勢死ぬ。一般人の五条として生きた方がいくらかマシだろ」
 高速道路に入ったのか、私達は一定間隔で橙色の光に照らされおり、少し前から車は一度も停車していない。あの場から救出してもらい、抱き上げられたことで触れ続けている胸板からは、ずっと彼の心音が伝わっている。最初の頃よりも不自然に早くなった鼓動に、申し訳なくも私はホッとしてしまった。
「でも五条くんがここにいる限り、私のこと助けてくれるんでしょ」
「……まあね」
 あの人と同じように見下ろされていても、口調とは裏腹に彼はとても優しい表情をしていた。五条くん、言わせてしまってごめんなさい。



「やっとわかった!オマエのルーツ、五条川のほとりで米作ってた農民!」
 あの夜の出来事は何事もなかったかのように処理されるらしく、休日を挟んで私はいつも通り始業の十分前に教室へ足を踏み入れた。するとろくに御礼も言えていないというのに、珍しく早めに登校していた五条くんから開口一番そう告げられる。
 彼と顔を合わせるのはあの日以来である。翌日謝礼のメールを送ると、彼から事の顛末と私の身の振りを指示する電話があったのだが、用件が済むと一方的に通話を切られてしまったのだ。
 しかしついに私と五条家、というか彼との無関係が証明されたということで、五条くんは入学以来の大きなストレスからやっと解放されるのだろう。とても爽やかな表情をしていた。
「そうなんだ、私らしくて普通で良いね。調べてくれてありがとう、五条くん」
「!……べつに」
 当たり障りのない言葉を選んだつもりが私の返答のあと、なぜか五条くんは一瞬とても驚いたような顔をして、いつもの不機嫌な彼に戻ってしまった。何か私は間違えてしまったのだろうか。
 理由がわからなくて隣の硝子ちゃんを盗み見ると、口もとに手を当ててクスクスと笑っている。反対側の夏油くんはというと、もっと楽しそうに笑いを堪えていた。
 今回の件で、五条くんが私を危険から遠ざけるために、あれほど強く自分との関係性を否定したがっていたのだと、ようやく私にも理解できた。分かりにくいけれど、彼は優しい人なのだ。
 だからせめてもの気持ちとして、焼き菓子を鞄の中に潜ませてあるのだが、五条くんは素直に受け取ってくれるだろうか。
 しかし彼があの場で私のことを「俺の」と表現したことで、別の噂が広まっているとは。今の私達には知る由もなかった。
春雷 5話