長針が五に重なったところで、仕事は半端なところであったが、彼女は椅子から腰を上げた。
右足を引きずりながら机をつたい、出窓の近くへと寄る。なまえがレースカーテン越しの黒い人影を視認したとき、タイミングを測ったかのように、コツコツと二回控えめな音で窓ガラスが鳴った。
彼女はすぐそばで待機していたにもかかわらず「はーい」と少し高めの声で返事をしてから、窓を大きく開ける。
「お疲れさまです。こちらが追加分になります」
「わざわざありがとう」
室内にいる女は手慣れた様子で、同性の補助監督から窓枠越しに茶封筒を受け取る。あまりない光景だが、渡し手である補助監督も、何かを気にする素振りもない。
玄関のチャイムが鳴ってから部屋を出ていると、彼女の右足は、やはりそれなりに時間が掛かってしまう。かと言って、連絡を受けたあとに玄関近くで相手を待っていたことを悟られたくもない。
だから、何度かこの家を訪ねた事がある補助監督のみ、家の裏へと回って直接彼女の部屋の窓を叩いてもらうようなまえは頼んでいた。
「それからチョコレートのお裾分けです。良かったら食べてください」
「嬉しい、いつもありがとう」
「こちらこそ、先日の紅茶は絶品でした。じゃあまた夕方にお邪魔するんで、よろしくお願いします」
「はーい。あっもし、悟が帰ってきてたら……」
「今度は玄関からですね。私に連絡下さい!」
「ありがとね」
快い返事をくれた補助監督の背中に手を振って、彼女はカーテンをひいた。
借り入れ中である一室の窓から、客人とのやり取りを行う事について。心象が良くないと思ったのと、これ以上自分に対する余計な気苦労をかけたくないという遠慮から、なまえは内密にしたがっているようだが、家主の五条には全てお見通しであった。
それでも五条が敢えて口を出さないのは、自分が家に居ない時間の方が圧倒的に多いからで。
業務で彼女を訪ねて来る人間は、ほとんどが手渡しで事足りる用事だ。なので、足の悪い女にとって、移動距離の少ない自室の窓から呼んでもらえる方がやはり楽だと、彼も察している。
未だに梱包されたまま同室に放置してある、冷蔵庫をはじめとした家電製品の数々を指差して「今さら入口から一番近い部屋に変えてくれとは、悟に言えない」と、馴染みの補助監督に漏らしていたと耳に挟んだ時は、男も多少の罪悪感を感じた。
さらに裏目に出てしまったのが、以前書類の取り違えがあり、すぐさま引き返してきた補助監督が、玄関の土間との段差に手こずるなまえの姿を見て、家の中まで入ってきたというではないか。
だから隠し事にされている、多少気に食わない事にも、五条は敢えて目をつむっている。彼も彼で、玄関までの長い距離を出てきたなまえの介助を目的に、不要に宅へ上がり込もうとする輩を可能な限り減らしたかった。この高専内で、さすがに窓枠を乗り越えてまで、無理に室内への侵入を試みる人間は少ないだろう。
部屋の主である彼女が許可してそのような行為に及んだというのなら、余程の緊急事態だったと見込み、許してやろうと思っている。
:
すでに高専内に戻って来ているのに、上層部からの呼び出しにより、帰宅出来ない事実に五条は苛立っていた。
彼への苦情として、上手く硝子の後ろに隠せたと思っていたなまえの事まで、蒸し返すように議題へ上げてくるものだから、さらに怒りは募る一方である。
最終的に多少強引な啖呵を切るようにして、男は場をあとにした。
ようやく自宅へと辿り着いた五条は、暗がりの廊下を通り過ぎ、灯りのともるリビングの扉を引く。「おかえり」という声は奥のキッチンからで、なまえはキャスター付きのカウンターチェアに座りながら、コンロ前で火の加減を見ていた。
「ただいま」
そう言葉にした彼は、カウンター裏へ回ると、すぐさまに椅子に座ったままの彼女を腕の中へとおさめてしまった。ぎゅっと音がしそうなくらい、強く自身の胸元へ押しつける。
「どうしたの」となまえが問うても「んー」という気のない返事が戻ってくるだけだ。
いつもの様子との違いを感じた女は、隙間から手を伸ばし、コンロの火を止めた。
五条が何も話したがらないため、なまえも敢えて自分から口を開かない。木々のざわめきすら通さない静かな室内で、どれくらいの時間、二人はそうしていたのだろう。
「ねえ、なまえ。人並みの幸せって何だと思う」
幾許かの沈黙のあと、五条は彼女に訊いた。この言葉は彼にとって、大きな決心が込められていた。
「そうだねえ、美味しいご飯が食べられて、どこへでも行ける健康な身体があることかな」
予想に反して、悩むことなく穏やかな口調で返事がかえってくる。
「……じゃあなまえは今不幸せなの」
彼の不安を纏った声色を知っているのは、彼女だけである。
だからそれを和らげるように、なまえは自分の耳を、彼の心臓に近い位置へ持ってきた。彼の安堵を知るのも彼女だけだ。
選んだ言葉ではなく、今の素直な気持ちをなまえは口にした。
「怪我を負った事は不幸せだったけど、こうして悟と暮らせている事は幸せだよ」
それを聞いた五条は、そのまま彼女の身体ごと抱き上げて居間まで移動した。ソファーへと腰を降ろし、向かい合うようになまえを改めて自身の膝の上へと乗せる。
早急に目元を覆う布を取っ払うと、いつもするように、男は女の頬に手を当てて目線を合わせた。
「じゃあさ、なまえがもっと幸せになるために、例えば僕と結婚するのはどうかな。君の今の仕事には一旦キリをつけて、僕が家に居ない時間のぶん、どこへでも一緒に行けるように手配するから。国内、いやいっそ海外まで、全て共に行こう」
「……それは悟にどんなメリットがあるの。私は言葉通り、足手まといにしかならないのよ」
「僕が思う存分、なまえと一緒に居られる」
橙色の柔らかい光の中でも、五条の空色の瞳は燦々と輝いていた。
:
それから数日後の早朝、高専内の私有地に建つ一軒家のチャイムが鳴った。
一人家に残っていた女が玄関扉を開けると、足の怪我を負った日に同じ任務に出ていた術師が、なまえのことを迎えに来ていた。