「明日っていうか今日だけど、朝からどっか出掛けよっか」
 私の膝に頭を乗せて目蓋を下ろしたのでこのまま眠るのかな、と思いきや重なった白い睫毛が持ち上がり、青色の眼がこちらを見つめる。
「……いいの?」
「いいに決まってるじゃん。逆になんで?」
「悟さん、いつも忙しくしてるみたいだから」
 私がそう言うと彼は軽く頬を膨らませ、ふぅと息を吐いた。そして膝の横で投げ出されたままになっていた私の指先に触れる。
「だから息抜きが必要なんでしょ」
 彼はそう言いながら強制とはかけ離れた、とても弱い力で私の手を引いた。けれどすぐに絡まった指は外され、今度は彼の頬の上で同じ大きな手が覆いかぶさる。眠気をはらんでいるのか、いつもより少しだけ彼の体温が高い気がした。
「でもお出掛けしたら身体は休まらないよ」
「気持ちを休日にしたいんだよ。それに僕って、そんなに寝なくても平気なんだよね」
 確かにそうだ。今夜の時刻もすでに午前三時を回っているが、彼はいつも私より遅く寝て私より早く起きる。そのうえ私の手に擦り寄り撫でられる頬は、本当に陽の光を浴びているのか懐疑的になるほど白くきめ細かく、時々心配になる。
「それでもちゃんと休んでほしいな」
 反対の手で髪を手櫛で梳いてあげると、悟さんはとても嬉しそうに笑った。彼の方が年上のはずなのに、ここまで嬉しそうにしてくれると私よりずっと幼く思えてくる。
「そんなに僕と出掛けるの嫌?」
 まさか、と私は首を横に振った。
「なまえは家で過ごす方が好き?」
 うん、と私は頷く。そのうえで「でもね」と続けた。
「家で過ごすのも好きだけど、お出掛けも好き。誘ってくれてありがとう」
 休職してからというもの本来働いていた時間に出歩くことに対し、私はひどく罪悪感を抱くようになっていた。仕事にも行かず、好きな時間に起きて好きなように食べて眠る。特定の誰かではなく社会に、そんな生活を送っていることを知られたくないと思っているからだ。
 自分でも分かっている。全くおかしな思想である。世間の誰も私に関心なんて持っていない事も知りながら、そう考えることを止められないでいた。



 悟さんが来ると私は毎回布団を一組フローリングの上に敷くのだが、必ずと言っていいほど彼は狭いベッドで一緒に眠りたがる。私が眠るための支度を整えるまで、彼は敷き布団のうえでスマホを触ったりテレビを見たりしているのに、いざ部屋の照明を落とそうとすると絶対に潜り込んでくる。
 理由を聞いても「一緒に寝たいから」とか「くっついていたい」だとか、その時々によって言葉は異なるが、私に好意的なのは間違いないようだった。その晩も悟さんに押し込まれる形でベッドへ横になったが、結局私は彼に縋るように眠った。
 夢か現実かよくわからない夢をみていた。瞼の裏で朝陽を感じる。悟さんはやはり私より先に目を覚ましていたのか、おはようと掛けられた声はずいぶんとハッキリしていた。私が起き上がるのに合わせて、背中に回されていた腕が外れる。それでも急かされることはなく、私の支度が整ったのを彼が待った形で私達は部屋を出た。
 街へ出てブランチを食べて、久しぶりに生活必需品以外の買い物をした。平日でイベントの隙間であるデパート内は比較的空いており、ゆっくりと散策することが出来た。
 今私達がアフタヌーンティーを楽しんでいるお店も、休日なら予約だけで満席だろう。街を見下ろせる素敵な窓際の席へ、私達は案内された。ピンク色のマカロンが彼の口の中に消える。
「美味しいね」
「うん、全部おいしい。本当にありがとう、連れ出してくれて。あといっぱい買ってくれて」
「僕はもっとなまえからねだってほしかったな」
「充分お願いさせてもらったよ」
 私も彼の真似をしてマカロンを手に取った。ぱくっとひと口で、甘みに包まれながらベリー系の酸味が程良く顔を出す。お世辞ではなくケーキスタンドに並んだスイーツはどれも一流で、マカロンを美味しいと思ったのは実は初めてだった。
「このあとどうする?映画でも観てから帰る?それとももう疲れちゃった?」
 大方食べ終えてしまった彼は、私に問いかけた。疲れていないといえば嘘になる。でもへとへという訳ではない。
 だがそろそろ切り上げ時だと思った。街には学生の姿もちらほら見かける様になり、これから夕方にかけて帰宅ラッシュも始まるだろう。多くの人に揉まれるのは、きっと今の私じゃ難しい。
「久しぶりにお出掛けして、はしゃぎ過ぎたかも。帰ろうかな」
「そうだね。どうせ夜になったらお腹空くし、デパ地下で買い物だけしてこっか」
「うん、ありがとう。お惣菜店でエビチリ買ってもいい?」
「本当なまえって辛いの好きだよね」
「エビチリはそこまで辛くないと思うんだけどなあ」
 サングラスの奥で細められた目は、とても優しいものだった。窓から見えるいわし雲が少しずつ橙色に染まり始めている。悟さんはどこまで私の本心を見抜いているのだろうか。

 デパート地下の惣菜売り場だけでなく、彼おすすめのスイーツ店にも寄って私達は帰路につくことにした。私の住んでいる部屋は駅から近いことだけが取り柄で、行きと同様電車で帰るのかと思いきや彼はタクシーをひろってくれた。
「いっぱい荷物持ってるじゃん」
「結構遠いよ」
「別に急いでないし、ゆっくり帰ろ」
 最後に買ってもらったケーキの白い箱以外、旅行者でもないのにトランクに荷物全てを乗せて私達は後部座席に並ぶ。
 タクシーが発進すると、運転手さんから隠れて彼が手を握ってくれた。最初は普通にそうしていたのに、途中から私の上に重ねた親指で手の甲に悪戯しだしたので、思わず悟さんを見上げる。すると彼は何食わぬ顔をして、街の景色を見ていた。私はむず痒かったけれど、悶々としながら彼と同じように振る舞うことにした。
 そんな風にタクシー自体は順調に走っていたのだが、時間が経つにつれてある意味想定通り、夕方の渋滞にはまってしまった。信号待ちでもないのに、この五分間で進んだ距離は路面店の一店舗分で、どんどんメーターの数値だけが上がっていく。彼はあまりお金に頓着のない性格のようだが、今日一日のデート代もこのタクシー代も私にとってはとても大きなものだった。
 私がそわそわし出したことに気がついたのか、悟さんは「どうしたの?」と尋ねる。
「ねぇ、ここからならマンションまで裏道抜けて十分くらい歩くだけだし、降りたほうが早いと思うんだけど」
「そうなの?僕あんまり土地勘なくて、今どの辺なのかよく分かんないや。でも荷物も多いし前まで乗せてもらおうよ」
「私も持つから、ね。——すみません、もう近いので止まってもらっていいですか」
 彼は納得がいっていないようだったけど、ドライバーさんが降車の準備をしだしたので、渋々といった様子で私に合わせてくれた。支払いをしようと、私は悟さんの手を解いて財布からクレジットカードを出したのだが、やはり彼は払わせてくれなかった。

「僕本当に分からないからなまえについてくよ」
「うん、任せて」
 無理矢理片腕でほとんどの荷物を持ってくれた彼と、再び手を繋ぎながら路地裏と呼ばれる道へ入っていく。日も落ちかけており、本格的に暗くなると私まで迷ってしまいそうなので少し急ぐことにした。
「なまえはこの道よく通るの?暗いし人通りも少ないし心配だな」
「たまにね。それも日中だけだし」
 前半が嘘で、後半は本当である。用事で仕方なく出る平日の昼間は、どうしたって後ろめたくて人の目を避けたいと思ってしまう。
「ふーん。でも僕が嫌だから出来るだけ通らないでね」
「明るい時間はそんなに危なくないと思うけど」
「そんなの分かんないじゃん。可愛い女の子が路地裏にスッと連れ込まれてとかいう事件、今でも白昼堂々——ごめんなまえ。ちょっとだけ待ってられる?」
「え?」
 ただ繋いでいた手を離されただけなのに、とてつもない喪失感だった。次の瞬間見たのは荷物を持ったままの彼の広い背中で、建物の隙間の黒い影へまるで吸い込まれるように消えていく。
 置いていかれたと思った。一人になったと思った。それはただの事実としてではなく、もっと精神的な意味で。
 けれど私が呆然と立ち尽くしていたのは、時間にして一分もなかっただろう。プチっという小さな破裂音が聞こえたことにより、私もその細い路地へ飛び込んだ。
「悟さん!」
 勢いあまって彼の胸板に衝突しそうになる。一歩私が後ろに引くと、彼は沢山の紙袋を持った方とは逆の腕に、見も知らぬ女性を抱えていた。
「あー…、その。思い出させて申し訳ないけど、なまえも出会った化け物関連でさ。後処理があるから、悪いけど先帰っててくれる?」
「その人大丈夫なの?救急車とか呼んだ方がいい?」
「そのうち警察と一緒に救急隊の人も来ると思うから」
「そうなんだ。それじゃあ食品もあるし、荷物は私が持って帰るよ」
 驚くほど常識的な対応だと、私のなかで他の誰かの言葉が響いた。日が落ちて気温が下がるように、自分でも心が冷えていくのを感じる。
 悟さんは何か言っていたが、私は奪い取るようにしていくつかのショップバッグを自分の肩に掛け直した。そして彼に背を向けて私は歩きだす。後ろは一度も振り返らなかった。
#03