書類提出のため補助監督の執務室に寄ると、若い女の子から「五条さんも良かったらどうぞ」と、その場に居た人間で分け合っていたであろう菓子を差し出された。箱の中に整列する包み紙は酒のボトルが描かれていて「ウイスキーボンボンですけど大丈夫ですか」と、付け足される。
 僕は自他共に認める下戸であるが、先月配属されたばかりというこの子は知らないようだ。しかしウイスキーといえど所詮チョコレート菓子だし、ちょうど脳が甘いものを欲していたし、と手を伸ばしたのだが。もの凄い剣幕でこちらへ走ってきた伊地知によって阻止されてしまった。
 これから任務があることは僕も分かっている。加減が狂うような万が一があってはいけない、とも。
 それでも『一度手に入れかけたのに取り上げられたもの』だと思うと、仕様もない執着を捨てきれなくて。僕は伊地知の上からひょいと銀包みをひとつ摘み上げた。
 慌てた二人には「終わったら頂くよ」と宣言をして、僕はウイスキーボンボンを上着のポケットの中に仕舞ったのだった。



 そんなことも忘れた頃。日付を跨ぐと思われていた仕事が案外早く切り上げられたため、僕は帰路へつく車内から部屋で待つ幼い婚約者に一報を入れた。するとすぐに返信がきて、食事の有無を問われる。
「やっぱり変更」
 僕はコンビニを見つけ次第入れと言った自身の発言を撤回し、一分一秒でも早い帰宅を運転手の伊地知に命じたのだった。

「ただいま」
「おかえりなさい」
 出迎えてくれたなまえのふにゃりと笑う顔を見た瞬間、それほど疲労はなかったはずなのに、なぜか肩がスッと軽くなった。身支度を整えて食卓テーブルにつくと、結構な品数の料理が並べられる。
「ありがとう、オマエはもう食べたよね」
「はい、申し訳ないですけどお先に頂きました」
「いつも言ってるけど、僕のこと待ってたら何時になるか分からないから」
 申し訳なさそうに答えるなまえのエプロンの裾を引っ張ると、隣の席へちょこんと腰掛けてくれた。そして食事を始めながら、彼女のクラスメイトでもある僕の受け持ちの生徒達の近況を尋ねると、嬉しそうに答えてくれる。
 それでも客観的に見れば、僕が婚約者という立場を利用してこの子に食事まで用意させたうえ、教職者の癖にこんな時間になってもまだ学生を付き合わせているという図が完成してしまうのだろう。自己嫌悪まではいかないが、珍しくちょっとした罪悪感を胸に抱いた。だから僕もらしくない行動をとったのだと思う。
「そういえばチョコあるよ。食べる?」
「良いんですか?」
「うん、どうぞ」
 記憶を辿りながら僕は上着の右ポケットに手を突っ込み、なまえの小さな手のひらの上に貰いものである銀包みのチョコレートを置いた。あのときあれだけ執着していたとは思えないほど、あっさりと手放せてしまった。
 少女は僕の表情を窺いながら、包み紙を開けて菓子を小さな口に含む。ひと口、ふた口と食べ進められていったのだが、どうも反応がよろしくない。なまえも僕と同じく甘党で、いつもは口に含んですぐ顔を綻ばせるのだが——。あ、そうだ。忘れてた。彼女はすでに咀嚼し飲み込んでしまったようであるが、僕は白状する。
「ごめん、それウイスキーボンボンだ」
「それで——。すみません、少し苦くて。はじめて食べる味でした」
「あんまり得意じゃなさそうだね。口直しにアイスか何か食べたら?」
「大丈夫ですよ。それにもう夜も遅いので」
 なまえはそう言いながら、ぱたぱたと両手で顔を仰ぐ。まさかとは思うが。
「あれ?なんか顔赤くない?」
 何度も言うが、ウイスキーボンボンなんて名称がついていようと所詮は誰でも買えるチョコレート菓子だし、未成年に食べさせてはならない訳ではなかったはずだ。しかし、そのうち彼女の表情までとろんと蕩けてくる。僕の認識が甘かったのか?
Blood moon @