時間の経過は分からないが、泣いていた訳でもないのにひどく喉が渇いていた。水を飲もうと私はキッチンへ向かう。すると部屋のどこかで、微かに低音が響いていることに気がついた。
だが辺りを見回すまでもなく、狭い空間なので音源はすぐに見つかる。それは帰宅後に置き捨てにしたであろうバッグから響く、スマホの着信を示すバイブレーションで。やけに眩しい画面を目を細めながら見ると、発信元は悟さんだった。
気まぐれで掛かってくる彼からの電話は出張先からのものが多く、ほとんど一日中部屋で過ごす私はどんな時間帯だって、それに喜んで応じてしまう。例え愚痴っぽく話し出したとしても、ここじゃない場所にいる悟さんの話を聞かせてもらえると、私はとても楽しい気持ちになった。
しかし今はスマホを持つ手が震えている。用件はなんとなく想像がついていた。元々今夜も泊まれると言っていたので、きっとさっきの事件に目処がついて今から帰るという連絡なのだと思う。
だがどうしても私の指は動かず、彼の声を聞くこと怖かった。理由は分からない。そのうち着信は切れて、履歴だけが画面上に残った。
数秒経てば、それすらも消えて真っ暗な画面となる。すると意図したつもりなく、私の指先は液晶に触れていた。掛け直す気などないくせに、彼からの着信履歴を見るととても気持ちが安心した。
きっと私の脳の司令室のような場所が、ぐらぐらと不安定に揺れ始めている。過去の経験から、これが良くない流れだと私は知っていた。
けれど例えそれが自分ではどうしようもならなくても、今の私なら彼に抱きしめてもらうだけで途端に落ち着くことができる気がした。何も与えられない私が依存してはならない人だと知りながら、心はすでに矛盾を成立させている。滑稽で破綻した理論に縋りつつ、私はグラスに注いだ水を飲んだ。
しかしその夜、悟さんは帰らなかった。私が電話を折り返さなかったので、お詫びの言葉とその足で仕事に戻るという内容のメッセージが、不在通知の数分後に彼から送られてきた。
どれほど身勝手な振る舞いだと思われようが、私は着信に応じてたったひと言「早く帰ってきて」と、彼に告げるべきだったのだ。
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翌日の午後『出来るだけ通らないで』と言われたばかりの路地を、私は再び歩いていた。決して当てつけのような行為ではなく、休職中の書類提出のため公的機関へ向かう、いつもの自宅からの経路である。ちなみにきちんと診てもらったのは最初の一回きりだけだが、月に一回診察を受けている体で、毎回悟さんが医師の診断書を直接私の元へ届けてくれている。
目的地までの通り道で私はふと思い立ち、昨夕の暗い建物の隙間を覗いてみた。しかし元々化け物が見えない私にとって、そこは今も野良猫一匹すら居ないただの薄汚い路地であった。長い時間見つめたところで何も変わらないので、私はもとの道を歩み始める。
それにしても、あのときぐったりとした状態で彼に抱えられて出てきた女性は、果たして無事だったのだろうか。彼のメッセージに対し当たり障りのない返信をしたところ、それ以降返事がないため私は彼女の安否を知らない。
過去に私自身も同じように、彼に助けられたクチである。敢えてそれだけを聞く必要もないが、彼女もまたアフターケアとやらの対象なのだろうか。だから『この道は心配だ』と言ったくせに、彼は私を一人で帰らせたのだろうか。目的地までの順路を足早に進むなか、嫌な妄想が頭の中で膨らんでいく。
今月の手続きも終了し、炎天下の日差しを浴びると同時に深い溜め息がでた。私はすでに二年近く仕事を休んでおり、決して知らなかった訳ではないが、お情けでもらっている休職中の手当ても、今回の支給が最後だと改めて告げられた。
部屋に戻った私は、疲労感とともにソファーへ横になる。少し休憩のつもりで目を閉じたところ、そのまま深く眠ってしまったようで。起きたときには夜になっていた。
時刻の確認のつもりでスマホを開くと、二十二時を少し回ったところだった。これだけ長く寝てしまったので、きっと今夜は眠れないだろう。反射的にメッセージアプリの通知を確認するが、やはり彼からの返信はなかった。
律儀にお腹は空くので、昨日デパートで買ってもらったお惣菜の残りを冷蔵庫から出して、私は食事の準備を始める。元々は彼と食べる夕食を想定していたので、とても私一人では一度に食べ切れなかった。デザートのケーキも同様だ。
ここのお店のエビチリは辛くないよ、甘めだったよ。悟さんのおすすめのシュウマイは中身がぎっしりで、サラダも食べ応えがありすぎるくらい。それと春巻きは中の餡が絶品で、炒飯はシンプルなのにすごく美味しかった。先に食べたザッハトルテは私にはピッタリの甘さだけど、あなたには少し苦めかもね。二つめに選んだチョコムースの方が食べやすいかな。
視界が滲んでいると実感したときには、私の瞳からはポロポロと涙がこぼれ落ちていた。
彼に逢いたい。そう思ったときには、私は衝動的に部屋を飛び出していた。