「……さとる、先生?」
 一切呪いの知識を持たない男の供述によると、背後から迫り改造したスタンガンでなまえを気絶させたらしいので、反転術式を施したあと硝子の指示で、彼女を精密検査の出来る一般病院に運ぶことになった。可能な限りの治療は行われたが、意識を取り戻さない原因となると医療の分野らしい。
 だが車の手配が済み、医務室を出ようと少女を抱き上げたところで、彼女はようやく目を覚ましてくれた。しかし意識は未だはっきりしておらず、僕の腕の中で重い瞬きを繰り返している。
「気分はどう?どこも痛くない?」
「痛みは特に……、あの、私どうして」
「どこまで覚えてる?」
 こちらの問いに対してなまえは数秒間思考を巡らせたあと、今朝僕の部屋を出て学生寮へ戻る途中以降の出来事が思い出せないと告げた。人間の防衛本能の一種として肉体・精神的ショックから、脳内で記憶の改竄が行われるという話を聞いたことはあるが、幼い婚約者は自分が襲われ攫われたとは微塵も思っていないようである。
 男を問い詰めたところ、なまえは手足を縛られたときに身体を触られていた。人目を気にしながらの単独の犯行であり、衣服を暴いたりそれ以上のことはされていないはずだが、どこまで彼女の意識が保たれていたのかが定かではない。そのため今は余計な記憶を呼び起こしたくはなかった。
 目もとを布で覆ったままではあったが、僕は硝子にアイコンタクトを送り、彼女がこくりと頷いたのを確認する。それから「大丈夫そうだからひとまず部屋で休ませる」と、なまえに言い聞かせるようにして僕らは医務室をあとにした。



 学生寮ではなく職員寮へ。僕にあてがわれた部屋に入ったところで、なまえの足先を床へと下ろしてやった。彼女の外履きは、先程寝かされていたベッドわきに置いてきてしまったが今はどうでもいい。自分も室内へと踏み込み、少女の肩に手を置いて奥へ進むように促す。
「とりあえず一緒にシャワー浴びよっか」
「あの、私はいったい」
 敢えて事実を告げなかったのだから無理もない。幼い婚約者は足を縺れさせながら、不安を宿した表情で僕を見上げる。
 この事件に関しては、ある程度の情報がすでに広がってしまっており、いくら当人に対してでも今後全てを隠し切るのは不可能だろう。けれど都合良く知らずに済んだ事実を、必ずしも彼女本人が知る必要などない。
「……ごめん。端的に言うと、今朝僕の部屋を出たあとに君は誘拐された。すぐに見つけ出せたし、気絶させられたときに受けた傷は硝子が反転術式で完璧に治した。だけど今日一日は大人しくベッドで休んでほしい」
 僕がそう話すと、なまえは少し考えるような仕草をしたあと素直に頷いてくれた。脱衣所で服を脱がせていると「覚えていなくてごめんなさい」と彼女は呟いたが「構わないよ」と返した答えが、紛れもない僕の本心であった。

 細い手足首に残った縛られた痕は、言葉通り硝子の反転術式で完全に消え去っており、スタンガンを押し当てられたという背中は傷跡ひとつない綺麗なものだった。なまえは遠慮したけれど、触られた箇所を上書きするつもりで身体の隅々まで僕が洗ってやると、風呂を出る頃には更にくたくたに疲弊させてしまった。
 そして日が暮れた今ようやく気付いたが、彼女が準備してくれたものを温め直そうとしたところで着信があり、僕は昼食を食べ損ねていたのだった。それを見つけた少女は申し訳なさそうに、本日何度目かの謝罪を僕にする。
「二人で食べるには少ないから、他にも何か作ってよ」
 僕がそう言うとなまえはなぜか嬉しそうにして、すぐに追加で何品かのおかずを作ってくれた。料理上手なお嫁さんを貰えるようで、僕も嬉しい限りである。
 それから昨晩の反省をいかし僕も後片付けを手伝って、今晩はさっさと一緒に寝室へ向かった。

「さとるさん」
 間接照明だけを残してなまえの上に覆いかぶさり、なんとなく触れ合うようなキスが続いたあと、彼女は僕の名を呼んだ。甘く蕩けるような表情は変わらないのに声は真剣で、流してはいけないものだと僕も察する。少しだけ身体を起こしてから「どうしたの」と尋ねると、幼い婚約者は小さな口で言葉を紡ぎ出した。
「私がさとるさんの婚約者だから——、だから今日、攫われそうになったのですか」
 純粋な瞳に、僕は答えを迷った。なまえへの気持ちが抑えられずに、あの男は突発的な行動に出た訳だが。それを僕を良く思わない輩のせいにしておけば、従順な少女はさらにここを中心とした生活になるだろうと思ったからだ。
 けれど、彼女を閉じ込めて僕だけのものにしておきたい思いはあれど、決してなまえから自由を奪いたい訳じゃない。望んで僕のそばに居てほしい、単純にそれだけのことである。
「……そうじゃなくて。単にオマエが可愛くて誘拐しようとしたんだってさ。高専内にも変態はたくさんいるから気をつけてね」
 僕がそう言うと、幼い婚約者は困ったように笑っていた。脇腹に差し込んだ僕の手は拒まれていないので、今夜も気の済むまで彼女に触れたいと思う。
Black moon D