だが現在、玄関扉前に佇む謎の黒い塊を発見。呪霊か不審物か不審人物か、またはそれ以外か。職業病なのか、私は普通の人よりもひとつ選択肢が多かったりする。一気に警戒心を上げて間合いをはかるが、どうやら呪霊のような嫌な気配はない。輪郭からして物体だろうか。
そういえばゴミの分別について思い当たる節がある。先日ゴミ捨て場で注意書きを見た。まさかあれが大多数ではなく、私個人へのメッセージだとは思っていなかったが……途端に黒い塊が玄関前に戻されたゴミ袋に思えてくる。言い訳にしかならないとは思いつつも、基準がわからないなりにも分別に対する努力は怠っておらず、そこは大目に見てほしい。
そのとき、唐突に黒い物体が動き出した。管理者や他の住民からの警告を兼ねた回収不能品が、ついに閾値を超えて呪いに成ったのかと思いきや。黒のなかから、どうにも見覚えのある白いフサフサの頭が持ち上がる。
「遅いよぉ」
黒い塊——もとい五条悟という一九〇超えの巨体によって、私の視界が覆われた。抱きしめられているというよりは、締め上げられているような力具合だ。肩を揺らすと少しだけ拘束が緩んだので、その隙に片腕だけでもと私は僅かな自由を取り戻す。それでも窮屈なことに変わりはないので、抵抗のつもりで恋人である彼の胸を軽く叩き、私は顔を上げた。
「悟くん今日来るって言ってたっけ?」
「言ってないけどさぁ、ちょっと前にメッセージは送った」
けれどすぐに隙間を埋めるよう、彼は私の背中に回った腕の力を強めた。甘えたい年頃なのか、よっぽど私と離れたくないらしい。しかしその行動の可愛らしさが体格と全く見合っていない。本気で苦しくなってきた。
だが私が離れようとすればするほど、よりいっそう彼は意地になって私を閉じ込めようとするだろう。そのため私は一度、悟くんに体重を預けてみた。やっぱり効果てきめんで、腕の位置が徐々に下がっていく。
「ごめんね、駅からここまで徒歩だったからスマホ見れてないや。どのくらい待っててくれたの?ていうかお酒飲んでる?」
再び押し付けられた胸板から顔を上げると、私はずいぶんな熱視線で見つめられていた。自分のものと混合していたが、やはり彼からも少なからずアルコール臭がする。付き合いにしろ珍しいなと思った。悟くんは酒を好まない方の人間だ。
どれほど飲んだのかは分からないが、アイマスクが外された目はとろんとしており、ほんのり赤みがかった顔はいつもより幼く思えてくる。可愛い、とにかく可愛い。私の恋人は本当に顔が良い。しかしその整った顔面から急速に生気が消えて青白くなった。
「……うぷ、なんか気持ち悪い」
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「オ゛エ ッ……はあ、はあ」
かれこれ数分、悟くんは便器を覗き込む体勢でこうして何度かえずくものの吐くには至らない。気持ちが悪いという恋人をトイレに押し込み、室内の灯りをつけたときには文字通り彼は顔面蒼白になっていた。原因はアルコールで間違いないそうだ。
「世間ではアルハラって言葉もずいぶん浸透してるし、飲みたくないならそう言って断ってもいいんだよ」
「……だってなまえが、」
「私?」
「ゲホッ、ゲホッ」
咳き込み言葉が途切れる。消化液のようなものは吐き出すが、気持ち悪さは持続しているようだ。私も彼の後ろで中腰になり、よしよしと大きな背中をさするが先程からあまり状態も変わらない。だんだん見ている方が、つらくなってきた。こういうときは一度全部吐いてしまうのが、最も早く楽になる方法だと私は失敗という経験から知っている。
「ごめんね」
だから勝手に心を決めて、私は彼に口だけの謝罪をした。それから狭いトイレの中でえずく悟くんの隣にしゃがむ。横顔も真っ青なままだ。可哀想に、涙目になっている。
いけるかなあと不安を抱きつつ、便座に手をつき下を向く彼の口の中に、私は無理矢理自分の指を二本突っ込んだ。強硬手段であり、他人にするのは初めてだった。シラフだったらコンマ数秒で振り払われていたか、思いっきり噛まれていただろう。それに悟くんのプライドが許さなかったと思う。もう一度心のなかで謝ってから、抵抗される前に彼の舌のなるべく奥の方を押した。
そこからは一瞬だった。大量の吐瀉物が便器に広がる。うんうん、たくさん飲んでたくさん食べたようだ。ゴホゴホと咳き込みながら、胃のなかの内容物を吐き出す悟くんの背を私はさする。勢いがよすぎるので、変なところに詰まらせないと良いが。
「まだ気持ち悪い?」
少し落ち着いたところで、私は彼に声を掛けた。ついでにトイレットペーパーで鼻水も拭いてあげた。顔色は少し戻ったか。
「すっきりはしてないけど、ちょっと楽になった」
「動けそう?」
「うん」
「口すすぎにいこっか。そのあと飲めたらお水も飲んどこ」
立ち上がった彼の手を引いて、私達は狭い個室を出た。
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悟くんが飲まない人なので、私も彼といるときは基本アルコール類を頼まないし、友人の医者のようにひとり酒をするほどの酒好きでもない。だが久々に酒が飲めると言って意気揚々と出掛けて行った私の話をどこからか聞きつけ、自分だって飲めるのにと拗ねた結果がこれだったそうだ。伊地知くんを引き連れ当てつけのように、私が食事会をしていた近隣の高級居酒屋にいたらしい。
「なまえ〜、戻ってきて」
「はいはい」
水を飲ませたので、グラスをシンクに置きに行っただけである。とりあえずソファーで休むよう勧めたのだが、近くまで寄ると私は介抱される側の悟くんに抱きすくめられてしまった。離して、と口だけの抵抗をするがそこは居心地が良く、まるでお気に入りのテディベアのように私はすっぽりと彼の腕におさまってしまう。まだお風呂も入れていないのに、こんなにスリスリしないでほしい。
「醜態さらしといてなんだけど僕も別に飲めない訳じゃないし、オマエも僕に遠慮して普段から酒を頼まないようにしてるなら本当に余計な気遣いだよ。全く」
多少元気を取り戻したのかプリプリと怒っているが、内容も姿も可愛いだけである。あと凭れかかると、また気持ち悪くなるといけないと思い遠慮していたのに、悟くんはギュウギュウと音が鳴りそうなくらいみっちりと私を抱きしめる。上から手を重ねると、嬉しそうに指を絡めてきた。この男、言葉と行動がちぐはぐすぎる。
「そんなつもりはないよ。別に飲まなくていいって思ってるから悟くんと居るときは頼まないだけで、無理もしてないよ」
「気が利かない彼氏で悪かったね」
「だからそうじゃないってば」
この様子じゃ、今はきっと何を言ってもダメなのだろう。子どものイヤイヤ期と同じだと、私は思っている。それでも私としては甘やかし続けても良いのだが、彼はもう二十八歳の立派な大人であり、周囲のために多少聞き分けも良くなってもらわないと困る。
だから私も少し意地悪するつもりで言葉を続けてやった。引き合いに出すものは決まっている。
「でも今夜悟くんが、何をどれだけ飲んで吐いたのか知っとかなきゃだから、また今度伊地知くんに内容聞いとくね」
「それはダメ」
きっと私の後ろでは、きつく口が結ばれたところだろう。自分より年下の人間には、彼はすこぶるカッコつけたがるのだ。