「どうしたの、もう眠いの?」
「ちがう。もっとパパとあそびたい」
 口ではそう言いながらも、むちむちの腕が目もとを擦る。ちぐはぐで微笑ましい息子の姿に、僕は自分の口元が緩んでいることを実感した。
 今夜、妻であり母親であるなまえはいない。彼女がポツリと漏らした言葉に僕が肯定を示したことで、親しい友人との食事会へ数年ぶりに出掛けて行ったのだ。
 なまえは気にして、なんだかんだと行けない理由を口にするものだから、僕が責任を持って息子を見ると告げた。外で働き詰めの僕に親子水入らずの時間と、朝から晩まで家事と育児に追われる彼女に息抜きを。これぞ相互利益をもたらす条件である。
 だから高専の人間には絶対に連絡してくるなと言ってきた。

 なまえは後ろ髪を引かれるように玄関を出て行った。けれども親の心配をよそに、息子は見送りの時に少しグズりかけただけで、それ以降は案外ケロッとお利口さんに過ごしていた。ママという単語を時折発するものの、その代わりに僕が居ることを理解しているようである。
 こども番組が終わったタイミングで、彼女が作っていった夕飯を二人で食べた。ごねる前にさっさと風呂にも入れた。それから風呂上がりにジュースを与えた対価として、歯磨きも終わらせた。
 これで眠る準備は万全に整えたと、なんでも出来てしまう自らの手腕に惚れぼれとする。しかしこのあと僕は、子どもという無限の可能性を持つ生物に対し、読みが甘かったことを痛感する羽目になった。
 電車ごっこに積み木遊び、パズルとミニカーレース。現在この部屋には遊びきった軌跡が、床に散らかり放題となっている。絵も描かされたし、絵本も音読させられたっけ。
 全てに全力で、これだけの事になまえが付き合っていると思うと、本気で頭が上がらないと思った。母親である彼女は、文字通り息子と四六時中一緒に居るのだから。
 だが疲労はあるものの、不思議と嫌悪は一切なかった。本当に今更だが、僕がなまえに抱き続ける愛しさとは別の愛情を自分の中に自覚する。我が子はゆえ、というのは本当らしい。
「パパもまだオマエと遊びたいよ。けどね、久しぶりに一緒にねんねもしたいからさあ。おしっこだけしてお布団行こ」
「うん」
 返事の仕方は僕そっくりだ。けれど腕を広げると、そこへ向けて伸ばされる小さな手と僕を見上げる丸い目は、なまえそっくりだと思った。

 トイレへ連れて行ったあと、僕は息子を抱き上げ子ども部屋へと向かう。彼女が事前に敷いてくれてあった幼児用の小さな布団へこの子を寝かせ、自分は普段なまえが使っているであろう敷布団に横になった。夫婦のベッドとは別の柔らかな香りがする。僕にとってとても安心感のあるものだと感じた時に、彼女の寝顔が浮かんだ。
 僕は腕を伸ばし、掛け布団の上から仰向けの息子の胸を優しく、そして緩やかにトントンと叩く。抱っこしたとき手が温かかったので、もう間もなく眠りにつくだろう。このほのぼのとした空気感に、僕も一緒に寝落ちしてしまいそうだ。
「ねぇパパ、赤ちゃんのときのこと覚えてる?」
 薄暗闇の中、言葉とともに閉じかけていたまぶたが突然見開く。僕とは違う深い色の目は、強い意思を持ってこちら見た。けれどそれは一瞬で、再び虚なまばたきに戻っていく。
「んー、覚えてないかな。今のオマエより、もうちょっと大きくなってからの事なら、わりと覚えてると思うけど。急にどうしたの?」
「パパに聞きたいことがあって」
「なあに?」
 こういう時は無理に切り上げようとせず、気持ちよく話させておくとそのうち眠ってしまうという事前情報を、僕はなまえから得ている。案外ちゃんと理解しているので適当な相槌ではなく、時間稼ぎのつもりで自分の話も少し織り交ぜながら返答すると、なお良いらしい。
「僕がまだ赤ちゃんでさあ、パパとママの部屋でちっちゃいベッドで寝てたときあったでしょ」
「あったねえ」
「そのときパパとママ、二人でなにしてたの?」
「え゛っ、」
「ママはイヤとかヤダって言ってるのに、どうしてパパはママに意地悪するの?本当はママのことキライなの?」
 息子を覗き込むと、不安の色を滲ませた大きな瞳と視線がかち合った。ベッドの上で眠る以外の事をしていたとなれば、答えは自ずと見えてくる。だが言い逃れは……させてもらえそうにない。沈黙が長くなればなるほど、僕の次の言葉が嘘臭くなっていく気がした。
「……パパは、ママのこと大好きだよ。もちろんオマエのことも」
「わっ!」
「こうやって一緒にねんねしたら、ぎゅーってしたり、ちゅーしたくなるくらいに」
 抱き寄せた息子の額と柔らかいほっぺたに僕はぶちゅっ、ぶちゅっと連続で唇を押し当てる。すると彼は目を細め、くすぐったそうに小さな身体を捩った。
「もう、やーめーてー」
「本当に嫌?多分ママもそれと一緒だよ」
「恥ずかしぃー。きゃはは」
 腕の中で無邪気に笑う息子と共に僕が眠ったのは、結局それから一時間以上あとのことだった。むにゃむにゃと言いながら擦り寄ってきた小さな身体を抱きしめ、自分も意識を手放した。とても穏やかな気持ちだった。
 だから夜中ふと目を覚ました際に、ひとりさみしく幼児用の布団で身体を丸めて眠るなまえの姿を見るとは思いもしなかった。
子ども部屋