「悟聞いて。わたし幸せの青い鳥、見ちゃった」
 なんせ久しぶりの休みで、ようやく帰ってこれた自宅マンションである。
 恋人を呼び寄せ思う存分寝て、軽めの朝食兼昼食を済ませたあと、砂糖たっぷりの甘いコーヒーを片手に、リビングの一番大きなテレビで映画を観ていた午後のひととき。しかも中身はフランス映画。これぞ洒落た雑誌に描かれるような、大人の休日ではないだろうか。
 それが崩れさる音を聞きながら「はい?」と出かかった言葉を、僕は怒気を含めて飲み込む。
 時たまあるのだ。二十代前半の恋人が、まるで幼い頃にでも戻ったかのように、訳の分からない発言をすることが。
 実に面倒だが彼女がこうなった時こそ、より丁重に取り扱わなければならない。子供にするように適当にあしらったりすると、それはもう捻くれる。抱き込めば身体を捩られ、キスしようと顔を寄せればそっぽ向かれ、構わず服のなかに手を入れた日にはガチでビンタされた。
 そう、なまえはそれらの行き着く先を知っている立派な女性である。何も知らない無垢な少女ではないからこそ、当てつけのように違う部屋に篭り、大人同士ですべき愛を伝える行為を頑なに拒否するのだ。
「おいで」
「うん」
 僕の呼びかけで、指定位置かのように肩の触れる距離でぴったりとくっついて座る彼女は、大変素直でよろしいと思う。頭をこてんと寄りかけてくるところが罪深く愛らしい。
 繰り返すが今日は僕にとって貴重な休日であり、僕達二人にとっても共に過ごす時間は有限である。
 さて、映画の字幕はすでに追っていない。彼女の髪を梳きながら僕は考える。幸せの青い鳥と言えばモーリス・メーテルリンクの『青い鳥』だろうか。
 実母ではなく乳母から読み聞かせられた絵本によれば、確かチルチルとミチルという名の兄と妹が、青い鳥を探して夢の国を旅する物語だったはずだ。けれど、話の主軸となる旅のなかでは結局見つけられず、二人が目を覚ますと、幸せの青い鳥は自宅の鳥カゴの中にいたという結末だったと思う。
 当時の悟少年が心動くような童話ではなかったが、乳母からこの絵本を見せられたのが一度や二度じゃないから、こうして二十年近く経った今も僕の記憶にあるのだろう。同じく歳を重ねている素っ頓狂な事を口にする恋人も、育った環境はまるで違うのに、幼い頃に同じ物語を読んでいたのだと思うと、なんだか不思議な気分になった。
 で、話を戻すがなまえは幸せの青い鳥を見た、と。
 同期である硝子がそんな事を口にした日には、ついに寝不足と疲労がピークに達して頭がおかしくなったのかと思うだろうし、補助監督の女の子が同じ台詞をはいたら、呪霊にやられて気が狂ったのかと考えるだろう。
 しかし今回それを言ったのは、僕にとって世界で一番可愛い女の子なのだ。過大な解釈を持ってすると、物語のなかで自宅の鳥籠の中にいた幸せの青い鳥を、なまえは自身の夢の中、もしくは寝ぼけた状態で見つけたと。
 僕達はこの都会のマンションの一室で動物を飼ってはいないし、インテリアとしての鳥籠もない。じゃあ一体どこで?
 目を輝かせて、僕の返答を待っている目の前の彼女は、きっとそれを尋ねてほしかったのだろう。話したくてうずうずしている、そんな感じだ。
 ここはGLGな恋人として、期待に応えてやろうと思う。持てる限りの優しさで、僕は彼女に問うた。
「なまえはどこで青い鳥を見たの?」
「ここ」
「ここって、ここ?」
 僕は首を傾けながら、指先でこの部屋を示す。
「そう、このマンションで」
 上目遣いでこちらを見つめる彼女は、にっこりと笑って頷いた。
 そして「ついてきて」と自信ありげに、自分の白く細い指を僕の指に引っ掛け、起立を促すものだから、従うようにして共にリビングを出た。



 ここだよ、と言われて辿りついたのは見慣れた寝室であった。クローゼット内はともかく、クイーンサイズのベッドと、申し訳程度にテレビが置いてあるだけの狭い部屋だ。
 ベッドが人一人分盛り上がっているのは、数分前まで彼女がここで昼寝をしていたからである。きっと中では、毛布がぐしゃぐしゃの塊になっているのだろう。隣で眠るようになってから知ったことだが、どうも毛布を抱え込んで寝る癖があるのだ。
「青い鳥はこの部屋にいたの?」
 見えすぎて困るくらいの目を持っているが、ぱっと見いつも通りの寝室で、青い鳥なんてどこにも見当たらない。指先を絡めたままで、僕は目線を下げてなまえに訊いた。
「うん。昼寝中に何か鳥の鳴き声がしてね、うっすら目を開けたら掛け布団の上にちょこんと乗ってた。あっ、と思って手を伸ばしたら、その瞬間すっと消えちゃったんだけど、それから私、すごく幸せな気分になってね。飛び起きてすぐ悟のところへ行ったの」
 嘘偽りのない彼女の大きな瞳は、純真無垢な十代の少女の頃からまるで変わっていない。なるほど、なるほど。つまり夢とうつつの狭間で見た、青い鳥ということか。
 ――まあ現実問題、そんなことはあり得ない。つまりはなまえが創りあげた虚構だ。本人もきっとわかって言っている。
 だからここで重要なのは、青い鳥を見た先で彼女が感じとったことである。と簡単に言ってみるが、正解が理論で導き出せない最低の思考ゲームは、なまえ以外お断りだ。
 僕の心中もつゆ知らず、彼女は真面目な顔をして話を続ける。
「外でしか得られない刺激はたくさんあるだろうけど、結局幸せっていうのは家の中に形として存在するんだと、私は思うの。マンションでも一軒家でも、都会でも田舎でも、大切な家族と暮らすところにね。――でもここは私の家じゃない、悟の家。だけど、間違いなくこの部屋に青い鳥はいた。私は絶対に見たよ」
 いつの間にか僕から離れたなまえは、真剣な眼差しでベッドを見つめていた。そして自分の言葉に深く頷く。言霊というように、口に出すことによって、自信をつけているようだ。
「私達はチルチルとミチルのように、兄妹でも血縁でもない。けどさ、今は違っても家族になって、ここで暮らすことは出来るよね」
「それって」
 僕がそう口にすると同時に、なまえは頬を染め、今日一番のはにかみをみせた。
「ねえ悟、私と結婚してくれないかな。私の幸せは、ここにあるみたいなの」
 きっと僕は彼女と出会って史上、最も間抜けな表情をしていただろう。
 まさかいつまでも幼さの抜けないなまえから、先にプロポーズされてしまう日が来るとは思いもしなかった。
 僕もあと数年のうちの誕生日とかクリスマスとか、色々考えていたんだけどな。
幸せの青い鳥