校舎から寮へと戻る途中、隣を並んで歩く伏黒に虎杖が問う。その言葉に強制力はなかったが、友人から脈絡もなく口にされた事柄に答えるべく、伏黒も同じ方向へ視線を向けた。
彼が目を細めると、そこには均一な石畳に沿って悟の少し後ろを歩く着物の女性がいた。既視感のあるその姿に、尋ねられた伏黒は記憶の糸を辿る。
「……あの人は、五条先生の親戚のなまえさんって人。一応術師だよ」
「へえ、綺麗な人だな」
悟の日本人離れした容姿とは異なるものの、彼女は彼女でまた違った美貌の持ち主であった。どこか緊張した面持ちをしているが、憂を帯びた表情は目を惹く儚さがあり、少年の目に留まった理由にも納得がいく。しかし悟の後ろを歩く仕草は控え目でありながら、しゃんと背筋が伸びた着物姿はやはり御三家五条の血筋を思わせた。
少しの時間、伏黒と虎杖はなまえの事を目で追っていた。だが自分達が建物の角を曲がるタイミングで視線を外し、自然と次の話題にうつる。ただ遠目に見かけたというだけで、伏黒にとってなまえについての話はそこで終わったはずだった。
その日の晩、シャワーを浴び終え部屋に戻った伏黒は、机の上のスマートフォンが着信を示していることに気がついた。画面には『五条先生』と表示されており、時間帯も含め彼は妙に胸騒ぎがした。
だが無視したところで、しつこく呼び出されることは目に見えている。最悪の場合、部屋にも乗り込んでくるかもしれない。伏黒恵にとって五条悟とはそういう男だ。
彼は意を決して、通話ボタンをスライドさせた。スマホの黒い画面が通話中に切り替わる。
「……もしもし」
『あー、恵?悪いけど、今すぐ僕の部屋に来てくんない?結構手こずっててさあ』
「五条先生が手こずるって、一体何の用ですか」
『なまえだよ』
悲壮感漂う気配とは程遠いものの、悟の言葉はそれ以上続かなかった。無言になった通話口の後ろからは、泣き叫ぶような甲高い声が聞こえる。それにゴソゴソという衣擦れの音も。まるで手足を押さえつけられているような——。
少年は項垂れ、溜息を吐いた。
「……行きます」
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「恵くん、小柄なのに手は大きいね。きっと将来背も伸びるよ」
しゃがんで幼い子どもに目線を合わせるようにしたなまえは、自身の両手で伏黒の手をとる。なんの恥じらいもなく、細い指先でふにふにと手を揉まれるのは彼にとって、こそばゆい思い出のひとつであった。
少年が不貞腐れるようにそっぽ向いても不思議そうに首をかしげる仕草や、素直になりきれない小さな背中を押した優しい手。毎回先に眠ってしまう穏やかな寝顔と、目覚めて最初に見せてくれる柔らかい笑顔。全てが彼へと鮮明に刻まれた記憶である。
そして悟の呪力に当てられて、伏黒よりもさらに幼い年齢に戻ったかのように感情のまま暴れ、泣き喚く彼女の姿も。
「どう?落ち着いた?」
「少し前に眠ったところです」
伏黒の膝の上に横向きで頭を乗せたなまえは、彼の服の裾をしがみつくようにギュッと握ったまま目を閉じていた。頬と目尻には涙の痕が残っており、身体を抑止するために無理に掴まれたのか、着物の肌着から覗く手首は赤みを帯びている。
「今回は何をしでかしたんですか」
「いやあ、生でヤったら僕の呪力まで余分に滲み出ちゃったみたいなんだよね。久々に会えたなまえがあまりにも可愛くてさー。アハハ」
「教え子の前でそんなこと、あけすけに話さないで下さい」
伏黒は眠り続ける彼女を、のんきに笑う男の目線から隠すよう腕で覆う。彼が手ずから整えた乱れた肌着も、悟の手によって一度脱がされて再度着せられたものであった。
「僕が昔からなまえのこと、海よりも深く愛してるのは恵も知ってるでしょ」
「だからって呪うかよ」
五条悟は幼い頃、五条なまえを呪った。どんな大人も呪いをかけた悟自身も認識出来なかったが、なまえはある日を境に突然見えない何かに酷く怯えだした。
ではなぜそれが呪いで加害者が悟だと判明したかというと、どんなに遠くに居ようと決まって彼が呪術を行使したタイミングで、なまえの前には何かが現れたからだ。そして少女は発作の最中に悟を指差し、彼女はそれの姿を彼と重ねた。
その事実に、屋敷の人間全てが腑に落ちてしまった。それくらい幼い悟のなまえに対する執着は異常だった。
「五歳の頃、三歳のなまえをどう呪ったかなんて今の僕に分かるわけないじゃん」
「だとしても、でしょ」
「そんなことより。——返して」
「……」
「ほら」
伏黒は眠り続ける女を抱き上げ、立ち上がった。そして不信感を抱きつつも、座ったまま両腕を広げて待ち構える悟へなまえを差し出す。
すると彼はすぐに自分の腕のなかへ彼女を仕舞い込んだ。そして愛玩動物を愛でるかのように、口づけを落とし頬擦りをする。伏黒はそんな男の姿に再び深い溜息を吐いた。
なまえに何かが見え出した時の対処法は至って単純で、悟以外の呪力で彼女を覆うことだった。当人以外には存在しないものとなるとやはり幻覚に近いのか、はっきりと「いなくなった」「悟に戻った」と口にした時もあった。
ある程度年齢を重ねるにつれてなまえも悟の呪力に耐性がつき、彼が術を行使する度にという事はなくなったのだが、未だに解呪には至っていない。そして今回のように悟の呪力に当てられて一度何かが見えだすと、幼少期の記憶がフラッシュバックするのか、彼女は我を忘れたように怯え、それを全力で拒絶した。即ち悟を拒んだ。
「いつになったら僕らはちゃんと結ばれるのかな」
「五条先生にとって、全部どうでも良くなった頃じゃないですか。それか何かしらの事故でなまえさんの存在を忘れるか」
「一生無理じゃん」
腰を落とした伏黒は、昔なまえに褒められた頃よりもさらに大きくなった手で、彼女に触れた。そして再び呪力を注ぎ込む。
すでになまえの身体は、悟によって伏黒の触れた箇所全てが上書きされつつあった。だから彼にとって、これは彼女が目覚めたときの保険のつもりだ。
悟のなまえに対する執着は、伏黒の知る一番古い記憶から何も変わっていない。