少し文庫本の文字が追いにくくなってきた。そう思い、ベッドの上で読書をしていた私は窓の外に目をやる。すると時刻は、いつの間にか夕暮れどきに差し掛かっていた。かなり集中して読み耽っていたようで、部屋の薄暗さにも納得がいく。
 突然のオフとなった本日は、寮母に食事を頼みそびれた事もあり自炊のつもりだ。またいつ泊まりの任務を言い渡されるかが分からないうえ、冷蔵庫の中には使い切りたい食材もあるので、さぼる気はない。
 だから重い腰を上げて、そろそろ食事の支度を始めるかと頭では思いつつ。完全に集中が切れた訳ではないので、灯りをつけて時間の許す限り読書に没頭すべきだと、もう一人の黒い自分が囁く。追われるような日々のなか、次これほどゆっくり過ごせる機会がいつ訪れるのかも分からない。それに近頃任務を言い渡されるたび、何のために自分は術師をやっているのかと、根底を覆すような自問自答を私は——。
「、はい」
「ねぇ傑、入ってもいい?」
 違う方向へと意識が傾きかけたところ、控えめなノックのあとクラスメイトであるなまえの弱々しい声が続いた。事前の約束ひとつなく彼女から訪ねて来るのは珍しい。
 だが私は間を空けずに「いいよ」と返答した。私達は恋人ではないけれど、それの真似事のような事をしているため拒むような事はしたくない。
 しかし当人はなかなか部屋に入って来ず、自ら開けたドアの隙間から訝しげにこちらの表情を窺う。元々気まぐれなところがある女の子なので、きっと理由の説明はないだろう。とりあえず私は夕陽を背にし、歓迎の意味を込めて微笑み返しておいた。
 余計に胡散臭かっただろうか、なんて思っていたらなまえは泣きそうな顔でベッドまでやってきた。そしてスプリングが軋み、本を開きっぱなしにしていた私の足へ、彼女はこてんと頭を預ける。
「なまえ?」
「……うん」
 そのうえこの子は、そこで身体を丸めてしまった。隠れた顔が気になって指先で髪を梳くと、彼女は険しい表情をしてすでに目を瞑っていた。顔色もあまり良くないようだが。さて、どうしたものか。



「あー!ここにいた!」
 それまではベッド傍の間接照明だけを灯し、文字を追う合間で耳を澄まして彼女の呼吸音を確認する、静かな空間だった。結局なまえは何も話さないままそのうち眠ってしまい、動けない大義名分を得た私も読書を続けることにした。穏やかな時間だった。
 それをぶち壊した大声に、眠り姫の肩も跳ねる。無遠慮に開けられた扉から大股でズカズカとこちらへ向かって来る巨体は、バチっと無駄に大きな音をたて蛍光灯のスイッチを押した。予想外の行動でもなかったが、全てを暴くような突然の強い光に対応できず、私は一瞬目を眩ませる。
 悟がその隙を見逃すはずもない。彼はすでに定員以上で悲鳴を上げるベッドへと、無理矢理乗り上げてきた。
「んー、ゃっ……」
「彼女、体調がすぐれないみたいだけど」
「そうなの?」
 全く、色んな意味で手が早い。最初は私とだけ関係を持っていたのに、今では確実に悟の方が躊躇いなく彼女に触れている。私の警告を聞いてなおTシャツのなかに潜り込ませた手は、抵抗虚しく顔を顰めるなまえの胸元を弄っているようであった。
「だからダメだよ」なんて最もらしい言葉を吐きながら、本を伏せた私はタオルケットごとなまえの身体を自らの方へと引き上げる。
「ヤり終わって寝てたんじゃねーの?」
「違うよ。今日は何もしてない。ただ一緒に居たただけさ」
「ふーん」
「いや、だから。なんで触ろうとするの」
「触りたいから?」
 再びこちらへと伸ばしかけた指先を遮る形でなまえを今度はしっかり抱きかかえると、悟は怪訝な顔で私達を見上げた。私はなんとなく事情を察しているが、この場合それを口に出す事の方が女の子に対して配慮に欠ける振る舞いな気がする。悟にも知識はあるだろうが、それが結びつくかどうかは微妙なところだ。だからと言って、彼が簡単に引き下がる性格でないことも理解している。
 腕のなかの彼女へ目線をやると、今日は本当に不調のようで悟とやり合う気力もないのか、私の胸に顔を寄せて再び目蓋を下ろしてしまった。仕方がないこととはいえ、その態度にだんだんと苛立ちが募っていく。寄せられた信頼に悪い気はしないが、私なら大丈夫だと推し量られるのも困ったものだ。私しかいなかった以前とは違い、勝手気ままなこの女の子が隣室の悟のところへ足繁く通っていることも知っている。
「ねぇなまえ、このままここで悟にひん剥かれるのと、君の部屋に移動して私に甘やかされるの、どっちがいい?」
「はあ!?」
「君じゃなくて聞いているのはなまえだよ」
 私の問いに対し、彼女はゆっくりと目を開ける。親友に遠慮されたくないからこそ、私はこの子自身にきちんと選ばせたかった。
「……ひとりで部屋に帰る」
 見つめ合っていた瞳がふと逸らされる。なまえはそう言うと、緩慢な動作ではあったが私の腕をすり抜けて行った。
 俺達フラれた?なんて悟の言葉が、男二人の部屋に虚しく響いた。
Cramps