私が微かな物音に目を覚ましたのは、日付が変わって一体夜中何時頃の出来事だったのだろうか。細く光の漏れる方向に向かって、名前を呼んだのは覚えている。現実と眠りの国の狭間、おぼつかない口調で「さとる?」と。
 こんな時間に、私の寝室を訪れるのは彼くらいである。むしろ彼でなかったら、そこそこの防犯システムを備えたマンションの一室に、泥棒の類の侵入を許したことになってしまう。(呪霊はわざわざ丁寧に扉を開けて入ってこない。)
 しかし、昨晩来たのはきちんと彼だった。はっきりと姿も見えていない、ましてや触れ合ってもいない、そんな中でのたった二文字の台詞だったけど、確かに彼だった。
「うん」
 男性特有の低音に、私は安堵を覚え再び目蓋を閉じる。そのあとも言葉は続いていたが、小声ながらもよく通る声は、私にとって眠り歌にしかならず。申し訳ないが、問われても全く記憶にない。
 夜明け前のベッドのなか、私は幸せな気分で、再び夢の中へと微睡んでいった。



 自然と意識は浮き上がった。今度は直前まで夢を見ていたという事も、なかったと思う。
 自らの規則的な呼吸に合わせてゆっくりと目を開けると、ぼやけた視界のなか、カーテン越しに太陽の光を感じた。朝がやってきたのだ。
 ごそごそと身体の向きを変えて、右腕だけを伸ばした私は、サイドテーブルの上にあるスマートフォンを手にする。しぱしぱと瞬きを繰り返しながら画面に目をやると、時刻は午前十一時を少し回ったところだった。目覚めの良さから早い時間のつもりだったが、昼寄りの朝であった。
 休みとはいえ、いくらか寝すぎてしまったと反省する。残念ながら若くないので、代わりに夜が眠れなくなるのだ。
 授業中居眠りばかりしていた頃の私に教えてやりたい。朝寝坊は贅沢ではない。二度寝や昼寝を後悔する日が来るぞ、と。
 肌寒さを実感しながら、私はのそのそと布団から這い出る。陽が高く昇っていようと、冬の空気は冷たい。上半身が外気に晒されたところで、ぶるっと身体を震わす。真っ先にリビングの暖房を入れようと決めた。すぐに部屋が暖まる訳ではないが、多少は違う……気がする。
「さあ行こう」
 言葉の力を借りた私は、羽根布団と毛布を半分に折り畳んだ。そして、身を縮こませながらフローリングに足を下ろす。だが、それが失敗だった。
「ひゃあっ」
 何も纏っていない素足が床に触れた瞬間、脳まで足先の冷たさが一気に駆け上がる。飛び上がるような衝撃だった。この冬、これで何度目だろう。
 慌てて柔らかなルームシューズへと足裏を移動させるが、時すでに遅し。布団の中でぬくぬくと温められた足先は、一瞬で凍てついてしまった。足の指を動かしてみるものの、一度奪われた熱は簡単には戻らず、起き抜けから溜め息を吐くはめとなった。
 とぼとぼと重い足取りで、私は寝室の入口へと向かう。途中チェストの背もたれに掛けられた、フリース素材の羽織りものに腕を通すも、それさえ冷たかった。どれだけ発熱を謳っていようと、所詮生き物の温かさには敵わないのだ。至極当たり前なことを思い、私は再度溜め息を吐いた。

 さらに空気の冷たい廊下に出て、大袈裟に腕を組む。とりあえずは、粉末スープでも口にして、体の熱を取り戻そう。沢山買い置きしてあるので種類は豊富だが、今はひたすらコーンクリームな気分である。
 テーブルの上には、スティックパンもあったはずだ。薄っすらと焦げ目がつくまで焼いてやろう。そして一口サイズにちぎって、熱いスープにパンがひたひたになるまで沈めるのだ。虚しくもあるが、食欲を満たすことに意識を向け、自らモチベーションを取り戻していく。
 ほんの短距離であったが、いよいよと言わんばかりに、私はリビングキッチンへと続くドアノブへと手を掛けた。勢いをつけ、部屋へと続く扉を押そうとしたその時、カチャ、カチャ、と食器の重なる音が私の耳に入った。
 一瞬ドキッと嫌な予感が頭を過る。
 だが、ここで私はようやく深夜の出来事を思い出した。
「そっかあ」
 あのあと、いつベッドに入ってきて、いつ出ていったのかは知らないが、やはり来ていたのだ。
 節約というワードからは程遠い男である。すでにリビングの暖房も、高い温度設定で入れられていることだろう。あと運が良ければ、私の分の食事も用意されているかもしれない。
 睡眠時間の短い彼には悪いが、自分がお寝坊さんで良かったと心底思った。
 私は「おはよう」という言葉とともに、愛しい彼のもとへと向かう。
She’s sleepyhead