教科書とノートを仕舞おうと鞄に腕を伸ばすと、少し動いただけなのに木製の椅子が鈍い音を立て軋む。彼に向けてあんなことをしてしまった手前非常に気まずいのだが、五条くんの言葉を都合良く解釈してしまってよいのかという葛藤もあり、私は席を離れられないでいた。
今日のところは寮の自室へ逃げ込んで、明日になって私から五条くんへ普通に挨拶をすれば、きっと全てがあやふやになって過ぎ去っていくのだろう。けれど僅かな希望に縋る私は、それが出来ないでいた。
「あー…、その。俺がさっき言ったことなんだけど」
「!うん」
私は扉の方を向いていたため、背中に話しかけられる。改めて、同じく席についたままの五条くんに向き合うと、いつにもなく弱い語気が彼の外面にも表れていて、大きな身体が少しだけ小さく見えた。
「違った?」
「ち、違くないよ!」
慌てて否定したせいで、変な言葉になってしまったけれど嘘ではない。さっきだって先日の件を思い起こさせただけで、私は今まで五条くんに触れられて嫌だと思ったことは一度もなかった。
逆光でも、私はどこか熱のこもった彼の表情をしっかりと捉えている。何かを言いかけて、五条くんは口を噤んだ。けれど彼の形の良い唇が、もう一度薄く開く。
「……さっきはあんな言い方だったけど、俺はずっとオマエのこと——。
……アイツら多分聞き耳立ててる」
「えっ、」
「他の場所行くぞ」
すでに周囲を警戒しながら動き出している五条くんは、私の手首を掴み立ち上がるよう促した。目線の先で、大きな手が私の手首を一周している。彼の俊敏な動作に反応が遅れたが、また私はあの人にされた車内でのことを反射的に思い出していた。
「……俺、なにかした?」
気がついたときには、自分の胸の前に手首を持ってきていた。私は重ねて彼を拒絶し、まるで自分の身を守るような格好をしていたのだ。
「違うの!五条くんは何も悪くなくて、これは私の問題で——、」
弁解したいのに言葉が続かない。もっと危惧すべきことがあるはずなのに、私はあの日のことを彼に知られてしまうことが何より恐ろしかった。
五条くんが深い息を吐くと、目頭の奥が熱くなった。サングラスの奥の瞳は見えない。私は間違えてばかりだ。
「勝手に触ってごめん。でも俺のことはなまえからは自由に触っていいよ」
しかし五条くんは両手を大きく広げてニカっと笑った。私が一歩、また一歩と足を踏み出すと、すぐに視界は彼の白いシャツでいっぱいになる。
五条くんが人を問わずにしていることだったとしても、私は彼に触れてもらえることが特別に嬉しかった。それは私だけの感情だと思っていたし、精いっぱい隠し通そうと誓っていた。けれど彼もずっと同じ気持ちだったのだと、鈍い私は今ようやく気付いた。
初めて私から五条くんを抱き寄せる。制服姿だと分かりにくいけれど、鍛えられた身体の線は太くて彼が異性なのだと再認識した。時間が経つにつれて人肌の温度が伝わってくる。そして「この場合、背中に腕を回すのはあり?」と、少し屈んだ彼は私の耳元で囁いた。
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五条くんは私を抱き上げて、教室の窓から抜け出した。向かった先は慣れた寮だったけれど、いつものちゃんとした入口じゃなくて、誰にも会わないまま窓から彼の部屋へお邪魔することになった。五条くんの部屋に入るのは初めてではなかったけれど、それは私と他の誰かがいるときだった。
靴を脱がせてもらってから、ぽすんと彼のベッドに降ろされる。すると五条くんの整った顔が迫るにつれてゆっくりとシーツに押し倒されていき、最終的に彼は私に覆いかぶさった。
「なんか隠してる?」
鼻先がぶつかりそうなほど近距離で、彼は私に問う。逃げることも、ごまかすことも出来ないだろう。私は心を落ち着かせるために、ゆっくりと深い息を吐いた。
「……嫌いになっちゃうかも」
「ならねーよ」
「面倒くさい女だって」
「手間かかってカワイイだけ」
流れ落ちる涙を、優しくて大きな親指が拭う。動作は落ち着いているのに、五条くんの心音は私より速かった。それゆえに、どんどんと彼の表情が曇っていく。夜蛾先生に伝えたときと同じく私が掻い摘んだ事実だけを話すと、五条くんはやっぱりこわい顔をした。
「もう本当に大丈夫だから、怒らないで」
今度は私が彼の両頬に手を添える。そうすると、五条くんは怒りをおさめるように一度だけゆっくりと瞬きをしたあと、私の肩口に顔を埋めた。
「もっとなまえに触りたい。全部俺が触って、全部俺だけのものにしたい。……いいよな」
もう私は彼を拒んだり出来なかった。私達は誓いのキスをした。
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「ふーん、それで手なんて繋いで登校してきたんだ」
「恥ずかしいから言葉にしないで……!」
「恋人同士ってそういうんじゃねぇの?」
「合ってるけど、違うの!」
あれから悟くんはもっと私に触れることを躊躇わなくなった。二人きりで歩いていたら必ず手を繋ぎたがるし、日々のスキンシップも厭わない。お泊まりの日なんかは、離れている時間の方が少ないくらいだ。
もともと距離の近い人だったから、その延長線かなあくらいに思っていたのだが「俺だって人を選ぶし、オマエだからそうしてただけ」と、そのときは拗ねてしまった。多分私が悪い。
「これでも今まですっげー我慢してたんだよ、俺。もっと堪能させて」
今も背後からお腹に回された手を振り解こうとしたのだけれど、私の非力な腕力ではとても叶わない。夜蛾先生からも清い男女交際を、と釘を刺されてしまった。形ばかりの抵抗になっているのは、きっとみんなにバレている。