仕事だと言って、私の二つ前の恋人名義で借りているボロアパートに、もうかれこれ二週間以上帰らない。職業や年齢に自称とつく怪しい男だが、こんなにも長期間連絡がつかないのは実は初めてのことであった。
寒空の下、その当時の恋人に貸した金を返してもらうため、競艇場で張っているときに彼とは出会った。指先を擦り合わせ鼻先を真っ赤にした私に、彼はおでんをご馳走してくれた。あとから聞いた話によると、賭けに勝って機嫌が良かったから気まぐれでそうしただけだと、面倒くさそうに言っていた。
それでもその日のうちに、私が滞納している家賃を彼が肩代わりする形で部屋に上がり込んできて、なし崩し的に共に暮らすようになった。それが私達の馴れ初めである。
男は不定期にしか働いていなかったが、一度仕事に出ると大層金回りが良くなるため、家主の立場はすぐに入れ替わった。同じく定職につかない私が彼の部屋に住まわせてもらいながら家事などをし、人並みの生活を整えていくという日々がいくらか続いた。
私の稼いでくる金は必要最低限の生活費にほぼ消えたが、男にまとまった金が入ると色んなところへ食事に連れて行ってくれた。この頃には近隣の居酒屋と焼肉店はほとんど制覇しており、彼の気に入った店だけに繰り返し通うようになっていた。値段に左右されずに味の善し悪しを見分ける彼の舌は、間違いなく私より肥えている。今はこんな身なりをしているが、実は育ちが良いのかもしれないと勘繰るほどだった。
また食欲が満たされると、人は自然と気も良くなる。そうするとストレス発散のようにしていたセックスにも幾分か余裕が出てきて、ある時を境に何かが決壊したように彼と触れ合うだけで気持ちがいいと、私は思えるようになっていた。毎回最後の方になると、腰砕けの身体は男のなすがまま揺すられるだけだったが、それでも私は行き過ぎた快感に善がりながら泣いていた。その後朝晩関係なく気の済むまで共に眠り、空腹を感じたら食べる。私の人生の中でこれ以上ない幸福な日々だった。
「もう死んでもいいくらい幸せ」
「くだらねぇ」
素肌で抱き合ったまま私がそう言うと、彼は鼻で笑う。この時期は窓を開けていると金木犀が良く香った。
男は常に仕事がある訳ではなく、次の仕事に行くまではおおかた家にいた。だから実際の場所はボロアパートでも、まるで天国にいるのかと錯覚するほど、三大欲求全てが満たされる夢のような生活を私は送っていた。
永遠に続くとさえ思えた時間の終わり方としては、あまりにも残酷だ。
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どれほど待とうが男は帰って来ず、いよいよ家賃が払えなくなり部屋を追い出された私は、当然のように路頭に迷った。今度は競艇場まで金をせびりに行く気力もなく、本当に飢え死ぬ寸前だった。そんな薄汚れた私にラーメンをご馳走してくれたのは、白髪で青い目をした外国人のような青年で、これまたガタイのいい男だった。
彼は私に衣食住を無償で提供してくれた。それも今までの生活レベルとは比べものにならないほど格上のものを、だ。
健康状態が少し戻ってから、私は彼に正直に伝えた。これほどの施しを受けても、何も持ち得ない私には、彼に差し出すものが何もないことを。けれど彼は当たり前のように、私自身を彼にくれたらそれでいいと言った。
「これでもかってくらい大事にするよ」
堪えなければ涙が出そうなくらい、優しく温かい声だった。数週間のうち、私が青年と共に過ごした時間はきっと三日にも満たなかっただろう。だが彼が今まで出会ったどんな男よりも、慈しみを持って私に接してくれていることは声や仕草でわかった。
「私ね、帰ってこなくなった恋人にちゃんと別れを告げられていないの」
「そんなのもう自然消滅ってことでいいじゃん」
私を背後から抱き込めて、青年は不貞腐れていることを声色にも表した。同じ素材の部屋着が擦れ合い、ゆっくりと肌に馴染んでいく。ガッチリとした腕は自由を奪うほど強い力ではなかったが、お願いしなければ抜け出せないくらいの拘束力はあった。
今までも音信不通になった恋人は過半数いて、私はなるべく自分が傷つかない恋の終わらせ方をよく知っていた。けれどあの人のことだけは、どうしても都合のいい過去には出来なかった。
青年の望みに対し、この身ならいくらでも差し出すつもりだ。それでも今ここにいる彼の為に、この場をしのぐための嘘はつけなかった。
返す言葉が見当たらない私は、少し力の緩んだ腕のなかで身体をねじって彼を見上げる。すると間髪をいれずに、額に口づけを落とされた。それでも私が困った顔のままでいると、今度は唇に柔らかいものが触れる。
「ちゃんと受け入れて」
命令ともとれる言葉のあと、ねっとりとした舌が私の咥内を犯していく。容姿端麗で言動が自信に満ち溢れている青年はきっと才能にも恵まれており、彼の最も嫌いなタイプだと思った。それでも一度身体を許してしまうと、私はすぐに心まで絆されていった。
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「可哀想なヤツだな」
これは彼の私に対する口癖だった。確かに私は馬鹿で惨めな女だが、今も昔もそれほど自分が不幸な人間だとは思っていない。それに生い立ちはよく知らないが、他人を尊ぶ事すら出来ない彼の方がよっぽど可哀想な人間だと私は思っていた。だからこそ彼のそばは居心地がよかった。
白で統一された寝具は清潔で柔らかく、また昼間には明るすぎて、私は時々境界が分からなくなる。開け放された窓からは爽やかな秋風が吹き込み、レースのカーテンをひらひらと揺らした。
「いい香り」
「金木犀かな」
私が独り言のつもりで呟いた言葉を彼が拾う。目が合うと嬉しそうにまなじりが細められた。とても穏やかな午後である。
「近くに木があるのかもね」
「さあどうだろう。九里香っていうくらいだし、よく香る花なんだよ」
「悟さんは物知りだね」
「なまえよりはそうかもね」
真綿のようなクッションへ沈む私の頭を、大きな手で撫でながら彼は言った。髪を梳くようにされると、さらに気持ちが良くて目蓋が勝手に落ちていく。未だ衣服も身につけていないというのに、本当に彼は私を甘やかしすぎだ。
「寝てもいーよ」
「むぅ」
一緒にいられる時間は貴重で私はもっと起きていたいのに、優しい彼は私を想って眠りへ誘う。陽の高いうちから身体を重ねた背徳感は、何事にも代え難い充実感と酷似していた。肩まで布団を掛け直されて、彼はさらに自分の近くへ私を引き寄せる。
あれから季節が巡り私を取り巻く状況も著しく変化したが、今年も街には同じ花が咲いたようだ。私はあのとき拾ってくれた彼と今も一緒にいる。きっと捨てられでもしない限り離れることはないだろう。けれど頭の隅の方で、あの人にも同じ香りが届いているといいなと微睡みの最中で思った。