「傑ー、そこのドア開けといてー」
 部屋へ戻る途中、声の方を振り返ると親友がこちらへ向けて歩みを進めていた。悟の両手は使えないらしく、彼の手を塞ぐその理由はとても大事に抱えられた最愛の女の子である。近くまで来たので手元を覗き込むと、なまえはくったりとして目を閉じていた。
「おや、人魚姫はお疲れかい?」
「そ、また記憶の混乱で気失ってさ。起き抜けの様子もおかしかったから、オッサンに暗示掛け直してもらったとこ」
「君に呪われたっていうのに、ずいぶん強情だね」
「ひでー言い方」
 私がくつくつと笑いながら言うと、悟は拗ねたように口先を尖らせた。

 たまたま行った任務先で、岬岩で休むなまえの姿を私達は見かけた。以前から多少噂にはなっていたようだが、普段からあまり人気のない場所だったので気を抜いていたのだろう。こちらに気付くと彼女はすぐに海底へと隠れてしまった。
 人魚といえば空想上の生物であり、おそらく彼女達は人の願いによって生まれた呪霊に近い生き物だと私は考えている。だから親友の「あの子めっちゃ可愛かったな」と興奮気味で口にした言葉に、まさかこれほど重い感情が乗っていたとは思いもしなかった。
 そのあとの悟の行動は早かった。躊躇いもなく海へ飛び込み水面を割って、あっという間に人魚の住処を暴き出し。挙げ句の果てには逃げ惑う群れのなかで強引に、でも的確に彼女だけを掻っ攫った。
 そのうえ帰り道では、寮にもうひと部屋借りて彼女専用のでかい水槽を置くと言っていたけれど。まさか彼の強すぎる想いが、他人の魂に干渉し肉体の形まで変えてしまうだなんて私は想像すらしていなかった。悟の目と同じ色をした美しい鱗と尾鰭は、いつの間にか白魚のような人間の脚の形をして投げ出されていた。まるでおとぎ話である。
 しかし物語と違うのは、望んだのが姫自身ではなく相手側ということだ。最初の頃のなまえは、拒絶の感情をむき出しに力の限り泣いて暴れるわで、かなり大変だった。流石の天才術師様でも、都合良く記憶を書き換えるなんてことは出来なかったため、隣人の私ですら本当に手を焼いた。
 だが今は記憶障害を引き起こしたうえで、彼女には洗脳に近い形で元々人間であると思い込ませている。生物的な文化の違いで、なまえは時々突拍子もない行動をとることがあった。けれど人型で基本的に高い知能を有しているため私達が優しく窘めると、素直な性格の彼女はすぐに人間の生活に順応する。
 しかし自身の本能と無理矢理植えつけられた記憶との乖離を処理出来ず、脳のストレス障害でこのように意識を失ってしまうそうだ。暗示というこの対処療法がいつまで有効なのかは誰にも分からないが、水槽がなくても粘着質な親友にここまで囲い込まれたなまえに、今さら逃げ場があると私は到底思えない。
「医務室じゃ何も出来ねーから連れてきたけど、ちゅーしたら起きてくれるかな」
「それじゃあ、どこの物語の姫かわからないね。まあ何でもいいけど、ほどほどにしておけよ」
「はいはい」
 少し前も人魚どころか、仔犬でも飼ってるんじゃってくらいキャンキャン鳴かせていたので、悟のことだからなまえはかなり手酷く抱かれているのでは、と邪推している。種族を超えた他人の愛に対し倫理観を説くつもりはないが、悟をそこまで突き動かす衝動には私も少なからず興味があった。それこそ彼の言う、愛の結晶とやらができるのかは知る由もないのだけれど。
#02