「ただいま」と控えめな声で己の存在を知らせるも、どの方向からもレスポンスはない。
靴を揃えて室内に上がると、錠がされていなかったのに廊下も部屋も真っ暗で、そこには誰もいなかった。何度か手探りで壁を叩いたあと、ようやくスイッチに触れる。
リビングの灯りをつけると、微かに人の気配が残っていて、奥のキッチンには中途半端に調理された料理と、食材のまま放置されている生鮮食品があった。この状態を見て、多分居るなと俺は察した。
なまえさんは料理中何かが足りない事に気付いたとして、肉を冷蔵庫に戻さずに、あるいは包丁をまな板の上に置いたまま、出掛けるような女性ではない。
もしも強盗の類に侵入されていたとしても、暴れに暴れる彼女を拐った現場がこれほど整った状態で残る事はまず有り得ないだろう。俺でも手を焼くような大人の女である。
当たりはついているので、外着である上着を羽織ったまま、俺は二階へと続く階段に足をかけた。
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階段をのぼりきったところで、ここも照明が漏れ出す部屋はひとつもない。しかし迷いなく、俺は寝室へと踏み入れる。
薄暗いまま真っ直ぐ窓際へと向かい、隙間なく閉められたカーテンの間に手を入れ、窓枠に触れる。そして室内からベランダへと続く大きな窓を、俺は開けた。
「なまえさん、こんな真っ暗がりで何してるの?いつから居るの、冷えるよ。……て」
台詞と共に顔を覗かせ、最初に姿を捉えたのは、暗闇のなか彼女の口の先にある橙色の小さな光だった。それに続くようにして風が止み、今度は鼻が独特の甘苦い香りをひろう。
「……珍しいね」
「まあね」
ふう、と煙を吐き、彼女は言った。
外ではどうか知らないが、なまえさんに家の中での喫煙習慣はない。だけど時たま、多分だけど帰宅しても、どうしようもなく嫌な事ばかりを考えてしまう時、彼女はこうやって一人ひっそりとベランダに出て煙草を吸う。
止めろとは言わない。いや、言えないといった方が正しい。
『そんなこと考えたって仕方ないじゃん』だっただろうか。以前、酷く落ち込んだ彼女を自分が突っぱねてからこうなった。
だから身体に悪いとか最もらしい理由を持ち出したとしても、俺には何も言う資格がない。
「吸殻、そのままにしちゃ駄目だよ。ちゃんと片して下まで持ってきてね」
「わかった」
乗り出した身を引き、俺はそっと窓を閉めた。