通話を終え未だ慣れない報告に、思わずふぅと吐息が漏れる。私が窓と呼ばれる協力員になってから、かれこれ一ヶ月が経過しようとしていた。
きっかけは巻き込み事故のようなものだったので割愛するが、幸いにも私は日常に戻ることが出来た。しかし、その副作用とでも言うべきか。事故のあと、今まで存在すら知らなかった呪いと言われるものを、私は完全に視認出来るようになってしまっていた。
当たり前のように生きてきた世界に、あんな化け物が居たことすら未だに受け入れきれていない私は、大層な幸せ者だったのだろう。それでも人は過去には戻れないし、未来へ向けての歩みを止められない生き物だ。
知識を得る対価として、呪術高専という組織は私に仕事を与えた。その内容は、日常生活を送るなかで呪霊やそれに似た良くない存在を目撃し次第、高専関係者に即時連絡するという最低限の人助けである。救われた私に拒否など出来るはずもなかった。
近隣のビルの珈琲チェーンに入り、二階の窓際の席から交差点を見下ろす。身の安全を確保したうえで、術師や補助監督といった呪いに対応できる人間が到着するまで、標的を見失わないようにするのも私の仕事だ。だがああいう良くないものは、視認しているこちらの存在に気付くと襲ってくる可能性もあると習ったので、あまり意識を向けすぎてはならない。緊張感で口をつけられていない手もとのアイスコーヒーからは、氷が溶けてグラス内でカランと音を立てた。
「……もしかして、通報したのなまえさんですか?」
「!伏黒くん」
まだ報告を入れてから、ものの数分しか経過していないはずだ。いくらなんでも早すぎると不自然に思っていたら、若いのに察しの良い彼は「他の任務で近くにいたんで、俺に連絡が来たんです」と、ボソッと口にした。あまり愛想のないところは年相応と言えるだろう。
「あの交差点の中心にいるので間違いないですか」
「うん、でも上から何かに吊られているみたいで」
横断歩道を渡るとき、呪霊の背中に数本の細い糸のようなものが見えた。そのあと少し離れた位置から糸の先を追っても私では視認出来なかったので、本体は虫のような小さな姿をしているのかもしれない。私は彼らとは違い視覚情報が全てで、気配を読むようなことは出来ないのだ。
「下のヤツは囮かもしれませんね。攻撃範囲も分からないんで、念のため一緒に来てもらってもいいですか」
彼が高専関係者へ連絡を入れる時間で、私は急いでアイスコーヒーを啜る。しかしこれだけ人の往来があるなか、異形と呼ばれる存在が堂々と鎮座する現実に改めて恐怖を感じた。
:
おや、部屋の鍵が開いている。恐るおそる玄関扉を引くと、狭い場所なのに目いっぱい腕を広げた彼が待ち構えていた。
「おかえりなまえ!」
「た、ただいま」
勢いに押されつつも一歩踏み出すと、靴を脱ぐより先に悟さんに抱きしめられた。汗もかいて帰ってきたのでやめてほしかったが、すぐにがっちりとした腕を背中まで回されたので身動きが取れない。そのうえ少し背を丸めた彼は私の首もとに顔を寄せて、くんくんと匂いを嗅いでいる気がする。
「外にいて汚いし、くすぐったいから……」
「恵かな?」
「!」
「僕、目だけじゃなくて鼻も利くんだよね」
望み通り身体は離されたが、今度は手を繋がれた。雑に脱がざるを得なかった外履きを揃える隙も与えず、悟さんに引かれて部屋の中へと進んでいく。私が借りている部屋だけど、主導権は完全に彼にあった。つまり言い訳はさせてくれそうにもない。
「頑張るのはいいけど、危ないことはしてほしくないなあ」
ソファーに向かい合って座らされて、大きな手だが器用にひとつひとつ仕事着のシャツのボタンを外していく。それを他人事のように目線で追っていると、その指先がうつむいた私の顔を上げさせた。
「返事は?」
「以後気をつけます」
私の返事に満足したのだろう。白い睫毛が伏せられたと思ったら、私の上唇にふわりとキスが落とされた。もう仕事も辞めてほしいな、という呟きには返事をしなかったが。
あの日、私は呪霊の他にも知ってしまったことがある。私を救った彼は言った。愛ほど歪んだ呪いはない、と。