早朝からの出発後、すでに三時間。長い距離を揺られるなまえは、助手席で夢をみていた。


 まだ夏油が教室にいた頃。それは紫陽花の葉の雫が七色に輝く、梅雨の晴れ間の日の事だった。最も多忙な五条が登校してきた事により、数週間ぶりにクラスメイト四人全員が朝から揃ったのだ。
 朝食後にもかかわらず、五条の持ってきた菓子をさっそく口にしながら、四人の男女は土産話に花を咲かす。顔を合わさなかった時間は、あっという間に埋まった。生徒数の少ない教室であるが、初夏の目が眩むような日差しに負けないくらい、若人の賑わいをみせる。
 近況もそこそこに、当時サッカーの四年に一度の世界大会が開催中という事で、ティーンの話題はそちらへとうつった。
「観たいんだけどね、私はヨーロッパとの時差がつらいよ」
「ジジイかよ。まだ望みはあるんだからさ、俺が居たら今度の試合はみんなで観ようぜ」
「悟が居ても居なくても三人で観るよ。ね、なまえ」
「うん。今度は私の部屋に集合って、もう決まってるから」
 ここで「俺だけハブられいる」と悟がゴネ出すのだ。記憶と相違がない事を、なまえは夢と現実の狭間で思った。
 しかし意識は浮上しないまま、再び夢の中へと手を引かれるように潜っていく。
「——良いよね」
「足もとが普通に上手い」
「そりゃ決めてくれるだろ。次も左足に期待だね」
「あ」
 突如何かを思い出したかのように、なまえが声を上げる。
「どうしたの」
 代表して夏油が彼女に尋ねた。
 しかしなまえは大きく身振り手振りをして、何でもないと首を振る。
「気になんだろ。言えよ」
「ごめん、ごめん。じゃあ、本当に大した話じゃないんだけど、左足で思い出したの。私間違いなく右利きなんだけど、よくよく思えば利き足は左っぽいんだよね」
「お前絶対それ10番意識しての事じゃん」
 なまえの言葉に、五条が指をさして反論するが、彼女は「いやいや、そういうのじゃなくて」と首を振る。そして至極真面目な顔を周囲に向けた。
「体術の訓練してても、右を軸に左を出した方がしっくりくるっていうか。よくよく思えば授業でサッカーした時も左で蹴ってたし、そんな事もあるのかなあって。硝子に聞いてみようと思ってたんだ」
 彼女の背中側にいる家入は足を組み直し、そうだねえ、と始める。
「確か利き手は右多数の約九対一らしいけど、足は七対三くらいの割合らしいよ。だからあり得るんじゃない。左がマイノリティっていうのは変わんないけど」
「さすが硝子、物知りだね」
 一番離れた席から夏油が言う。それに続けてなまえもなるほどね、と頷く。五条だけは、確認するように自分の足元を見ていた。



「ごめんなさい、私どれくらい寝てたんだろう」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、朝日の眩しさになまえは手で目もとを覆う。起きた瞬間から夢の記憶はどんどんと薄れていくものの、懐かしさを感じるその余韻だけは尾を引いていた。
「三十分くらいですよ、気にしないで下さい。それよりも、もう少し掛かるんで苗字さんはもっと座席倒してもらって良いですからね」
「それは大丈夫。私の用事だし運転も代われないのに、本当申し訳ないわ」
「今回朝早くから呼び立てたのも僕ですし、余計な事をしている自覚もあるんで全然良いんです。それよりも五条さんや家入さんにバレたら怒るだろうなあ」
「その時はその時よ。私に嘘ついてた罰として怒られてきて」
「きっついなあ」
 運転席の男は前を向いたまま、目尻を下げて笑った。彼の義兄が最近開業したばかりだという医院に、二人は向かっている。


 あの日あの時あの場所で、なまえは両足を負傷していた。その状態で彼女を見つけたのは、間違いなく隣の彼である。
 しかし実際になまえを高専へ運んできたのは、記録にはないはずの五条だった。なかなか戻らない彼女を心配し、任務外であったが現場へ駆けつけていたのだ。
 そうして一刻を争うなまえの身体を奪うように抱き上げ、高専に戻るなら車よりも早いという理由から、彼女のことは彼に一任された。男が知っているのは、ここまでである。
 その後、遅ればせながら高専へ到着した男に対し、なまえの大きな怪我は右膝のものだけだったと報告するように、五条から直接圧が掛けられた。理由は明白である。家入が左脚を選んで治療したからだ。
 男の素人としての意見だが、発見時のなまえは左脚の損傷も相当酷く、どちらの足もとても元の状態には戻らないと思っていたという。
 五条と家入、二人の嘘は誰の為のものだったのか。張本人と第三者には分からない。
 しかし正義感の強い彼が黙っていられなかったので、車に乗る二人はこうして抜け出すように、高専を朝早くから出発する羽目となった。



「ありがとうございました」
「いえ、また何か苗字さんの力になれることがあったら、何でもおっしゃって下さい」
「はい、その際はよろしくお願い致します」
 身内のよしみで診療時間前から病院を開けてもらったにも関わらず、なまえの検査から診察まで、診断も含めると全てが終わる頃には日が暮れていた。
 男の肩を借りながら、彼女は行きと同様助手席に乗り込み、シートベルトを装着する。
 見送る夫婦に何度か会釈をし、車の発進後まず口を開いたのはなまえだった。
「今日は本当にありがとう。連れてきてもらって良かった。お姉さんも、お義兄さんもすごく親身になってくれたし、ちゃんと方針を示してもらえたのも嬉しかった」
「今後、苗字さんが手術とか考えてるんだったら、また言ってください。結局個人病院じゃどうにもならないですけど、一番良い病院に義兄が紹介状書くって言ってましたから」
 今まで家入の治療と診察しか受けてこなかった彼女は知らなかったが、やはりというべきか、画像検査上でなまえの右脚には、膝以外にも足らない骨がいくつかあった。
 また、大病院で精密検査を行った訳ではないので断定には至らぬものの、上手く繋がれているようで少しだけ形の違う骨が、左脚にも何ヶ所か存在するという。
 さらに専門医である彼の義兄よると、通常の医療では考えられないような治療をしてあるが、なまえの足はいくつかの人工関節を入れる事によって、理論上は歩行可能な足に戻るそうだ。
 だけど、現代の技術では人工関節も持って十数年。入れ替えとなると、さらに身体への負担は大きく、手術の難易度も上がる。まだ二十代であるなまえを思うと、あと十年医療の進歩を待って、今の倍以上もしくは一生入れ替え不要となるものを選んだ方が良いのではという、医師としての意見をもらった。

「怪我の度合いは今となっちゃ分からないですけど、どうして家入さんは、苗字さんの左脚を選んで残したんだと思いますか」
 すでに高速道路に入ったため、オレンジ色の街灯をかなりの速さで通り過ぎていく。
 家入の能力については、ありえない事をしているらしいので、彼の義兄に尋ねても、想像の域を出ないと言っていた。
「……私の利き足が左っていうのを、硝子が知ってたからかな」
「へえ、友人想いなんですね」
「うん、そうなの」
 彼女は目を伏せて言う。
 スポーツでも体術でも、本当は利き足よりも軸足の方が遥かに重要であると、なまえは敢えて口にしなかった。
 つまるところ五条も家入も、夏油の件からかなり過敏になっていたところへ、こうして瀕死のなまえが運ばれてきたのだ。大切な友人をこれ以上失わないためには、一人で外へ出られなくするのが手っ取り早いと判断したのだろう。
 彼女の自立を望むのならば、半端な治療は施さずに、いっそのこと義足にしてしまう方が稼働の幅は広がる。
 五条と家入に囲われていたこの数ヶ月間、なまえも自分なりにたくさんの事を調べ、学んでいた。だからなんとなく二人の意図には気がついていたのだ。
 それでも気付かないフリをしていたのは、今のどこへも行けない不甲斐ない自分を、彼らが願った結果だと信じきれなかったからである。それが今日、確信へと変わった。
 五条の言う「居てもいい」の本当の意味をなまえはやっと理解出来た。
「何か食べて帰りますか。お昼はご馳走になったんで、今度は僕が奢りますよ」
「ありがとう、でも夜には戻りますって家に書き置きしてきたから、今日はまっすぐ高専へ帰ってもらってもいいかな。御礼はまた改めて、美味しい店必ず予約するから!」
「期待してます!……でも僕、五条さんに嫌われたくないんで、あんまり雰囲気のある店はやめてもらっていいですか」
「えー、個室の焼肉店とか考えてたんだけど」
「それ、絶対アウトですよ」
 二人の談笑は高専に着くまで続いた。



 門の前で降ろしてもらったなまえは、松葉杖をついて自らの足で五条の家の敷居をまたぐ。
 石畳を進み、玄関前まで来たところで、斜めにかけたバッグから鍵を取り出そうとしたものの、奥の方に微かな光が見えたため彼女は扉を引いてみた。
 したらばガラガラガラ、と聞き慣れた音とともに玄関扉が滑った。どうやら今日に限っては、留守の多い家主が、居候の立場を守る女より先に帰宅していたようである。
 彼女は先に松葉杖を出して、家の外と中をわける段差を、左足で飛び越えた。
 きれいに着地し、これでようやく家に帰ってこれたとなまえは思った。今日は日の昇りきらない時間からここを出て、今はもう月が高い位置で夜空を照らしている。長い一日であったと息をついた。
 すると暗闇の中から、彼女の目の前に白い頭がふと現れた。
「おかえり」
 たいてい家の中で帰宅を待っているのは、なまえである。けれど、五条が帰ってきた時に、彼女がこんな風に玄関まで出迎えに来れた事は一度もない。
 それが難しいと理解しつつも、今までのなまえだったら、申し訳なさを隠せないまま「わざわざ、ごめんね」と言葉にしていただろう。
 だが今夜、彼女はしっかりとした口調で返した。
「ただいま」
 それを聞いて、なんの躊躇いもなく土間まで裸足で出てきた五条は、いつもするように彼女を大事に抱きしめた。
 ふわりとお互い体温を感じる、この瞬間が二人それぞれにとって、どれだけ大切な時間になっているのか。彼らはそれを伝え合ってはいない。
「まだ私、靴脱いでないよ」
「そうだったね」
 すでに地面から足が離れつつあるなまえが五条の首に腕を回すと、彼は空いた方の手でパンプスを脱がせ、雑に玄関へと放る。
 そして慣れた手つきで抱き上げると、自分が今まで彼女を待ちぼうけていた居間の方へ、つま先を向けた。
「書き置きの最後にさあ『必ず帰るので電話してこないで下さい』って書いてあったの超怖かったんだけど。……何か僕しちゃった?」
「この間、私が硝子の家に居た時のこと、反省してないの?硝子めっちゃ怒って電話切ってたじゃん」
「そんな些細な事もう忘れてるよ。それよりもさ僕なまえのこと、ご飯作って長い時間待ってたんだよ」
「嬉しい、何なに。私おなかペコペコなの。悟のご飯久しぶりだね」

 彼のたくましい腕の中で、なまえは思う。
 致命的な怪我を負ってしまったのは、全て自分の弱さが原因だ。
 だから今までは、才能に溢れ多忙な二人を頼ることに、彼女は罪悪感や後ろめたさを、常に感じていた。自分が彼らの親しい友人だから、守ってもらっていると思っていた。
 しかし真実を覗き見たことで、それだけ二人から、自分が大切に想われている事も知った。こうして他者を頼らず生きてはいけない自身の今の姿でも、五条と家入が望んだ苗字なまえであるとようやく受けいれる事が出来た。
 そして足の怪我をきっかけに、助けが必要な状態になってしまったからこそ、今まで以上に周囲の人間を大切にし、感謝を伝えようと改めて彼女は思った。
 もしも今度また五条が、自分にプロポーズしてくれることがあったならば、正式に受けようとなまえは決めている。
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