「これはね、ここを抑えてから——」
素直に教えを乞う彼女と私の背丈はあまり変わらないけれど、年の離れた妹がいたらこのような感じなのかと漠然と思った。五条に連れてこられたばかりのときは、幼児のごとく感情のまま泣き喚き暴れ回ったので、こんなヤツ私の手に負えないとノータッチを決め込んでいたが。逃走という行為が彼の逆鱗に触れ、合法とは言えない手段ですっかりしおらしくさせられてからは、こうして私も甲斐甲斐しく世話を焼いている。
「上手に出来たね」
「ありがとう。硝子ちゃんも食べる?」
「私は甘いの苦手だから遠慮しておくよ」
テーブルの上に広げられたまるで宝石箱のような作りのクッキー缶は、きっと五条からの贈り物である。そうなんだ、と少し寂しそうな顔をしつつも砂糖がまぶされた洋菓子を口にすると、みるみる表情が柔らかくなっていく単純な少女を、私も純粋に可愛らしいと思った。
「それに合うお茶でも淹れようか」
「私もお手伝いする」
しかし、そう言って同じタイミングで席を立ったはずのなまえが視界から消える。多分また、だ。彼女は人間の形を模した人魚である。思い浮かべた可能性から床に目線をやると、やはり彼女は音もなくその場にぺたりと座り込んでいた。
水中を泳ぐための尾鰭が、今は地上を歩くための二本足になったことを、なまえはこうして時々忘れてしまう。そして植え付けられた記憶では、この世に生を受けた瞬間から当たり前に人間という生き物だったとされるが故に、その違和感をキッカケとしてこの子の心を不安が襲いだすのだ。
たちまち強張っていく表情に、私は努めて柔らかい声を出す。
「大丈夫?立てる?」
「!ゃっ——」
「俺がちゃんと抱き上げてやるから大丈夫だよ」
私達の間に割り込むように差し出された手は、瞬く間にへたりこんだなまえを掻っ攫って行った。硝子ちゃん、と私に縋る微かな声は聞こえたものの、抱え込むように回された腕によって彼女の表情は窺えない。
「今任務から帰ったばっかでさ、すげー疲れてるから癒してよ」
私が居ることもお構いなしに、五条は愛しの姫にキスを落としているようだった。それでも去り際に目配せを寄越したのは、きっとこのあと再び私の元へなまえを連れて来るという合図である。本人は暗示なんていう生ぬるい言葉を使っているが、拷問のプロもいる高専式の手法は洗脳と言っても差し支えなく、孤独な人魚の精神はいつ限界を迎えてもおかしくないところまで来ていた。
しかし彼にとってなまえが離れていきさえしなければ、それはそれで構わないのだろう。その証拠に、散々心を壊したあとの身体のメンテナンスは、全て私任せなのだから堪ったものじゃない。
とりあえずそれまでは、彼女の食べかけのクッキー缶だけはこちらで保管しておいてやろうと思う。
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またとある日、医務室で執務中の私のもとへ置いていかれたなまえは、ソファーに凭れかかり気怠げにテレビを見ていた。
「……あんたもコーヒー飲む?」
「うん、薄くしたの」
「そうだったね」
私達と同じ食生活にもかなり慣れたようだが、味の濃いものは未だに苦手らしい。湯気立つマグカップをサイドテーブルに置いてやると、人魚はゆっくりと身体を起こした。
「ねぇ都会なのに海があるの?」
状況が読めず彼女と同じ画面に目をやると、映し出されていた光景は都内某所で開催されたイベントのニュースだった。内容は単純にその盛況ぶりを伝えるものである。しかしなまえが食いついたのは、海沿いの建物周囲まで広範囲に撮られた上空からの映像だった。
「うん、あるよ。東京都の一部は太平洋に面してるからね」
「ここから近い?」
「近くはないけど、すごく遠い訳ではない」
「ふーん、そっか」
人間世界のことを何も知らず、何もかもを一から教え込むという状況で、きっと私は彼女の精神を幼く捉えすぎていたのだと思う。敢えて嘘をつくものでもないと思ったから事実だけを口にしたが、妙に物分かりのいい返事をしたことが、私の中にも違和感として残った。そしてその先にある人魚姫の意図すら、彼女を見誤った今の私には知る由もなかった。