降りた瞬間から、独特の湿っぽい空気感が鼻をさす。懐かしくは思うが、恋しさはなかった。ここはずっと出勤していない職場の最寄駅で、私が化け物に足を引き摺られ彼と初めて出逢った駅のホームだ。
改札へは向かわずに、私は進行方向とは逆のホームの端の方を目指して歩いていく。その頃には二十三時を過ぎており、朝夕とは違って人もまばらになっていた。時間帯も含め、その顔つきはみんな疲労の色が見える。しかし今の私にとっては、その方が都合が良い。突き当たりの壁の近くまで来たところで私は足を止め、奥の線路をじっと見つめた。
化け物の正体は、人間の負の感情だ。私はあれ以降この駅に降り立つことはなかったが、日々なんとなく感じとっていた嫌な雰囲気というのは、あながち間違いではなかったらしい。悟さんが化け物について教えてくれたことで、それが確証に変わった。
あの頃の私は生きることに疲れていた。きっと今もそれは大きく変わっていない。けれどひとりの男性が私の生活に彩りを与えてくれた事で、世界が違う風に見えるようになった。
もう彼の心は別のところにあって、私には逢いに来てくれないかもしれない。そう思うと、また涙が出てきた。私は顔を両手で覆い、力なくその場にしゃがみ込む。幸いにもこの場にいるのは疲弊した人間ばかりで、私に声を掛けるようなお人好しはいなかった。
色んな感情が心を巡った。楽しかったことも嬉しかったことも、悲しかったことも怖かったことも、全部が愛おしい。
すると突然肩と背中に痛みが走った。瞬き後、明るいホームが頭上に見えた。一度彼に退治されたとはいえ、この場所には相変わらず良くないものが吹き溜まっている。あの時と同様に線路へ身を投げ出されたのだと状況を理解し、私はとても安心した。今の私の惨めな感情も混ざり合い、化け物は実体として現れてくれたようだ。
今度は確実に仕留めてから喰い殺す気らしく、首を絞められているのか徐々に息苦しさが増していく。きっと私には才能がない。こんな死にかけの状況でも、化け物を認識出来ないことが逆に幸いだと思った。
最後にもう一度だけ彼の顔を見たかった。だがそれも過ぎた願いだと言わざるを得ない。悟さんに逢えないと完全に理解してしまえば、あとの私は彼の知らないところで野垂れ死ぬだけだ。
だからあのときとは違って、今度はちゃんと化け物に殺されて、私の死が確実に彼の耳に伝わる事だけを考えていた。視界も黒く染まりだし、いよいよ終わりが近付いているのだと実感する。
「まだ生きてる?」
その言葉に薄目を開けると、口を重ねられて空気を送り込まれた。ゴホゴホと咳き込む私は落下したはずの線路から駅のホームに戻っており、なぜか突然現れた彼の腕の中にいるようだった。
私が落ち着くのを待って、悟さんは口を開く。
「どうしてこんなところにいたの?」
見慣れた風景から、彼が構内のベンチに腰掛けた状態であると気付くのには、そう時間は掛からなかった。周囲には私達以外に駅員と警察官がいて、暗い線路を指差しながら会話をしている。空調も効き過ぎているくらいで、私の夢にしてはやけに現実的すぎると思った。じわじわと目頭が熱くなってくる。
「あなたに逢いたくて」
私がそう告げると、彼は馬鹿だなあと言いながら私の額に自分のものをくっつけた。溢れた雫が頬を伝って落ちる。やはり私の体温のほうが高いらしく、もっと他に考えるべき事があるのに、彼のおでこを冷たくて心地が良いと思った。
「……ねえ、化け物に襲われている子が好き?」
「僕にそんな特殊な性癖はないけど」
顔を上げた彼と目が合う。青い眼は純粋に疑問を浮かべていた。私は本当に馬鹿だ。こんなにも慈しみを持って私に触れてくれる彼を、疑った自分が情けない。
「わたし嫉妬しちゃった」
「僕が他の子を助けたから?」
「うん。ごめんね」
腕の痛みを我慢しながら、私は悟さんに向けて指先を伸ばした。屈んでくれた彼の頬に手を当てて輪郭から首をなぞっていくと、自分にはない出っ張りに触れる。私の知っている形だ。彼も自由にさせてくれるのでひとしきり触ったあと、私は自分のお腹のあたりに力なく手を戻した。
すると溢れ続ける私の涙を、今度は彼が拭ってくれる。少しだけ震えていて、とても優しい指先だった。
「僕が好きなのは君だけだよ」
「私もあなたが大好き」
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「君のときは荷物を全部下に置いて、こんな風に両手で抱き上げたよ」
ソファーでお昼寝をしていたはずの私を抱き起こした彼は、顔中にキスの雨を降らせる。別に根に持っている訳ではないのに、悟さんは急に思い出したように、いかに私が特別だったかを伝えてくれるようになった。
「ありがとう、それからおかえりなさい」
「ただいま」
あれから私は手当の支給が終わると同時に退職をして、紆余曲折ありながらも部屋を引き払い彼のマンションへ移り住んだ。全ては彼の言った『アフターケア』という言葉が、私の誤解の始まりだったのだと思う。私を恋人として扱う、彼との認識が違うのは当然だった。
「お土産、甘いのも塩っぱいのもあるよ」
「甘いのから食べたいな」
「いいね、僕もそんな気分」
ようやく床に足を下ろしてもらい、私はコーヒーの支度をしにキッチンへ向かう。一緒に暮らし始めてからずいぶんと見慣れたけれど、今でも日中に見る彼はなんだか別人のように思えてしまう。私にとっての彼は、夜に現れる愛しい人という印象が根付いているからかもしれない。
「なまえ、僕達そろそろ結婚しようか」
キッチンカウンターに肘をつき、私の様子を眺めながら彼は言った。青い双眸は優しく細められていた。