呪術高専へ入学した当初から、眉の高さで切り揃えられた前髪は私のトレードマークだった。それが目に掛かってきた頃に美容院へ行き、また同じ位置で切ってもらう。付近にある高専生馴染みの店というものを先輩に教えてもらってからは、ワンコインでしてもらえる前髪カットのみでも通っていた。
 よく似合うねと最初に褒めてくれたのは、夏油だった。
 


 教卓に両手をついた夜蛾先生は、昨今の呪霊の発生源について散々嘆き、術師の在り方について熱い教えを説く。
 毎度の事なので、硝子と五条は机に肘をつき猫背の姿勢で。夏油は私と同じく背筋を伸ばして先生に顔を向けつつも、多分頭の中では違うことを考えている。
 本日は五分ほど過ぎたところで、今までの話に絡めるように、担任教師は本題の任務について語った。
「なまえ、行けるか」
「はい、大丈夫です」
「次に横浜市の——」
 ただでさえ少ない生徒数に加え、一般的な授業なんてこの学校ではほとんど行わなれないため、始業終業のベルは存在しない。用件がすみ次第、教室をあとにする先生の背中を見送ってから、私は思わずぼやいてしまった。
「明日午後から美容院予約してたんだけどなあ。無理かあ」
「無理だね」
 独り言のような呟きに返事をくれたのは、隣の席の硝子であった。夜蛾先生の長い話の時とほとんど同じ格好のまま、携帯電話をいじっている。付け加えるように、なまえはいい顔しいだから、と鼻で嗤う。
 嫌味でも何でもなく、事実なので仕方がない。顔を作り、本心とは別の相手にとって都合の良い返事をしてしまうのが私だ。
「さすがに『髪の毛切りに行きたいから任務は別の術師にお願いします』なんて言えないよ」
「そりゃそうだ。でもちょっとくらい嫌な顔してもいいと思うけどね。それにしても、あんた後ろもずいぶんと伸びてるね」
「うん、今回は前も後ろも切ってもらう予定だったんだ。予約どうしよっかなあ。来週は実家帰るし、前髪も」
 私も携帯を取り出し、カレンダーを確認する。一番早くて再来週の週末かあ。それだと待ち時間了承済で今から街に出て、前髪だけでもなんとかしてもらおうか。あーでも今日は寮母さんに夕飯頼んであるのに、戻ってないのもなあ。
 今でも視界を遮るそれを、私はとりあえず横へ流す。
「そんくらい自分で切ったらいいじゃん」
 これは硝子ではない。反対側から、前髪命の乙女に無理難題を押し付ける口は、やはりと言うべきか五条だった。どんな奇抜な髪型をしていようが、全てその美しい顔面で帳消しにしてしまうような男である。
「あのね、五条」
 私は彼に対し、ただ垂直に切られているかのように見える前髪が、いかに緻密な計算によって整えられているかを力説した。
 まずは私の髪の癖を理解してもらうのが第一条件だ。真っ直ぐストレートヘアではないので、少しうねる部分がある。そこを切り過ぎてしまうと、一部分短くなったり浮いたりするので注意してほしい。あと中央を切り揃えたところで目尻に掛けての角度が大事だし、切った後に重くなりすぎないように、すきバサミも入れなければならない。
 他にも諸々あるが、一見単純なようで、こんなにも高度な事が、美容師によって行われているのだ。
 可愛くも美人でもない女子だからこそ、ベストな状態を守るためには、素人は手を出さず、プロの手を借りるべし。何度かの失敗を経て、私は学んだ。

「……聞いてた?」
「あー聞いてる聞いてる」
 他人の話を聞くときは——、と正論を並べ説教たれてやりたかったが、五条は口も達者なのでやめた。言い負かされる事は目に見えている。
 さっさと部屋に戻って、大事な任務中に伸びた前髪が目に掛からないよう、巻く練習でもしておこう。その方がよっぽど有意義である。
 荷物をまとめ、席を立ったそのとき。
「ねえ、なまえ。前髪だけで良かったら、私にやらせてくれないかい」
 とんでもない台詞をはくのは、奥の方から切れ長の目を私に向ける同級生だった。
「夏油こそ私の話聞いてた!?」
「もちろん聞いていたよ」
「おい傑、めんどくせーのに関わらない方がいいぞ」
 有自覚煽りストの五条をキッと睨みつける。ベッと舌を出された。本当憎たらしい。
 まあまあ、と奥から私達二人を落ち着かせるようにした夏油は言葉を続ける。
「私もある程度長さがあるだろう?実は最近自分で切ってるんだ。結局くくっちゃうから、量だけでも減らしたいと思ってセルフカット動画を見ながらやってたら、案外ハマってしまってね。自信があるんだ。修正可能な範囲でしか切らないから、一度任せてくれないかい」
 こんな風に優しさを交えてお願いされると、私はNOと言えないのであった。


 専用のハサミまで購入したという夏油は、一通りの道具を持って教室へ戻ってきた。なぜか用がないはずの硝子と五条も残っている。絶対私達の様子を窺うためだ。暇人か。
 準備するよと手始めにゴミ袋を被らされ、私はてるてる坊主になった。膝の上にも切った髪を受けるために、口を開けたビニール袋を持たされる。
 両サイドから携帯のカメラを構えられている事にも気付いている。きっと想像以上にまぬけなのだろう。コイツら私を笑い者にする気満々である。
 それに比べ、夏油は至って真面目だった。てきぱきと支度を進め、私にも後ろの髪を結べだとか、サイドをピンで挟めだとか、あれこれ指示を出す。最終準備のため、前髪に櫛を入れてくれた彼は穏やかな口調で言った。
「いいよって言うまで、目つむっててね」
「わかった」
 視界を閉じると、より他の器官の感覚が研ぎ澄まされるようで、先程まで聞こえていなかった彼の呼吸音まで感じる。
 眉頭に指が触れ、髪が一束摘まれた。切るね、と同意を求めない一言のあとにシャキンとハサミが鳴った。

 目尻の方まで微調整がかけられたあと、ティッシュで顔に引っ付いているであろう髪を払いのけてもらっている。こうも近距離から同級生の男の子に、顔をまじまじと見られているのだと思うと、今さらながら恥ずかしい。見物人の二人が何も茶々を入れてこないのも、この時に限っては恨めしく思った。
「とりあえず長さを揃えたから、一度見てもらえるかい」
 ゆっくりと目蓋を上げて、私は手渡された鏡をのぞく。するとその中には、数週間前とほぼ同じ姿の私がいた。つまり大満足な結果を得た、私がいた。
「すごいよ夏油!期待以上の出来!」
「はは、ありがとう。ほんの数ミリ揃えただけなんだけど、そう言ってもらえて嬉しいよ。重くなってしまったから、真ん中だけすきバサミを入れておいた方がいいと思うんだけど、どうかな」
「是非お願いします!」

 この日から私は二、三週間おきの美容院通いをやめて、前髪のカットだけは夏油にお願いすることにした。今日みたいに教室で、寮の共有スペースで、何度か私は彼に大事な髪を預けた。
 術師としての等級が高い夏油が、私よりずっと多忙なことは理解している。だから気後れする部分もあったのだが、彼の方から「そろそろ切ってあげようか」なんて声を掛けてくれるので、日常の中のプチイベントは、数ヶ月経った今も継続している。
「夏油は何か今ほしいものない?五千円以内で」
「急にどうしたの」
「カットのお礼がしたくて。美容院へ払ってた五百円、数回分のお金がういてるの。何か食べに行くとかでもいいよ」
「私がやりたくてやっているのだから、なまえは何も気にしないで」
 明るい時間、二人っきりの談話室で夏油は言う。頭を撫でる大きな手が、私は好きだった。
 


 橙色の光が斜めにさす、高専内の広い廊下を私は歩いていた。今は夜蛾先生に頼まれた資料を、教室まで運んでいる最中である。男子二人が留守のなか断りきれない私が悪いのだが、うまく逃げおおせてしまう硝子も硝子だ。
「なまえ」
 名前を呼ばれて後ろを振り返ると、足音もなくすぐそばに五条がいた。最初の頃は驚きもしたが、半年以上も一緒に過ごせば、いい加減これにも慣れたものである。家庭の事情だなんて、気の毒でしかない。どこのゾルディック家だ、とも思ったが。
 横に並んだ彼に私も声を掛ける。
「静岡って言ってたけど、もう帰ってきたんだ。おつかれ」
「一瞬で終わったからな。移動時間の方が長かったわ。オマエは何してんの」
「担任からの頼まれごとで、教室までコレ運んでるとこ」
 私は両手いっぱい使って抱えた段ボール箱を揺らす。軽いから良いのだけれど、結構な距離を歩かされた。
「ご苦労さん」
 片手を上げたので、去ってしまうのかと思いきや、五条は私からそれをヒョイと奪った。そして並んでいた私を追い抜いて、スタスタと足を進めていく。いやいや、待って待って。
「あとちょっとだし、私やっとくから。五条は任務終わりでしょ」
「……人の好意くらい素直に受け止めとけよ」
 ぶっきらぼうな広い背中を追いかけて、二人分の長い影が廊下で重なった。

 足の長い五条の早歩きは、私の小走りと等しい。あっという間に教室へ到着し、彼は教卓の上にそれを乗せた。夕方の教室は、いつもより物寂しさを感じる。
「ありがとう」
 結局最後まで運んでくれた五条に礼を告げると、彼はサングラスを持ち上げ、目線の高さを合わせ私をじっと見た。
 何事かと一歩後退るも、五条は引かない。夕暮れ時の薄暗い教室の中でも、青い瞳は色を変えずに煌めいている。何かも見透かすような、この目が私は正直苦手だ。
「前髪、伸びてきてんな」
「あー、そろそろまた夏油に頼もうかなって思ってたところ」
 五条に問われると、さらに後ろめたさを感じて、それを手櫛で整えつつ彼から目を逸らす。
 夏油が気にしなくて良いと言ってくれているのにそう思うのは、私に邪な気持ちがあるからだろうか。
「なまえ、ちょっとだけ目つむって」
「えっ、なに」
「いいから、いいから」
 夏油の時と違い、恐る恐るといった動作をしてしまうのは、私が彼の空気にのまれているのか、はたまた日頃の行いを振り返っての事なのか。
 言われた通りにすると、すぐに冷たいものがおでこに当たった。多分五条の指先だ、と思っていたら、ごそごそと衣服の擦れる音がする。そのまま髪を掬われ、分け目になった部分を引っ張られる。この感覚は、あれ、コレって——。
「もう目開けてもいいよ。良かったら使って。……じゃあな」
 呆然と立ち尽くす私を置いて、五条は教室に背を向ける。
 彼の姿が見えなくなってから、ポケットに忍ばせていた手鏡でそこを映すと、主張の少ないリボンのついたヘアピンで、私の前髪は留められていた。



 翌朝、登校前。私は勇気を振り絞り、五条がくれたリボンのピンで、重い前髪を留めた。おでこを出すのはあまり好きではない。というより、似合わないと思っている。
 けれど昨日夕陽に照らされ、赤く染まった私の顔は、それほど悪くなかった。

 扉を引き、黒い制服姿の背中におはようと挨拶をする。
「おはよう。……あれ、なまえ。珍しいね。今日はピンで留めてるんだ」
 教室に居たのは夏油だけだった。少し拍子抜けしたが、心臓はまだバクバクと音を立てている。
 五条とどんな風にして顔を合わせたらよいのか悩んだ反面、いつも前髪を切ってくれる、夏油に対する裏切り行為をしたような気持ちを抱えながら、私は今日ここまでやって来たのだ。
「あーうん、もう目に掛かってきちゃってて。たまにはと思ったんだけど、どうかな」
 スカートの裾を握りながら、私は彼に問う。
 五条に貰ったとは、わざわざ言わなかった。それでも夏油なら、お世辞でも優しい言葉を掛けてくれると私は信じていたのだ。
「そうだね、悪くはないとは思うけど、私はいつものなまえの方が好きかな」
「……そっか」
 皺になることも厭わず、布を握る手の力は無意識のうちに強くなっていた。席につかなくてはと思うのに、足は動かない。
「今日の夕方私の部屋においで。いつもみたいに整えてあげるよ」
 いい顔しい、という硝子の言葉が頭の中で反復する。
 下から見上げるように私を見つめる黒い瞳は、慈愛に満ち溢れている。重ねられた掌を私から払いのける事は、きっと一生出来ないのだと思った。
幸運の女神には前髪しかない