五条くんは人との距離が近い人だと思う。言わずもがな夏油くんとはしょっちゅう肩を組んで戯れ合っているし、異性の私に対しても平気で顔を寄せたり覗き込んだり、また何かを促したり笑い合っている時なんかは躊躇いなく肩や腕に触れたりする。それでも不快感なんてひとつもなくて、私は人懐っこい彼を同い年だけど可愛いと思うこともあった。
 そんなある日、悪天候で高専まで戻れなくなった夏油くんの代わりに、私が任務に出ることになった。私の術師としての等級は、とても彼には及ばない。けれど今回はサポート的な役割を担う予定だっため、相手の術師は私でも構わないと言った。
 しかしそう言ってもらえたところで、やはり不安が表に出ていたのだと思う。同じ場に居た五条くんは「大丈夫か?」と問いながら、私の顔を覗き込んだ。そして「代わりに俺が——」と言いかけたところで、彼にも与えられた仕事があることを思い出したのだろう。そちらの方が、私の実力じゃどうにもならない依頼だった。
 だから私は「大丈夫だよ」と返した。不安を無理矢理押し込めたせいで、少し表情が引きつったかもしれない。それ故だったのか、彼は大きな手を肩に置き私を引き寄せながら「何かあったらすぐに連絡して」と、安心を与えるような声で囁いた。
 普段から距離の近い人だけれど、正直これには普段よりも大きく胸の鼓動が波打った。



 任務へ同行することになったのは、初めましての大人の術師だった。その人はひとまわり以上年上の男性で、緊張した私を見兼ねたのか任務へ向かう車内では後部座席で隣へ腰掛け、優しい声色で話しかけてくれた。
「へぇ、一般家庭出身なんだ。ちなみに地元は?」
「僕の術式範囲はおよそ半径三メートルだけど、近くに居れば居るほどその効果は増幅するから、なるべくそばを離れないでね」
 最初は自己紹介を兼ねたような話題が多かった。それから任務へあたり、今回の私の役割と彼の術式についての説明があった。しかし途中からは、任務とはまるで無関係の答えに困るような質問ばかりになっていった。
「懇意にしている術師はいないの?」
「じゃあ五条くんや夏油くんとは、どういう関係?」
「今、恋人は?」
 ミラー越しに運転席の補助監督に視線をやるも、我関せずと言った顔で運転を続けている。あやふやに笑ってやり過ごすにも限界があり、私は一秒でも早く任務先に到着することばかりを願っていた。
「綺麗な手だね」
 すると突然、スカートの上で無意識的に握っていた左手を持ち上げられる。私は車に乗り込む前の、頭のてっぺんからつま先まで見定めるような彼の視線を思い出した。
「そんなに気負わなくても大丈夫だよ」
 彼はそう言いながら、両手を使い私の強張った指先を解いていく。悪意は無いはずなのに、私はその動作を好意的に受け取ることが出来なかった。
 そして嫌な予感は的中する。前の現場からこちらへ急行してくれた夏油くんのおかげで、幸い未遂のような形で終わったものの、帷が下りて完全に二人きりになったところで彼は私に迫ってきた。
「お願いっ、このことは誰にも言わないで……!」
 私は夏油くんに懇願する。誰にも——と口では言いつつ浮かんでいたのは五条くんの姿で、一番の最悪は彼にこの出来事を知られることだった。
「分かった。でも担任にだけは報告しておいた方がいい。今後のことがあるから」
「うん、そうだね……。ありがとう」



 それから数日が経過した。迷ったけれど、夜蛾先生には私の口から掻い摘んだ事実を伝えた。同じように懇願すると先生は、生徒のプライバシーを守るのは当然の事だと言ってくれたので、ひとまず安心した。そのうえで、今後私をあの術師とは絶対に同じ現場に派遣しないと約束し、報告書には嘘の内容を記すことになった。
 休日を挟んだので、登校するのは三日振りである。夏油くんにはメールでお礼を伝えたが、改めて直接伝えられたらと思っていたので今日はいつもより早めに寮を出た。
 廊下の角を曲がり、教室が見えると自然と足取りが速くなる。夏油くんが本気で心配してくれたからこそ、あの件を大ごとにはしたくなくて、きちんと彼に向けて私は大丈夫だと自分の口から伝えたかった。
「おはよう、……早いの珍しいね」
 しかし扉を開けると、今日の一番乗りは文庫本を開く黒髪の彼ではなく、菓子パンを手に持った白い頭の彼だった。その瞬間から、また心臓が大きな音を立てドクン、ドクンと鳴り響く。夏油くんや先生のことを疑う訳ではないが、絶対にあのことを五条くんの耳には入れないでほしいと再度泣きたくなった。
「昨日急遽泊まりになってさ、窓の人に高専まで送ってもらってそのまま教室来たの」
「お疲れさまだね。今日はお休みじゃなくていいの?」
「充分寝たし大丈夫」
「でも無理はしないでね」
 私はきちんと笑えているだろうか。定位置である彼の隣の机へ鞄を掛けて私も席についたのだが、やはり落ち着かない。目線を落とすと、指先は震えていた。
「もう一個あるんだけど、オマエも食う?」
「私は朝しっかり食べてきたから大丈夫だよ」
 しかし彼の態度はいつもと変わらなかった。食べかけの菓子パンを手に持ちながらこちらに視線を向ける五条くんは、体格のわりに仕草が幼くてやっぱり可愛い人と思った。すると次第に私も平常心を取り戻していく。彼は何も知らなくていい。
「なんか元気なくない?」
 だから彼の口からそんな言葉が出るとは思ってもいなかった。体内からガラスにヒビが入ったような音がした。私は頭の中が真っ白になって、うまく返事が出来ない。その間にもいつもするように、五条くんの優しい手が背中に触れ、屈んで私の顔を覗き込む。
「ゃっ、」
 私は反射的に五条くんのことを押し退けていた。彼の手はあの人とは違う。だけど五条くんと同じくらい大きな手が強引にボタンを外し、シャツの中にまで這入り込んできたときの事と重ねていた。
「っ、ごめんなさい」
 五条くんは驚いた顔のまま、私を見ている。けれどこの行動の理由をちゃんと説明出来なくて、私は逃げるように教室をあとにした。
#前編