「オマエさあ、何してるの」
 自分でも驚くくらい温度の冷えた声が出た。柵に手を掛け、まさに水の中へ身を乗り出そうとしているなまえの肩を掴み、力ずくでこちらへ引き戻す。そうしながら、折れそうなほど華奢な肩だと思った。しかし彼女を傷つけることは本望ではないため、倒れ込む身体をきちんと受け止める。
 傑からのメールを見てすっ飛んできたというのに、なまえは俺に全体重を預けたまま、まるで化け物にでも遭ったような真っ青な顔でこちらを見上げた。願いに従い、いつまでも無知で無垢な人魚姫ではいてくれないようだ。
「は、離して」
「何をするつもりか、って俺は聞いたんだけど」
 抵抗のつもりなのかは知らないが、俺の胸板を押し戻そうとする力はひ弱すぎて、怒りを通り越して失笑が漏れる。暗示という対処療法が通じなくなってきているのは薄々感づいていた。当初自分が口にしたように、いよいよ寮に一室借りて彼女を水槽のなかに閉じ込めてしまおうか、なんて考えが現実味を帯びてくる。
「——戻るぞ」
「待って、」
「オマエを海に帰すつもりはねーから」
「違っ、」
 人魚は言い訳すら、まともに出来ないらしい。なまえを抱え直し、俺は海に背を向け歩き始めた。制服のシャツが潮風で膨らむ。どれだけ俺の呪力を注ぎこもうと、理解の追いつかない頭に偽の記憶を植えつけようと。身体を作り変えたように都合良く、彼女は決して俺だけのものにはなってくれないようだ。
 腕の中では啜り泣く声が聞こえた。出逢った日から、俺は数え切れないほどコイツを泣かせている。それでも懲りずに、今日は暴れないだけマシかなんて思っていたら、なまえはギュッと俺の胸元のシャツを握った。
 サングラス越しに視線を落とすが、影に隠れて表情は窺えず、俺は足を止める。と同時に、彼女は絞り出したような声で叫んだ。
「もう自分が海で生きられないってことは、わかってるから……!」
「だったら——、」
「ここで生きていくって……、五条くんと生きていくって、やっと決心出来たの。だからせめて、家族には、私からちゃんと伝えさせて……!」
 弱々しかった人魚姫の瞳には、いつの間にか強い意志が宿っていた。そういえば近頃の彼女は、記憶を理由に取り乱す回数もずいぶんと減っていた気がする。最後に暗示をかけたのはどのくらい前の話だっただろうか。

 なまえを地面に降ろしてやると彼女はシャツで涙を拭い、拙い指先で俺の手をとった。そして、足取り確かに再び階段を降りていく。後ろを歩いていたと思ったら急に気配が消え、泣きそうな顔をして床に座り込んでいたなんてことを繰り返していたのが、まるで嘘のようだ。
 そんなことを思い返しながら手を引かれ、俺達は先ほどの柵の前まで戻って来た。すると、涙で濡れた純真な瞳が俺を見上げる。
「五条くん、お願い。私を海へ投げ入れて」
「はあ?危ねーだろ。つーか、どうやって家族へ伝えんだよ」
「海はひとつしかないでしょ。だから歌で伝えるの。どこまででも波が声を届けてくれるから大丈夫」
 なまえは俺の手を離し、くるりと回ってスカートを翻した。すると一歩距離を取り、今朝ベッドのなかでしたのと同じように、こちらに向けて腕を伸ばす。
「信じてくれて、ありがとう」
 屈んだ俺の頬に、彼女はキスを落とした。こんなことをされると、余計に離さざるを得なくなる。
 その数秒後、静かな海には俺を寝かしつけたときよりもずっと悲しくて美しい歌声が響いていた。



「悟くんって呼んでみ、ほら」
「さ、さとるくん」
「固いなあ。もう一回」
「さとるくん?」
「なんか違うんだよなー」
 日常生活におけるなまえのほとんどの教育係が、同性であり危険な任務に出される事が少ないという理由で硝子だったため、致し方ないと言えばそうなのだが。ようやく恋人同士になれたというのに、五条くんという呼ばれ方が夏油くんと同列なのには全く納得がいかない。
「それより、おやつ食べたら私眠くなってきちゃった」
「あっ、おい」
 そう言って、元々俺の膝の上に乗って向かい合っていたなまえが、こちらへと凭れかかってきた。ふにゃりと柔らかい胸が潰れてピッタリ隙間がなくなったところで、俺も仕方なく彼女の背に腕を回す。
「ベッド行く?」
 問いかけついでに腰を揺らすと、とろんとした声で「そういう気分じゃないの」と言われてしまった。どうやら眠いというのは本当らしい。
「でも、抱っこで連れてってほしいなあ」
「歩けるだろ?」
「んー…」
 俺の横には、ほど良く肉のついた白い脚が今も惜しげもなく晒されている。もう急に転んだりへたり込んだり、ほとんどしなくなった癖に。なまえがこうして俺に抱っこを強請るのは「そうされるのが好きだから」と、以前彼女は少し恥ずかしそうに言っていた。
 だから俺は今日もそれを許してしまうのだろう。
#06