「ここに居たんだ。リビングの電気が消えてたから、寝室まで行ってしまったよ」
 楽しげな声が漏れ出す風呂場の扉を開けると、なまえが悟の髪を洗ってあげていた。おそらく入浴のためこの場にいる二人は、当たり前のように衣服一枚も身につけておらず、互いにすっ裸である。
「おかえりなさい。案外早く帰って来れたんだね、良かったあ。疲れてるでしょ、傑も一緒に入る?」
 少し嫌味とも取れる言い方をしてしまったが、手を止めてこちらを振り返った彼女に一切やましさはなく、私に対しても等しく柔和な笑顔を向けてくれる。外履きを脱いで少し前に文字通りの帰宅はしていたが、その顔を見て私はようやく帰ってきたという気分になれた。自分の中で張り詰めていた糸に弛みが出来る。
「じゃあお言葉に甘えて、そうさせてもらおうかな。その前に、お土産のケーキだけ先に冷蔵庫へ仕舞ってくるよ」
「わー嬉しい、いつもありがとね」
 白い小箱を見せると、ふにゃりと崩れた幼い表情とともになまえの丸いおしりが揺れる。ついでに奥にいる悟の筋肉質な背中と硬そうな尻も見えた。男の裸に興味はないが、少し見ないうちに一段と仕上がっている。
 すると前屈みになり私に背を向けていた悟が、わざわざこちらを振り向いた。彼からすれば彼女と二人っきりの時間を邪魔されたのだ。扉を開けた瞬間からなんとなく不機嫌なオーラは感じ取っていたが、分かりやす過ぎるだろ。
「寒いから早く閉めてよ。ケーキより先に僕が冷えそうなんだけど」
 そう言って口先を尖らせ、文句を垂れる。相変わらず快、不快の二択で行動する子どものようだ。おまけにその姿は白髪とシャンプーの泡が同化してとてもボリューミーな頭になっており、整った顔面がついているだけにちょっと面白い。
「はいはい悪かったね」
「ケッ」
「待ってるねー」
 泡まみれで手を振るなまえに見送られ、私は扉を閉めた。その頃には、私の内側を渦巻く黒いモヤは消えていた。

 学生時代うやむやな関係のまま恋路を彷徨い続けた私達は、高専を卒業後三人で生きる道を行くことにした。
 なまえは私達の好意に対し、どちらも選べないという結論を出した。それぞれに抱く感情に優劣はなく、どうしても一人を選択しなければならないのなら彼女は自分自身が私達二人の前から姿を消すと、普段のふわふわとした態度とは一変して堂々と宣言した。しかし誰よりも優しいなまえらしい言葉だった。
 私は例え彼女が悟を選んだとしても、二人を恨んだりはしなかっただろう。それでも彼らを心から祝福し、以前と同じような関係性を保っていく自信はなかった。だから正直なところ、彼女の言葉を聞いてとても安心した記憶がある。
 それに加えて一番反発すると思っていた悟が、すんなりと受け入れたことも大きかったと思う。彼女のことがなくても私と悟は親友だ。向ける感情に違いはあれど、私にとってなまえと悟は等しく大切な人間である。
「どっちも失いたくない」と言った悟の言葉で、全員がそれぞれの関係性を大切に思っていると私にも理解出来た。

 それから私達は家族になった。なまえとの関係は恋人で説明がつくが、悟と私は親友であり生憎恋仲ではない。そのうえ三人で生きていくと決めたので、私は一番しっくりとくる家族という単語を当てはめた。
 呪霊の発生はマラソンゲームのようで、多忙な任務に変わりはない。それでも必ず大事な二人と同じ場所へ帰ってきて、寝食を共にする。次第にそれが私の、心の安静を保つ材料になっていた。
「お背中流しますよー。ついでにその鬱陶しい長髪も流しまーす」
「えー、私もなまえに洗ってもらいたかったなあ」
「文句言うな」
 彼の真似をして口先を尖らせると、容赦なく顔面めがけて強めのシャワーを掛けられた。悟とは違い、私は無下限呪術だなんて便利な能力は持ち合わせていないので、ダイレクトにくらってしまう。目も鼻の奥も痛い。
 水飛沫を飛ばしてから助けを求めるつもりで、私はなまえの方へ手を伸ばした。彼女は湯船につかり、浴槽の淵からのんきにこちらを眺めている。
 あと数ミリというところで頭皮に向けてシャンプーがプッシュされ、強めの指先がわしゃわしゃと私の頭を泡立てにかかった。そうなると、もう手遅れである。
「君のやきもち焼きにも困ったものだね」
「るせ」
 諦めて洗いやすいように身体を屈めると、力加減が落ち着いてようやく洗髪と言えるものが始まった。普通に気持ちが良い。悟によって手際良くかつ丁寧に、頭皮までしっかりと洗われていく。こめかみを親指でぐりぐりとされると、眉間に入った力が緩んでいくのを実感した。
 もしかしたら私の知らない時間で、なまえに指導してもらったのかもしれない。ふとそんな考えが思い浮かぶ。だが一度そう考えてしまうと、再び黒い気持ちが渦巻き始めた。心の奥底で今でも私は、悟を羨む気持ちを持ち続けている。
「悟ってね、最初からシャンプー上手だったんだよ」
 私は思ったことを、つい口に出していたのだろうかと一瞬硬直してしまった。だがそうではないらしい。慌てた悟の静止をよそに、彼女の言葉が続く。
「だから傑にもしてあげたかったんだって。愛だよねえ」
 指先でハートを描くなまえの方を向いたその直後、再び物凄い水圧のシャワーが私を襲った。

 カチッという音が鳴り、シャワーの栓が閉められたようだ。他人に洗髪をしてもらうのも悪くない。ずいぶんとサッパリした。
 顔を上げて前髪を避けると、鏡越しにふてくされた表情の悟と目が合う。改めて事実を指摘されたからこうなっていると思うと、これだけ図体のでかい男でもいくらか可愛らしく思えてきた。
「ありがとう、気持ち良かったよ」
 礼を告げて後ろを振り向いて、いつも悟がなまえにするように私は彼の唇を奪った。理由は特にない。敢えて言うなら、私がしたいと思ったからした。
 ただ触れるだけのもので、余韻を残さないように離れて彼へ向けてニコリと微笑む。すると悟は湯船に飛び込んで、すぐさまなまえにキスを強請りに行った。今度は彼女がやめてと言いながら暴れ出したので、こちらにまで浴槽から飛沫が跳ねる。
 硝子には二人の夫というよりは、二人の大きな子どもだと揶揄われたけれど、全くその通りなのかもしれない。それでも互いが互いを思い遣り、私達は間違いなく家族になった。
風呂場