「……任務の呼び出し。もう出るわ。メール入れといたから、起きたら硝子のとこ行けよ」
「今日は硝子ちゃんじゃなくて、五条くんと一緒に居たい」
「そんな可愛いこと言われると、出られなくなるんだけど」
私がベッドから伸ばした腕の中に、五条くんは入ってきてくれた。けれども私が彼の背に手を回すよりも先に、そこからすり抜けて行く。
「帰ってきたらまたいっぱいしような」
サッと身を翻し、五条くんは部屋をあとにした。彼のぬくもりが失われるのが怖くて、私は布団の中に潜り込む。横を向くと押し殺せなくなった不安が溢れて、涙として頬を伝った。
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机の上に置いてあったマドレーヌを食べたあと、制服に着替えた私は五条くんの部屋を出た。それから彼の言いつけ通り、硝子ちゃんの寮の部屋へ行ったのだが留守らしく、次の選択肢である医務室を目指し私は廊下を歩いていた。
「なまえ!」
「おはよう、夏油くん」
すると後ろから大声で名前を呼ばれる。と同時に、彼が声を張り上げるのは珍しいと思った。私は足を止めて、こちらへ駆け寄ってくれた彼を見上げる。近くで見ると、夏油くんは少し髪が乱れていた。
「探していたから会えてよかった。これから医務室に急患が運ばれるみたいでさ、君のこと硝子から頼まれたんだ」
「そうなんだ。行っちゃいけなかったんだね。ありがとう」
「だから今日は私と教室へ行こうか。朝食は食べたかい?」
「うん、マドレーヌをひとつ」
「……お昼は食堂できちんとしたものを食べようね」
人間の食生活はまだ難しい。五条くんと似た食事をしたつもりだったが、夏油くんの表情から読み取るに少し違ったようだ。けれど歩き始めてからも、横に並びつつこちらを気にかけてくれる彼は、硝子ちゃんと同じくらい私に優しい。
「今日は何のお勉強する?」
「そうだね、早急に食べ物の栄養価について学ぶ必要があるかな。甘いものばかり好む悟の食事は参考にならないからね」
「甘いもの私も好きなの。食べちゃダメ?」
「ダメな訳じゃないけど、何事も程度が大事だから。——おっとゴメン」
二人きりの廊下に、早朝に聞いたばかりの五条くんと同じ着信音が響いた。夏油くんは私に背を向け通話を始めるが、相手の声が大きいため内容は筒抜けだ。最初に『呪霊』という単語を拾い『急行せよ』という、おととい刑事ドラマで知ったばかりの台詞が聞こえた。どうやら多忙なことは彼も同じらしい。
夏油くんの広い背中を見ながら、またひとりぼっちだ、何をして過ごそうか。なんて考えていたら、彼は前触れなく私が最近覚えたばかりの地名を電話口で復唱した。その瞬間、胸がドクンと鳴り鼓動が早くなる。そのあとの通話内容は全く入ってこなかった。
携帯電話をぱたりと閉じた夏油くんが、申し訳なさそうにこちらを振り向く。
「……すまない。私も任務になってしまったよ。悪いけど今日は悟の部屋で——」
「イヤ!私も一緒に連れてって!」
今度は彼の方が、私の声量に驚いていた。けれどもすぐに表情を切り替えて、諭すように大きな手を私の肩に添える。落ち着かせようとしているのだ。シャツの上からでも夏油くんの手の温もりがわかった。
「ごめんね、なまえ。それを決めるのは私じゃ——」
「お願い!もうひとりは嫌なの!……ぅっ、ぐすっ、ヒクッ」
それでも私は、また彼の言葉を遮る。今朝五条くんに置いてきぼりにされたことを思い出すと、自然に涙がぽろぽろと溢れた。だからこれは、私の心からの感情なのだと思う。けれど私の理性的でズルい部分が「夏油くんだけなら出し抜ける」と囁き続けていた。
泣きじゃくる私を前に、彼は困り果てている。すると渋々と言った様子で再び携帯電話を耳に当て、どこかへ通話を始めた。
「今回だけだよ」と夏油くんが言ってくれるのを、私はなんとなく分かっていた。
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紙の地図の上では小指一本にも満たない場所でも、縮尺といって実際私達の足では一日中歩き続けても辿り着けない距離だと、硝子ちゃんが教えてくれた。地名だけでは確信が持てなかったが、運が味方したのか夏油くんの任務先は、先日硝子ちゃんと一緒に見たニュースと同じ、都内にある海の近くの大きな会場だった。
彼とともに車を降りると、懐かしい潮風の匂いがする。現場はすでに人払いが済んでおり、映像では人で溢れかえっていた場所が嘘のように静寂に包まれていた。そして私がよく海面から顔を覗かせていた岬とは違い、見渡す限り周辺一帯がコンクリートで整備されている。一種の息苦しさを感じるも、陸地と海面を隔てる柵は簡単に乗り越えられそうな高さで、とりあえず安心した。
「それじゃあ私は建物の中に入るから。補助監督さんの言うことをきちんと聞くんだよ。あと勝手に現場をウロウロしちゃいけないからね」
「うん、大丈夫」
都合の良い返事をしつつも、私がキョロキョロと辺りを見回していたからだろう。夏油くんに両手で頬を挟まれ、私は強制的に彼の方を向かされた。漆黒の瞳と目線が交わる。他人事のように、五条くんならきっとここでキスをするのだと思った。
しかし彼は違った。ただ数秒間、私の目をじっと見つめると何もせず、すぐに離れて行く。じゃあねと言った声色は明るかったけれど、秘め事を含んだ心の奥まで読み取られるような少し怖い視線だった。
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「ねぇねぇ、あの船もう少し近くで見てきてもいい?」
祓除のため夏油くんが禍々しい雰囲気の建物の中へ入って行くのを見送り、補助監督が外から帷を下ろして五分ほどが経過しただろうか。私は頃合いとして、彼女の黒いスーツの裾を引く。
「彼の任務が終わるまで、あまり動き回らない約束でしたよ」
彼女もまた諭すように私に言った。夏油くんは今、命懸けの任務の真っ最中である。その見届け役の彼女が、この場から離れられないことは理解していた。そしてそこへ無理矢理同行した私が、とても非常識な行動を取っていることも、だ。
「階段の下まで行くだけだから。すぐ帰ってくるね」
「あっ、ちょっと!」
伸ばされた指先をすり抜けるようにして、私は階段を駆け降りる。思いの外、軽快な足取りだった。自分が人間になってしまったと受け入れられるようになってからは、ずいぶんと転ぶ回数も減りスタスタと歩けるようになった。慣れてしまえば、足を使うことはそれほど難しい事ではなかった。
勢いのまま鉄製の柵に手を掛けて身を乗り出す。やっと、やっとここまで来たのだ。
「オマエさあ、何してるの」