目を覚ますと辺りは真っ暗で、いつの間にかひと通り部屋の照明が落とされているようだった。あー、なんだっけ。僕は直前の記憶を辿っていく。
 確かなまえお手製の鍋を囲み、腹が満たされ身体が温まったところで、僕は少女にちょっかいをかけ始めたのだ。「美味しかったよ、ありがとう」と、ご機嫌をとるように礼を告げ、こめかみから順にキスを落としていった。
 しかし、いざ抱き込もうとしたところで「後片付けだけ先に終わらせてしまってもいいですか?」と、小さな口に問いかけられる。まん丸の目は純粋にこちらを見上げるだけなのに、そういう頼み方をされると僕が断れないと知っているようだった。本日二度目である。僕は仕方なく彼女を解放した。
 それからソファーに背を預け、何気なくスマホを触っていたと思うが、そこで完全に寝落ちしたのだろう。その時点と同じく暖房はついたままで、室内は適温に保たれている。けれど他者の手によって丁寧に掛けられたブランケットは、なまえがこの部屋で過ごすときに使っている僕の贈ったものであった。
 ところで少女本人はどこへ行った?寮の自分の部屋へ帰ってしまった?勝手に?婚約者である僕の許しもなく? そんな考えが僕の頭の中でぐるぐると渦巻く。
 これが独占欲と呼ばれる感情なのか定かではないが、いてもたってもいられず身体を起こし、辺りをキョロキョロと見回した。するとすぐに、ソファーの下で膝を抱えて毛布に包まる少女の姿を僕は見つける。ほっと胸を撫で下ろすと同時に、今まで聞こえていなかったすぅすぅという規則的な寝息が耳に届いた。
 暗闇のなかで晒す無防備で無垢な寝顔だからこそ、僅かに残った良心で胸が苦しくなる。顔を寄せたあとごめんね、と僕は心の中で呟いてから眠るなまえを抱き上げ、つい先ほどまで自分が寝転んでいたソファーへ彼女の身体を横たえた。深い眠りの最中にいるのか、起きる気配はない。それでも身体を冷やすといけないと思い、毛布の上にさらにブランケットを掛けてやる。
 さすがの僕もこの一週間の出来事で余程疲労が溜まっているのか、これだけはっきりと覚醒したあとでも眠気が持続していた。もうこれ以上連日の呼び出しはないと思いたいが、こちらのコンディションなど人手不足の前では判断材料にすらしてもらえず、呪術界での殉職が過労死認定される日もそう遠くない気がしている。
 とりあえず僕はひとり先に寝室へ向かうことにした。だがそれは、自分だけベッドで眠るためではない。少女を連れて来る前の寝支度のひとつで、まずは部屋を暖めてこようと思ったからだ。今度はきちんとした場所で共に朝まで眠ると決めたので、その準備を僕が怠るはずがなかった。



「では一度部屋に戻って、制服に着替えてから登校します」
 ペコリと礼儀正しく頭を下げるなまえを、僕はダイニングテーブルから見送る。昨日の今日で僕は昼から高専勤務になっているが、学生は年末近いというのに朝一から授業の予定らしい。若者は大変である。まあ僕もそこそこ大変だけど。愚痴を飲み込み、コーヒー片手に手を振ると幼い婚約者は、はにかんだ笑顔を見せてくれた。
 それから昼までゆっくり休息という訳にもいかず、自分の報告書や生徒の記録の確認など溜まった仕事を片付けていく。資料を見直すが、未だ傑の件には整理がついていないとのことだった。それも上層部が、自分達の失態を死者に擦りつけるという行為が続いているからで。墓参りに行くのはもう少し先になりそうだと、硝子も言っていた。
 そのうち仕事にもキリがつき、そろそろ出勤前の食事にしようかと思った矢先にテーブルの上でスマホが鳴る。まだ始業時間ではないので嫌々画面に目をやると、メッセージではなく着信でさらに憂太からだった。珍しいなと思いつつ、なまえの用意してくれたおかずをレンジにかけながら「もしもーし」と、僕はいつもの調子で電話に出る。
『あの、先生のところに苗字さん居ますか?』
 あの引っ込み思案な憂太がここまで直接的に聞いてくるとは、と思ったのも束の間で、自分でも表情が固くなるのが分かった。しかし突如切り出された用件に対し「今はいない」とだけ、僕は口早にただの事実として彼に告げる。
 すでに僕の脳内では、最悪の想定が駆け巡っていた。そして悪い予感が当たり始めたとばかりの返答が、声を震わせた憂太から返ってくる。
 どうやら僕の幼い婚約者が行方不明らしい。
Black moon B