向かう先々で下げられる頭にうんざりしつつ、久方ぶりに訪れた実家の無駄に長い廊下を抜けて、僕は自室を目指す。数ヶ月前のまだ寒い頃、任務のついでと称して制服姿のなまえを連れて帰って来たのが最後の記憶だ。
 部屋の扉を開けると換気をしていないせいか、湿気を含んだ初夏の暑さが押し寄せる。幼少期を過ごした部屋の懐かしい香りに一瞬気が緩んだものの、入り口から一際目立つ場所には当時としては見覚えのないものが存在していた。
 近くに寄りそれを手に取る。頼んでいないのに用意されていた、黒のジャケットスーツ一式である。端的に言うと、この部屋には僕以外の誰かの手によって喪服が掛けられていた。
 まさに全国を飛び回る真っ最中。一昨日の晩死んだ叔父の葬儀のため、僕はこの家に呼び戻されたのだった。

 細長い黒のネクタイを締めて、寸分の狂いもなく仕立てられたスーツのジャケットまでを羽織り、僕は部屋を出る。すると呼んでもいないのに、真正面には昔から僕の世話役を務める女中が待ち構えていた。
 彼女は腰が曲がり背が足りないのも承知で、その場で僕を屈ませて手早く身なりを整えていく。ネクタイピンの微妙な位置まで口煩く言うのだから、本当に困ったものだ。
 それで終わりかと思いきや、今度は廊下を行く僕のスピードに遅れをとることなく、家の者からの伝言と本日の即席のマナーを叩き込まれる。悟様は甥という立場ですので、なんたらかんたら。ポケットの中の数珠について、それに合掌の作法について、うんたらかんたら。相変わらず頭も口もよく回る婆さんだ。
「はいはい、よく知ってるよ。人がよく死ぬ仕事をしてるからね」
「親族の葬儀と一般参列はまた違いますからね。きちんと挨拶なさるようにと。……あとなまえ様も、すでにご両親とお見えです」
「そうなんだ。それこそきちんとご挨拶してくるよ」
 今度こそ、ばあやを振り切る形で僕は中庭を空から横断した。



 僕のサングラスのレンズには今、高専の制服姿でうつむき加減となった、なまえの横顔がうつっているのだろう。毎回否が応でも家の者の注目を集める彼女のことだ。時間も早いため身内の控え室にでも招かれているのかと思いきや、少女は両親の後ろに隠れるようにして一般の参列者のなかに紛れていた。
 あらかじめ彼女から、式に参列するという連絡は受けていた。だが今回は公にされていない僕の婚約者という立場ではなく、呪術界において五条家と親交のある苗字家の一員として、親に連れられ彼女はやってきたようである。
 元々僕の親となまえの親との関係性ですら知らないので、叔父との生前の関わり合いについてはさらに僕の知るところではない。しかし彼女の家が、御三家のなかでも五条家の派閥に属していることは確かだ。
 僕の姿にいち早く気付いたなまえが父親の上着を引っ張ると、彼はこちらへ顔を向けた。僕も雑踏を振り切り、彼らのところへ向かう。
「ご無沙汰してます」
 僕から声を掛けると、なまえの両親は他人行儀に深々と僕に向けて頭を下げた。そして代表して彼女の父親が口を開く。
「この度はお悔やみ申し上げます。そして常々娘が大変お世話になっております」
 丁寧な言葉選びのわりには、彼の口調にはあまり感情が込められていなかった。
 呪術界には私利私欲を満たすため、自分の娘を僕の嫁にと好き勝手に口にし、胡麻を擂り馴れ馴れしく擦り寄ってくる汚い人間が多数存在する。しかし彼女の父親に限っては、都合良くそこには該当してくれないようで。つまるところ、僕はこの人に初めからあまり好意的に見られていないのだ。
 それなりの実践教育を屋敷内で受け、元々高専にすら入れるつもりもなかった箱入り娘である。なまえは僕に手を出されるまで、変な虫一匹たりとも寄せつけず、蝶よ花よと育てられた女の子だった。彼にとっての僕は、そんな可愛い一人娘をかなり強引な手段で奪い盗っていった憎い男でしかないのだろう。それは嫌いたくもなる。
「こちらこそ」
 そのあと一言二言、彼女の両親とは軽く挨拶を交わし、なまえには耳元で「あとで迎えにいくから帰らないで待っててね」と囁いた。
 それに対し彼女の両親はギョッとした顔で僕を見たが、やましいことは何ひとつなく、ただただ一緒に呪術高専へ戻るだけである。今回の不幸事により、列車移動が続く緻密に組まれた任務のスケジュールが全て狂ったので、僕には一度東京校への帰還命令が出ているのだ。有難迷惑なことに、今日の葬式には高専関係者も多数出席しているので車の手配もバッチリときた。
 ちなみに向こうの親に連れられなまえも式に来ると聞いてから、じゃあ戻るときだけでも一緒に帰ろうかと、彼女とは事前に打ち合わせをしてあったのだが。このあとの予定として、少女の口から両親には伝えていなかったのだろうか。
 離れ際にぽんぽんと肩を叩くと、こちらの気も知らずなまえは僕に、はにかんだ笑顔を見せるのだった。
Waning moon @